2023年の三冊

(bib.deltographos.com 2023/12/28)

年末ともなると、「今年の三冊」「今年の五冊」みたいな、年間まとめ企画が新聞や雑誌を賑わせますよね。今まで、ランキングはあまり意味ないかもと軽視していたのですが、最近、自分用にまとめておくのも悪くないかなと思うようになりました。目がしょぼくなり、読書量も大幅に減ったりして、逆にそういう「厳選」みたいなものに価値を見いだすようになってきたようです。人さまが選んだリストも興味深く思えてきましたし、個人的にも年間まとめを記しておくのもいいかな、と。

というわけで、まとめておきましょう。個人的に、今年読んだものでとりわけ印象的だったのは、次の三冊になります(ジャンルや出版年度などは無視することにします)。

  • グレゴワール・シャマユー『統治不能社会』(信友建志訳、明石書店、2022)
  • ローラン・ビネ『HHhH』(高橋啓訳、東京創元社、文庫版、2023)
  • D.グレーバー、D.ウェングロウ『万物の黎明』(酒井隆史訳、光文社、2023)

社会史、文学、人類学と、分野はそれぞれ異なりますが、いずれもなにがしかの既存の固定観念に揺さぶりをかけるものとして、刺激的な著作たちでした。

次点としてあと三冊ほど。

  • 星野太『食客論』(講談社、2023)
  • M.H.クリチャンセン、N.チェイター『言語はこうして生まれる』(新潮社、2022)
  • エルヴェ・ル・テリエ『異常【アノマリー】』(加藤かおり訳、早川書房、2022)

とくに『食客論』は個人的にインパクトがあり、これに触発されて、ルキアノスを読み始めました。来年も引き続きルキアノスを読み進めたいと思っています。

こうして挙げていくと、さらに三冊、さらに三冊と、いつまでも続けていけそうで(アンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』とか、ビネの『文明交錯』とか)、そういうところが「今年の○冊」の罠かな、という気がしないでもありません。

最近ますます思うのですが、フィクションでも論考でも、本はやはり対話相手として読むというのが基本的に重要で、冊数とか関係ないなあ、と。昔、テレビに向かって「何言ってんだおまえ」みたいなツッコミをする大人というのは確実に存在していましたが(笑)、本についても、そういうツッコミを入れながら読むというは、とても大事な気がしますね。

少し前に、X(旧ツィッター)で、これこれのリストから3冊読んでいれば哲学初段、みたいな投稿があって、なにやらひんしゅくを買っていた(?)方がいましたが、哲学の黒帯と言うならやはり、何を読むか、どれだけ読むかではなくて、読んだものをどれだけ批判的に受け止められるか、そしてその批判を一つの考えとしてどれほどアウトプットできるかによるのでは、と思いますね。ま、そこまでの強度はなくとも、とにかく日々ツッコミを入れる読書こそが、本当に面白い読書体験であるはずです。

来年もまた、新たな出会い、新たな面白い経験に期待したいです(締めの決まり文句ですが)。

 

多様性から連帯へ?

(bib.deltographos.com 2023/12/22)

「SFの嚆矢」と称されるルキアノス作品には、前に取り上げた「本当の話」のほかに、「イカロメニッポス、または雲より上の人」というのがあります。Loeb版では2巻に収録されています。これを読了しました。

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これは、鳥よろしく羽をつけて月世界にまでいった主人公(メニッポス)が、その天上世界の哲学者たち、さらには神々と話をするという趣向のお話です。まあ、SFというよりは、哲学諸派が群雄割拠しては互いに譲らない様を、皮肉っては揶揄してみせる風刺劇という感じですね。天上世界から主人公が力を分け与えられて、世界を俯瞰して「小っちぇえ」みたいに言うところとか、なかなか辛辣かつ味わい深い描写もあります。

諸派が対立しあって一歩も譲らない……。これは古代も今も大して変わらないところです。そのことは、単に哲学だけの話ではありませんが、前にも記しましたが哲学というものが、「何かへの異論・反論」として構築される以上、やはり哲学はそうした分断・分割の最たるものにならざるをえないのでしょうね。

ちょうど、kindle unlimitedに入っていた岩内章太郎『<普遍性>をつくる哲学』(NHK出版、2021)を読んでみたところです。これ、最初はマルクス・ガブリエルの新しい実在論・新実存主義の紹介から始まります。哲学史的な流れをふまえて、その基本的な思想が、構築主義などの多元論・相対論を批判する立場であることをわりとゆったりと解説していきます。メイヤスーやハーマンなど同時代的な思弁的実在論の論者たちについても触れています。

