「日曜哲学」カテゴリーアーカイブ

実在論の復権

現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ久々に青土社の『現代思想』(現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ)を読んでいる。先の千葉雅也氏のドゥルーズ論がらみだと思うけれど、クアンタン・メイヤスーとグレアム・ハーマンのそれぞれの論考が一つずつ掲載されていて、とりわけ面白い。どちらも「実在論」的なスタンスに立って、懐疑論的な問題を突き詰めていこうとしている感じ。メイヤスー「潜勢力と潜在性」(黒木満代訳)は、合理的な懐疑を突き進めていくと、法則が未来においても同一性を保持することを保証するものはない、というヒューム的議論(これって、クリプキなども同じような議論をしていたっけ)をもとに、そうした法則の必然性がまったくないということをあえて肯定するところから議論を進めようとする。するとそこから何が見えるか。合理を突き詰めた末に現れるのはカオス的世界なのだけれど、一方でそれは、確率論的な推論をことごとく失効させて、定数の可能的変化が定数の「必然的」変化を帰納することすらなくなり(すべてが偶然なのなら、法則も一定せずに常に可変な「はずだ」という思い込みすら失効する、ということ)、カオス的世界は必然的法則に従属している世界と見分けがつかなくなるという、ある意味逆転した世界に行き着く、という。極限的には無根拠ながら、見かけ上は法則の一定性が保持されるという世界観。うーん、と思わず唸ってしまうが、これは様々な認識論的枠組みに変更を強いることになるのかしら?

ハーマン「代替因果について」(岡本源太訳)も、やはりヒューム(とマルブランシュ)の問題圏にある論考だ。フッサールとハイデガーの相補性から、対象(オブジェクト指向哲学というITっぽい言い方をしている)について再考しているのだけれど、ここでも問題になっているのは対象(実在的対象)同士の関係(代替因果と呼ばれる、形相因に近いとされる区別と融合との共有空間)だ。そこでとりわけ大きくクローズアップされるのは、志向が向けられつつも直接的にアクセスできるわけではない「実在的対象」と、そこにアクセスの緩衝材として差し挟まれている「感覚的対象」が取り結ぶ関係性。両者のとりなしを担うものとして「真率(sincerity)」という関係性が挙げられている。これこそが志向を担い、実在的対象との関係性を打ち立てる要となる概念らしいのだけれど、この分析はまだ道半ばのようだ。実在的対象同士の関係(代替因果)が明らかになるには、まず感覚的対象が取り結ぶ真率の関係の内容が明らかにならなくてはならない。そのためには、感覚的対象の本質的性質(まさに実在論的だが)が切り出されなくてはならないetc。そうしたプロセスはどんなものなのか。この論考はまだ序という段階のようだ。でもこれ、表現は結構複雑ながら、全体像としていわんとすることは結構「わかりやすい」議論なのではないかという印象。ライプニッツのモナドロジー的な議論に重なっているようでもあり、その意味でもとても興味深いスタンスだ。

雑感:古典化する旧「現代」思想


前回のアーティクルとの関連で旧「現代」思想話をもう一つ。今度はデリダについてだけれど、これも先のフーコー論に似て、その思想世界の一端を見通しよくしてくれる小著を読了した。パトリック・ロレド『ジャック・デリダ−−動物性の政治と倫理』(Patrick Llored, Jacques Derrida : Politique et éthique de l’animalité, Sils Maria, 2012)。もともとこれは「5つのコンセプト」という叢書のシリーズ(入門書として企画されているみたいだ)らしく、デリダの動物性の議論に関する5つのコンセプトを挙げて、その思想の全体像をたぐり寄せるという、ちょっとした荒技のような妙味を感じさせる。西欧における人間の象徴世界の存立基盤をなしているのは、「動物」もしくは「動物的なもの」、あるいは「動物性」を放逐・排除するプロセスであり、そうした一種の「暴力」を通じてこそ、人は主体として君臨し、法とモラルの世界をわがものにできる……そのことをデリダは様々に変奏し暴いていくのだというわけだが、全体の記述は良い意味でストレートで、デリダの研究書によくある衒いや迷いがあまり感じられない。それだけにとても「見通しの利く」概説書になっている気がする。こうした多少とも「見通しのよい」概説書が出るというのは、それだけ多くの研究が蓄積されてきたことの現れなのだろうけど、それだけ旧「現代」思想が古典化してきたということなのかもしれない。

「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へでも、ある意味それはとても喜ばしいことではある。なにしろ、道なき道のようにも見えた膨大なテキストの森を、どこぞの高台から俯瞰することがようやく可能になってきたということだから。けれども、そうした思想をもっと同時代的でヴィヴィッドなものとして受け止めざるを得なかった旧世代(個人的には私もそちら側なんだよなあ)からすると、そんな迷走体験から高台へと、なかなか自覚的にすんなりと移動することはむずかしい(かな?苦笑)。最近出た山内志朗『「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』(青土社、2013)を読み始めたところなのだけれど、これなども、そうした抵抗感のようなものを如実に感じさせる。森の中をあえて進もうとしてきた著者の気概そのものが文章に滲んでいて、どこか共感と覚えると同時に、改めてその苦行の一端(著者の苦行は半端ではなかろう……)をまざまざと見る思いがして辛いものがないでもない……(同書の中身についてのメモなどはまた改めて)。

