「ヘンリクス研」カテゴリーアーカイブ

ヘンリクスのesse essentiae(パウルス本その1)

1930年代の古い研究書だけれど、ジャン・パウルス『ゲントのヘンリクス−−その形而上学の諸傾向に関する試論』(Jean Paulus, Henri de Gand – Essai sur les tendances de sa métaphysique, Vrin, 1938)を読み始めたところ。パウルスはベルギーの研究者で、指導に当たったらしいエティエンヌ・ジルソンが冒頭の序を記している。ヘンリクスの思想体系をまとめようとしている著作で、まだ序論と第一章の途中まで読んでみただけだけれど、どこかジルソンのスコトゥス論に似た空気を感じさせる(笑)。

ヘンリクスの議論は基本的に、トマス的な捨象の認識論(つまりはアリストテレス的ということだが)にアウグスティヌス的な照明説を重ね合わせたものとされるのだけれど、この簡素な言い方では、実際にどのようにしてそれらの重ね合わせが可能になっているのかがわからない。なにしろアリストテレスの外部世界からの帰納論と、アウグスティヌス的な内在論とは、もともと相反するものでしかないからだ。ヘンリクスはいかに両者を和解させるのか。これが同書の出発点となる問い。それはあるいは、感覚の受理と内在的な知性とがどう接合させるかという問題にもなる。で、著者はまず、ヘンリクスの認識論へと踏み込んでいく。

最初のポイントとなるのは、アリストテレスの『分析論後書』で示される認識論(名目的定義をもとに、感覚を通じて対象の実在を把握するという流れ)に、ヘンリクスが加えているという変更。アリストテレスは、厳密には認識とは外部に実在する事物を把握するところから始まると考えるのに対して、ヘンリクスは概念的内容(名としての定義)の把握から始まると考えており、外部に実在するかどうかはその後で検証されるのだとする。ではどう検証するのか。ヘンリクスはこう考える。知性は、名目的定義の内容に、知性がもとから持っている存在の概念、事物の実在概念とを対峙させ、それが一致すれば対象の実在が確定する、と。でもこれでは、名目的定義の内容(すなわち本質)に真偽を分ける何かがなくてはならないことになる。で、ここで登場するのが、例の、実在となる以前に本質がすでにしてもっている「存在」、いわゆる「本質的存在(esse essentiae)」ということになる。

前に見たリチャード・クロスの論文では、ヘンリクスの「本質的存在(esse essentiae)」を、従来の外界的事象と精神的事象の中間物だと解釈するのは間違いで、むしろそれは神の知性の中にある状態での存在の意ではないかと主張していた。この点についても改めて考えてみたいところだけれど、これはまた後で。いずれにせよパウルスのこの本では、それは存在論プロパーではなく認識論から提出された考え方であることが強調されている。また、これがデカルトの「対象的存在(esse objectivum)」の先取りであるとして、プラトン、アヴィセンナ、ヘンリクス、デカルトという系譜を指摘したりもしている。同書のこの話、感覚がどう関わってくるのかとか、それがどう対象の実在の把握に結びつくのかとか、当たり前だけれどまだまだ先は長い……。

ヘンリクスと照明説

スティーヴン・マローネ「ゲントのヘンリクスとドゥンス・スコトゥスの存在認識論」(Steven P. Marrone, Henry of Ghent and Duns Scotus on the Knowledge of Being, Speculum, Vol.63 No.1, 1988, pp.22-57)の前半(主にヘンリクスを扱った部分)に簡単に目を通す。これ、ジルソンやベットーニが練り上げたヘンリクスとスコトゥスの対立関係を相対化しようという試みの一つらしく、照明説を挟んでの両者の関係を再検討しようとしている。

アウグスティヌス主義の照明説は、ボナヴェントゥラ(やペッカム、アクアスパルタ)の素朴な立場を別にすると、大きく三つの議論から成る。神の光は(1)人間の認識の確実性を保証する、(2)普遍の真理を人間が知ることができる、(3)魂が神のもとへと向かう道筋を描く(神を認識する)、といった議論だ。ヘンリクスはそのうち少なくとも(1)と(3)は区別して考える必要があるとし、(1)では神は認識の手段をもたらしているのに対して、(2)では手段と同時に認識の対象(としての神)をも設定していると捉えている。そしてこの(1)について、スコトゥスが批判を加えるのだという。つまりヘンリクスの手段としての神の光という議論では、人間が本性的に真理を知るという可能性が排除されてしまうほか、認識の必然という避けるべき議論が温存されてしまうということになる。こうしてスコトゥスは(1)を斥けるのだけれど、結果的にこの照明説全体を斥けているような印象にもなった。けれどもそうなると、(3)の神の認識を担保するものがなくなってしまう。この穴を埋めるためにスコトゥスが持ち出してくるのが、存在概念の一義性という議論で、そこでは被造物の知識から引き出された存在概念が、神に対しても適用されうることになり、人間は神をも知の対象に据えることができるようになる……。

