1930年代の古い研究書だけれど、ジャン・パウルス『ゲントのヘンリクス−−その形而上学の諸傾向に関する試論』(Jean Paulus, Henri de Gand – Essai sur les tendances de sa métaphysique, Vrin, 1938)を読み始めたところ。パウルスはベルギーの研究者で、指導に当たったらしいエティエンヌ・ジルソンが冒頭の序を記している。ヘンリクスの思想体系をまとめようとしている著作で、まだ序論と第一章の途中まで読んでみただけだけれど、どこかジルソンのスコトゥス論に似た空気を感じさせる(笑)。
再びヘンリクス研。ヘントのヘンリクスは「実在的存在(esse existentiae)と「認識的存在(esse cognitum)」のほかに、「本質的存在(esse esentiae)」を区別しているというのだけれど、この表現のせいか、ここにあらぬ誤解があったのではないか、というリチャード・クロスの論文をざっと眺めてみた(プリント版をちゃんと読んだわけではなく、怪しげで読みにくいOCRのテキスト(?)を文字通り眺めただけ(苦笑)。これ、著作権的に難あり?)。モノは「ヘントのヘンリクスによる非在の可能態の現実性−再考」という結構新しい論文(Richard Cross, Henry of Ghent on the Reality of Non-Existing Possibles – Revisited, in Archiv für Geschichte der Philosophie, Vol. 92(2), 2010)。ここで誤解だとされているのは、ヘンリクスが本質的存在という概念でもって、知性的な理解の中だけに存在する事物と、外界に実際に存在する事物との中間にあたる、第三の存在(神の知性に存在し、実在にはいたっていないもの)を想定しているという解釈だ。たとえばジョン・F・ウィップルの81年の論文などは、ヘンリクスの第9自由討論の最初の2つの問いを用いて、この解釈を練り上げている。ヘンリクスは、神は事物の形相因でも作用因でもあるとして、前者が本質的存在、後者が実在的存在を導くとしている。被造物は神の知性において「対象として」思い描かれるので、いわば神とのある種の関係性をもっている。で、そこには可能性として思い描かれながらもいまだ実在として個別化してはいないものも含まれる。ここから、神の知性における事物のあり方を本質的存在と称するなら、そうした非在の可能態も、ある種の「外在する可能態」としての地位にあるという解釈が成り立つ。これはまさに非在物も含めた第三の存在様式ではないか、と。
スピノザの形而上学。そこで有名と言われるのが属性概念に関する解釈の対立だ。スピノザの場合の属性というのは、実体において本質を構成するものとされるけれど、これをめぐり、属性は概念的にのみ区別されるとするのが主観的解釈で、いやいや属性はそのものとしてあるような区別されるものなのだ、というのが客観的解釈だと言われる(この属性論争については松田克進「スピノザ解釈史における「属性」論争」(PDFはこちら)という論考があり、とても参考になる)。で、この大きな対立について、ヘントのヘンリクスやドゥンス・スコトゥスを参考にして一石を投じよう(笑)という論考を読んでみた。ジェイソン・ウォーラー「スピノザの属性と、ヘントのヘンリクス、ドゥンス・スコトゥスにおける「中間的」区分」というもの(Jason Waller, Spinoza’s Attributes and the “Intermediate” Distinctions of Henry of Ghent and Duns Scotus, Florida Philosophical Review, Vol. IX, issue 1, summer 2009)(PDFはこちら)。要するにこれは、スピノザが考える属性が、実は13世紀のスコラ哲学で考察されていた「中間的」区分、すなわち実際の区別よりは「弱い」ものの概念的区別よりは「強い」という中間的なものを設定しようという立場、とくにヘンリクスの立場に意外と近いのではないかという話。そう考えると、主観的解釈・客観的解釈それぞれの不備が解消されるのではないかという次第だ。ま、この話の是非はスピノザの研究者に任せるほかないのだけれど、個人的に面白いのは、論考の論旨そのものからすればズレるけれど、そこで引き合いに出されているスコトゥスとヘンリクスのそれぞれの違いのほうだったりする(笑)。
というわけで、早速マルタン・ピカヴェ「ガンのヘンリクスによる個体化」(Martin Pickavé, Henry of Ghent on Individuation, The Proceedings of the Society for Medieval Logic and Metaphysic, volume 5, 2005)という論考に目を通してみた。ヘンリクスによる個体化論は、『自由討論集』(Quodlibet)2巻の問題8や、5巻の問題8、11巻の問題1などに散見されるといい、特に2巻の問題8では、物質的形相においては質料(量のもとに置かれる)によって個体化がもたらされること、また非物質的形相(天使とか)においては神が作用因となって個体化がもたらされることを論じているという。ところが著者によると、これは「コインの表裏の片方」でしかないのだそうだ。というのは、5巻の問題8(と11巻の問題1)においては、それとは異なる、個別化の原理としての否定という別筋の議論が示唆されているからなのだそうで。個別化をもたらす原理は肯定的・実体的な関係ではなく、否定的なもの、内部からは多様化の可能性を取り除き、外部からは同一化の可能性を取り除くという否定的な作用にほかならないということらしい。うーん、これはちょっとよくわからない議論なのだけれど、著者によると、この二重の個体化論のそちら否定的側面は、あまり取り上げられてこなかったという。
ちなみにオンラインで入手できるヘンリクスのテキスト(とりあえずまとまっているのはこちら→Henry of Ghent Series)には、『自由討論集』の2巻はあるのだけれど、5巻や11巻はまだなく、残念ながらチェックすることができない(でも公開準備はしているのかな?)。その『自由討論集』2巻の問題8というのは、「神は二体の天使を実体のみによって区別しうるか」(Utrum posint fieri a Deo duo angeli solis substantialisbus distincti)というもので、「これは本質において分割不可能な単一のものが、どのように数の上で(個的に)複数をなしうるのかという問題だ」とした上で、ヘンリクスはアリストテレス『形而上学』12巻の「複数であるものは、すべて質料を有する」という一節を解釈し、アヴィセンナを引いて、質料はもとよりそれが従属する量(形相が規定する)によって分割可能なものであり、したがって物質的な形相は質料を有することによって複数化されることになる、としている。