「世界を失う」ということ

ミカエル・フッセル『世界の終わりの後で』(Michaël Fœssel, Après la fin du monde : Critique de la raison apocalyptique, Seuil, 2012)をつらつらと読んでみた。タイトルを見て、「一種の災害論?それとも預言論みたいなもの?」なんて勝手に予想していたのだけれど、実際にはもっと奥深い問題を扱っていて、ちょっとした好著という感じさえある。全体として問われているのは、「世界の喪失」体験は思想的な「近代」を成り立たせる構成要素をなしているのではないか、という問いだ。まず「系譜」と称される前半。ここで取り上げられているのは主に17世紀以降の近代で、その近代の成立や維持を実は「世界の喪失」体験が支えていたのではないか、その体験ゆえに練り上げられていたのではないか、といった話が展開する。もちろん17世紀と現代とでは「世界の喪失」も意味するところは相当違っている。かつてのそれは「コスモス」、つまり神に支えられた秩序の宇宙が失われる体験だった。終末論の批判というのは、不安定化した世界に直面した哲学にとっての危急の検案だった(参照されるのはホッブズ、カント……)。やがて終末論を遠ざけるのではなく、安定的基盤を失った新世界への失望から、再び終末論を招き入れるという動きへと転じる(ウェーバー)。その後、今度は「世界の終わり」を中和するのではなく、世界そのものを中和するのだという方向で、形而上学的な刷新が興る(ヘーゲル)。前半部の著者の見立てはこのように展開していく。

後半は「診断」と称される。現代世界になると、「世界の喪失」はさらに変容を遂げ、より細密化して人々の体験の中に組み込まれてしまっている。もはや失われる世界は「世界全体」ではなく、主体に依存するある「一つの世界」となり、しかもその世界が認識されるのは、まさにそれが失われるときでしかなくなる(『ショアー』の投げかける問題、ロッセリーニの映画、ドゥルーズのシネマ論……)。それでも人は「世界」を選び保持しようとする。ただしそこで、必ずしも世界の終わりと生命の消失が混同されてよいわけではない(エコロジー思想の諸問題)。そこで必要とされるのはむしろコスモスの復権、別様の世界の創出(アーレント)、新たな公共空間の確立だ……。カタストロフィズム(破局論)から、コスモスの政治学という文字通りの意味を込めてのコスモポリティズムへの転換へ……。著者の主張の輪郭線だけを辿るとそんな感じか。でも、現代世界の「世界の喪失」のイメジャリーである破局論を、ポジティブな意味づけへと転換するのはそう簡単ではなさそうにも見える。破局論はときに漠然とした気分の中でほのかに望まれたりもするし、そもそも日常のいたるところに蔓延し垢のように事象にへばりついているような気もする。そうしたものの核心へと迫るには、カント的な批判(著者が目するような)というより、むしろ現象学的なアプローチのほうに光明がありそうな……?

アフォーダンスと個の倫理学

河野哲也『善悪は実在するか−−アフォーダンスの倫理学』(講談社選書メチエ、2007)を読む。ギブソンのアフォーダンス理論から倫理学を導くのか……と思って読み始めたが、冒頭ではアフォーダンス理論はどちからというともっぱら反自然主義の批判のために援用されている印象だったので、最初ちょっと引っかかりがあったのだけれど、その後で話は大きく展開していって、なにやらほっとする(笑)。意味や価値は認識する個体の主観にのみ存するのではでなく、環境からアフォードされているのだというアフォーダンスの考え方からすると、善や悪もまた個体にとっての環境からのアフォードだということになり、こうして人間一般といった概念ではなくあくまで個体(個人)を中心に据えた倫理の問題が開かれるというのがその主筋。個人を中心に据え直すというスタンスは同書のまさに中核的なテーゼで(まあ、古くからあるテーゼではあるけれど)、このあたりはなるほどと頷かされる。

で、その個体ベースでの倫理学だけれど、同書ではそれがいわば三段ロケットのように描かれている。まず一段目には他者に対する「共感」がある。これは他者の模倣という形(赤ん坊が親の表情を真似ることなども含めて)で、他者からアフォードされるものだ。けれどもこれだけでは「〜すべし」という強制力がない。そこで働くのが二段目としての互酬性だという。これも人間関係からアフォードされるということなのだろうけれど、当然ながら互酬には復讐という裏の面もあり、両者は表裏一体だ。ま、だからといって「倍返しだ」のインフレルールは不毛にいたると思うのだけれど(笑)。この復讐の論理がエスカレートしていくことを代替する機構として、現状では三段目としての法的秩序による暴力の奪取・占有がある、とされる。いわば道徳の法化という段階だ。著者はこの法化という段階は三段目として唯一の選択肢なのではないとして、これを批判的に見ようとする。他者との関係性に国家などを介入させると、個人はまたたくまに捨象されてしまう。それと対照的に同書で提唱されているのは、個人を重んじる広義の「ケア」の概念を導入して別の可能性を開くという方途だ。