とまあ、これがジルソンとベットーニによるヘンリクスとスコトゥスの関係の一端だというわけだが、論文著者はその影響関係をもっと複雑で微妙なものだと論じていく。人間がもつ神の概念の生得性、ヘンリクスの上の(1)と(3)の区別の詳細、ヘンリクスの思想的変遷など、吟味し直すべき課題は多いとされ、結果的にヘンリクスとスコトゥスの議論がパラレルであることが見過ごされているとしている。スコトゥスの主張の多くが意外にヘンリクスに根を持っている、というわけだ。著者はヘンリクスの思想的変遷を視野に入れながらアプローチしていくのだけれど、それによると、ヘンリクスの照明説は後年にいたるほど縮小していき、むしろアリストテレス的というか、スコトゥス的な方向性を歩み出していくのだという。で、上のスコトゥスのように、ヘンリクスも自説の変化の「穴埋め」をしなくてはならなくなったのではないか、スコトゥス以前に、すでにして「存在としての神」を被造物の存在から出発してアクセスする方途を探っていたのではないか、という話になっていく。とはいえ、そこには当時一般に受け入れられていた存在のアナロギアの議論が立ちふさがり、アクセスを阻んでいる。これを乗り越えるべく、ヘンリクスが持ち出すのが、前回も出てきた「中間的な存在」、本質的存在の議論なのだという。本質というレベルは神の中にあり、したがってあらゆる本質は神的なアクセスをおのずと含んでいるのだ、と……。うーむ、個人的にヘンリクスの神の存在証明については以前少しだけ囓ったことがあるのだけれど、こういう議論を見たからには、それを念頭に見直してみるのも面白いかも。そのうちぜひ行おう。

ヘンリクスと「非在のもの」?

再びヘンリクス研。ヘントのヘンリクスは「実在的存在(esse existentiae)と「認識的存在(esse cognitum)」のほかに、「本質的存在(esse esentiae)」を区別しているというのだけれど、この表現のせいか、ここにあらぬ誤解があったのではないか、というリチャード・クロスの論文をざっと眺めてみた(プリント版をちゃんと読んだわけではなく、怪しげで読みにくいOCRのテキスト(?)を文字通り眺めただけ(苦笑)。これ、著作権的に難あり?)。モノは「ヘントのヘンリクスによる非在の可能態の現実性−再考」という結構新しい論文(Richard Cross, Henry of Ghent on the Reality of Non-Existing Possibles – Revisited, in Archiv für Geschichte der Philosophie, Vol. 92(2), 2010)。ここで誤解だとされているのは、ヘンリクスが本質的存在という概念でもって、知性的な理解の中だけに存在する事物と、外界に実際に存在する事物との中間にあたる、第三の存在(神の知性に存在し、実在にはいたっていないもの)を想定しているという解釈だ。たとえばジョン・F・ウィップルの81年の論文などは、ヘンリクスの第9自由討論の最初の2つの問いを用いて、この解釈を練り上げている。ヘンリクスは、神は事物の形相因でも作用因でもあるとして、前者が本質的存在、後者が実在的存在を導くとしている。被造物は神の知性において「対象として」思い描かれるので、いわば神とのある種の関係性をもっている。で、そこには可能性として思い描かれながらもいまだ実在として個別化してはいないものも含まれる。ここから、神の知性における事物のあり方を本質的存在と称するなら、そうした非在の可能態も、ある種の「外在する可能態」としての地位にあるという解釈が成り立つ。これはまさに非在物も含めた第三の存在様式ではないか、と。

で、実はこれ、ヘンリクスを批判的に取り上げたドゥンス・スコトゥス以来、いわば伝統的解釈となって長い系譜を誇っている見識なのだそうだ。スコトゥスはそのように解釈されたヘンリクスの議論に対して、かかる本質的存在は、結局個別化された実在する事物にしか存在せず、中間態などないと批判しているらしい。けれども、そもそもそうしたヘンリクス解釈自体は間違いだと論文著者のクロスは述べる。ヘンリクスは純粋に神の知性の中での存在として本質的存在という言葉を用いているのではないか、本質的存在とはあくまで原因(形相因または作用因)としての神との関係性にほかならず、そこに存在論的な契機はないのではないか、というわけだ。うーん、個人的にはまだその議論の是非を問える立場にはないのだけれど(ヘンリクスの原テキストもちゃんと見ていないし……)、いずれにしてもそうした別様の解釈(スコトゥス的でない解釈)にも若干の前例があるようで、それまた些細ながら系譜をなしているらしく、このあたりはなかなかに興味深い。ちゃんと検証してみたいところ。問題になっているのがやはり神学的な解釈・議論であることにも改めて注目しよう(笑)。

