前回と同じ論集『ニコラウス・クザーヌスにおける神の分有と観想』についてのメモ。クザーヌスの位置取りについての論考も収録されてはいるのだけれど、ここで興味深いのはむしろ視覚の問題を取り上げた二篇だったりする。まず一つめは、ジャン=ミシェル・クネ「現象としての絵画:見ることの元素少額から神秘主義的神学へ」(Jean-Michel COUNET, Le tableau comme phénomène : de la phénoménologie du voir à la théologie mystique)。これはクザーヌスの『神の観想について』で言及される絵画に寄せて、視覚論を再考しようとする一篇。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンによる自画像とされるその絵は、どこから見ても見返しているように見えるというものだったといい、クザーヌスの視覚の議論の着想源になっているらしい。これを見る聖職者たちは一様に驚き、視覚の(さらには知性その他の心的機能の)再帰性、ひいては対象となる世界という謎についての考察を促されるという。そこからクザーヌスは、有限の世界の原初にはあらゆる場所から見返す絶対的なまなざしがあり、それはまさに神の視線、神そのものとして、視覚に映るあらゆる世界を包摂していると論じることになるのだ、と。人間の有限なまなざしは、神の絶対的なまなざしを分有することによって成立するという、新プラトン主義的な流出・分有観が、視覚論にも反映されている、という話。
もう一つはクリスチャン・トロットマン「レオナルドからニコラウスへの目配せ:クザーヌスにおける視覚、分有、週末論」(Christian TROTTMANN, Le Clin d’oeil de Léonard à Nicolas : vision, participation et eschatologie chez Nicolas de Cues)。こちらはクザーヌス初期の『推論について』に登場する、図式P(知覚図式)と図式U(世界図式)をめぐる論考。まず、円錐二つが相互に貫入したかたちの図式Pは、神の光と物質的な闇との間に被造物の世界があるという図式なのだけれど、それが従来言われているようなルルスの影響というよりも、当時優勢だった光学(視覚のメカニズム)論にもとづいている、という議論が一つ。ダ・ヴィンチが視覚について記したノートに残響が見られる、というあたりが興味深い。もう一つは図式Pから図式Uへの移行。図式Uは巨大円の内部に縦に三つの小円が並び、そのそれぞれの小円の内部に三つに微小円が、さらにそれぞれの微小円の中に三つの最小円が並ぶといったかたちのもの。小円は上位・中位・下位の領域を表し(天使の世界、魂の世界、物体の世界)、微小円は第一秩序・中間秩序・最下位秩序を表す(天使の世界なら、微小円と最小円でディオニュシオス的な九つの天使の階級が表される。他の世界も同様)。図式Pから小円の区分が引き出されるところがミソ(この議論の下敷きになっているのは、日本クザーヌス学会元会長という大出哲氏の論考なのだとか)で、これがクザーヌスによるディオニュシオスの階級論の拡張だとされる。
イザベル・ムーラン編『ニコラウス・クザーヌスにおける神の分有と観想』(Participation et Vision de Dieu chez Nicolas de Cues (Publications de l’Institut d’Études Médiévales de l’Institut Catholique de Paris), éd. Isabelle Moulin, J. Vrin, 2017)という小論集を見始める。15世紀という時代もあって、クザーヌスは一般に中世からその後の時代区分(その呼称はルネサンスだったり、初期近代だったりいろいろだが)への移行期に位置づけられるが、どちらかというと、やはり新しい時代の側に寄せて解釈されることのほうが多いように思われる。でもそのあたりの解釈というか位置づけは、存外に明確ではないような気もする。より中世のほうに引き寄せて解釈するものがあってもいいのではないか、なんてつい思ったりもする。研究対象としてのクザーヌスは、研究者層が比較的厚い思想家なので、もちろんそういう立場もありそうだし、とくにドイツ以外の周辺あたりに転がっていそうな印象もある(あくまで印象だけれど)。というわけで、そんな思いとともにこの論考を眺めようと思っているところ。