もとより生態的・人為的環境がアフォードする意味や価値は可塑的だとされる。だからこそそういう組み替えもまた可能だということになるわけだ。けれども問題は次の点にあるとされる。人間一般を問題にする、法化された道徳にもとづく見識はあまりに広く受け入れられすぎているために、個人を相手にする意味や価値の創出へと社会が向かっていくことはなかなか実現困難だ。たとえばこんなところにもそれは感じ取れる。素朴な哲学的難題として「なぜ人を殺してはいけないか」という問題があるけれども、これなども、「人」という抽象概念で考えるから行き詰まるのであって、具体的個人が問題になるのなら殺さない理由はいろいろと挙げられる。あのサンデルの講義とかで取り上げられた二択問題(たとえばトロッコで右に行けば一人しか轢かないが、左に行けば五人轢くとき、さああなたならどうする、といった問題)も、状況がもっと具体的であれば問題は複雑化するが、対処法もまた複合化されうる。上の例ならトロッコそのものをなんとか止められないのかとかね。そんなわけで、この個人のもとへ、具体的なものへと問題を差し戻すという考え方は、とても重要だったりする。

「服従」論の古典

ちょっと野暮用で田舎へ。で、少し前から読みかけのスタンレー・ミルグラム『服従の心理』(山形浩生訳、河出文庫)を、移動中の新幹線で読了。「アイヒマン実験」と呼ばれる心理実験の記録と、その理論化を試みた書籍で、原著は74年刊行。巻末の訳者解説によれば、これは新訳。罰が学習にどう影響するかを調査するという名目で、一般参加者を先生役とし、学習者役に電圧を加えさせる(実は学習者が痛がるふりをしているだけなのだが)という実験がなされる。加える電圧は徐々に上がっていくという設定だ。先生役となる参加者の多くは、多少とも倫理的葛藤を覚えたりもするものの、かなりの電圧を加えるところまでエスカレートしてしまう。まさにアーレントが主張した、アイヒマンがごく凡庸な人物で、単に役人仕事をしていたにすぎないという説を後追いするかのような実験結果が出る。アイヒマンはいたるところに、というわけだ。刊行時は衝撃だったという話なのだが、確かにこの前半の実験結果の報告はとても興味深い。被験者の反応とか読むと、こういう実験に参加したら、おそらく自分も……なんて、思わず自分を重ねてみたりしてしまう(苦笑)。ところが続いて理論化という後半部になると、どうも話は微妙な感じになってくる。

ミルグラムの基本的な解釈では、人は自律状態からエージェント状態へとモードチェンジすることで行動と心理が変化し、「権威」に服従するようになるのだとされている。けれども、これだけでは結構荒っぽい議論ではないかしら。「権威」がきちんと問われていない、ということを巻末の訳者解説が述べているけれど、「状態」変化についても同じようなことが言えそうだ。そんなにはっきりとしたモードチェンジがそもそもあるのかどうかも怪しいし、モードとか状態とかといった抽象的な概念では、そこにあるはずの細やかなグラデーションが捉えきれないように思えるし。また、モードチェンジの事前条件、帰結、束縛要因についてそれぞれミルグラムが列挙している事項も、説明としてどこかものたりないように思える。あるいはこれ、集団論・組織論のほうから眺めなおすと面白いかも。サークルなどの社会集団内で顕著だけれど、なんらかの組織に関わって個人の立ち振る舞いを決める際に最も重要な要因となるのは、その集団内での「居場所」(参加の動機付けと参加状態の維持を約束する)の確保と「免責」(メンバーとしての集団的・幻想的な認知に関係する)の有無なような気がするのだが、それらは一般募集の実験への参加のような、散漫な集団への緩い参加においても基本的には有効に思える。だからもしかすると、それらのキータームを精緻化するだけでも、「服従」(だいたいこのタームにしても、より厳密な定義が必要ではないかしら)の現象はある程度説明可能になるかもしれず、オッカムのカミソリではないけれど、たとえば同書が仮定するような「権威の認識」などといった事項立ては不要になっていく気もする。厳密には論点がずれるのかもしれないけれど(苦笑)、なにかこう、集団論、組織論として読み替えるほうがよいのでは、なんてことをしきりに思う読書だった。訳者の解説にあるような、組織に対応できるのは組織、という文言(アイヒマン的な行為に対抗する可能性として)も、そこでこそ生きてこようというもの。

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