スピノザとヘンリクス……

スピノザの形而上学。そこで有名と言われるのが属性概念に関する解釈の対立だ。スピノザの場合の属性というのは、実体において本質を構成するものとされるけれど、これをめぐり、属性は概念的にのみ区別されるとするのが主観的解釈で、いやいや属性はそのものとしてあるような区別されるものなのだ、というのが客観的解釈だと言われる(この属性論争については松田克進「スピノザ解釈史における「属性」論争」(PDFはこちらという論考があり、とても参考になる)。で、この大きな対立について、ヘントのヘンリクスやドゥンス・スコトゥスを参考にして一石を投じよう(笑)という論考を読んでみた。ジェイソン・ウォーラー「スピノザの属性と、ヘントのヘンリクス、ドゥンス・スコトゥスにおける「中間的」区分」というもの(Jason Waller, Spinoza’s Attributes and the “Intermediate” Distinctions of Henry of Ghent and Duns Scotus, Florida Philosophical Review, Vol. IX, issue 1, summer 2009)(PDFはこちら。要するにこれは、スピノザが考える属性が、実は13世紀のスコラ哲学で考察されていた「中間的」区分、すなわち実際の区別よりは「弱い」ものの概念的区別よりは「強い」という中間的なものを設定しようという立場、とくにヘンリクスの立場に意外と近いのではないかという話。そう考えると、主観的解釈・客観的解釈それぞれの不備が解消されるのではないかという次第だ。ま、この話の是非はスピノザの研究者に任せるほかないのだけれど、個人的に面白いのは、論考の論旨そのものからすればズレるけれど、そこで引き合いに出されているスコトゥスとヘンリクスのそれぞれの違いのほうだったりする(笑)。

実在的には同一と見なされるのに知性による理解としては区別されるようなもの、たとえば実体における存在と本質でもよいし、神学的には三位一体でもよいのだけれど、ヘンリクスはそういうものについて「志向的区別」という概念を提示する。これは対象の実在性をベースにした考え方のよう。存在と本質はこれで説明できるというわけか。対するスコトゥスは、そうした志向性の区別を考える上で実在性をベースとするのは不十分だとし、おそらくは三位一体までをも考察しようと「形相的区別」を唱える。区別は形相つまり定義の違いに還元される。スコトゥスは外部世界と概念世界にある種の同形性を見ようとするというわけか。両者の議論の力点の違いが興味深い。

ヘンリクスの個体化論

オリヴィやスコトゥスなどの13世紀以後のフランシスコ会系の論者を考える上で、少なからず重要なのがガン(ヘント)のヘンリクスらしい。例の山内志朗氏の『存在の一義性を求めて』でも、スコトゥスは「師事」したヘンリクスを批判的に乗り越えようとしているとしているし、先日のジョルジョ・ピニの論考でも、ヘンリクスは言葉が概念ではなく外界の事物を直に表す記号だとしている点はスコトゥスに通じるものもあるものの、一方では理解の様態と意味作用の様態との並行関係(理解の精度が増すほどに意味の精度も増すというもの)を主張し、その点でスコトゥスとは対立するのだという。なるほど、そのあたりも含めてヘンリクスについても多少囓っていく必要がありそうだ。

というわけで、早速マルタン・ピカヴェ「ガンのヘンリクスによる個体化」(Martin Pickavé, Henry of Ghent on Individuation, The Proceedings of the Society for Medieval Logic and Metaphysic, volume 5, 2005)という論考に目を通してみた。ヘンリクスによる個体化論は、『自由討論集』(Quodlibet)2巻の問題8や、5巻の問題8、11巻の問題1などに散見されるといい、特に2巻の問題8では、物質的形相においては質料(量のもとに置かれる)によって個体化がもたらされること、また非物質的形相(天使とか)においては神が作用因となって個体化がもたらされることを論じているという。ところが著者によると、これは「コインの表裏の片方」でしかないのだそうだ。というのは、5巻の問題8(と11巻の問題1)においては、それとは異なる、個別化の原理としての否定という別筋の議論が示唆されているからなのだそうで。個別化をもたらす原理は肯定的・実体的な関係ではなく、否定的なもの、内部からは多様化の可能性を取り除き、外部からは同一化の可能性を取り除くという否定的な作用にほかならないということらしい。うーん、これはちょっとよくわからない議論なのだけれど、著者によると、この二重の個体化論のそちら否定的側面は、あまり取り上げられてこなかったという。

ちなみにオンラインで入手できるヘンリクスのテキスト(とりあえずまとまっているのはこちら→Henry of Ghent Series)には、『自由討論集』の2巻はあるのだけれど、5巻や11巻はまだなく、残念ながらチェックすることができない(でも公開準備はしているのかな?)。その『自由討論集』2巻の問題8というのは、「神は二体の天使を実体のみによって区別しうるか」(Utrum posint fieri a Deo duo angeli solis substantialisbus distincti)というもので、「これは本質において分割不可能な単一のものが、どのように数の上で(個的に)複数をなしうるのかという問題だ」とした上で、ヘンリクスはアリストテレス『形而上学』12巻の「複数であるものは、すべて質料を有する」という一節を解釈し、アヴィセンナを引いて、質料はもとよりそれが従属する量(形相が規定する)によって分割可能なものであり、したがって物質的な形相は質料を有することによって複数化されることになる、としている。