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ところがこのあたりで話は一転し、新しい実在論陣営の内部が再び分裂状態になっていることが示されていきます。認識(主観)を通じて対象(客観)が掌握される場合に、認識する側によって対象が構築されるというのが相対論、一方、そうした認識から独立して対象があると捉えるのが実在論だとすると、この後者では実在を認めつつも、では認識が何をどう捉えるのかについての議論が、また新たに分化してしまう、というのですね。いやはやというか、やれやれというか……。

で、こうした状況を打開すべく、同書の著者は、フッサールの現象学に立ち戻り、認識・主観の多元性はそのままに、対象・客観の存在を認めることができるような原理を、フッサールをベースに打ち立て直そうとしていきます。この、フッサール再考が同書の後半というか3分の2くらいを占めるのですが、解釈学を経たりしてちょっと散らかったような現象学ではなく、ずばりストレートにフッサールへの回帰というところが、なにやら意外な、ある意味新鮮でもある取り組みにも思えました。と、その一方で、やはりビッグネームに回帰していくのが、良くも悪くも哲学の伝統的な構え方なのかもしれない、なんてことも思っちゃいますね。

話は戻りますが、ルキアノス、次は2巻冒頭の「下方への旅」を読んでみようかと思っています。

 

反照の民族主義?

(bib.deltographos.com 2023/12/11)

このところミカエル・リュケン『ギリシア的日本——文化と占有』(Michael Lucken, “Le Japon grec – culture et possession”, nrf, Gallimard, 2019)を読んでいます。と言ってもまだ冒頭のみですが(笑)。でもすでにして、「おお〜、こりゃおもろいね」という感じになっています。

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ギリシア語やギリシア文化が、かつての日本においても、教養層のあいだで尊ばれてきたのはどうしてか、という問いに、著者は重層的な回答を寄せます。つまり、まずは「ギリシア的な日本」というものが、西欧のジャポニズム、あるいは広義のオリエンタリズムの流れの中で育まれ、それが当の日本において内面化され、取り込まれていった、という見立てです。

西欧のオリエンタリズムそのものが、実は西欧的な優位性の思想を、東洋への芸術や思想の伝播という文脈でもって強化する(つまり、東洋の文化も、つきつめれば出自は古代ギリシアなのだよ、さすが西欧、というわけですね)、ある種の民族主義的な動きだったとすると、今度はそれを内面化していく1900年代初頭の近代化の日本も、やはり同じように、民族主義的な言論・推論に支えられていたようなのですね(ギリシア文化の真の継承者は日本文化なのだ(京都学派とか)というわけです)。となると、そこに見られるのは、たがいの文化の民族主義的な反照でしかなく、いまどきの言い方ならばエコーチェンバー状態で、それぞれの文化が自己言及的にひたすら称揚されていくことになります。

この見立て、とても興味深く刺激的に思えます。流動的な思想が、どのような背景で導かれ、その後に大きく展開して固着していくのか、というプロセスの、新たな解明の試みが、ここにも見いだされる思いですね。

 

SFの黎明から現在へ

(bib.deltographos.com 2023/11/28)

「食客」に続いて、ルキアノスの代表作とされる「ほんとうの話」を読了したところです。例によってLoeb版(第一巻)です。

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これ、いわゆるSFの嚆矢とも言われているものなのですね。基本的には奇想天外な「馬鹿話」(褒め言葉です)で、若者たちがヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を超えて進んでいく、空想的な航海記です。なんと突風で船ごと飛ばされて月まで行っちゃうんですよね。そこでは月世界と太陽世界が戦争をおっぱじめて、彼らも巻き込まれてしまいます。

結局太陽側が勝利して、彼らはその後どうにか海上に戻るのですが、今度は巨大な海獣(鯨?)に飲み込まれてしまいます。そこには陸地とかが出来ていて、いろいろな種族(半魚人とか)が住んでいる、というのです。このあたり、古くはピノキオ、より新しいのならアニメですが『マインドゲーム』などを思い出します。というか、一種の地獄めぐりのような感じですね。

海獣の死に乗じてそこを脱出した後、一転して今度は天国のようなところを旅します。ホメロス以下の著名な故人たちに会うのですね。さらにその後も、イマジネーション豊かに描かれる様々な島をめぐり(さながら煉獄編のようです)、危機を脱しながら、最終的には対蹠地の世界、地球の裏側の世界に到達したところで、物語はいったん終わります(「待て次巻」という含みまで記されています)。

こうしてみると、確かに航海記というのは、今ならばSFというジャンルにつながる基本的なフレームなのだなということがよくわかります。その意味で、これが嚆矢とされるのもさもありなんと思えます。そこにどれだけの馬鹿話、荒唐無稽なめくるめくイメージの数々を注ぎこめるかが、作品の是非を決めていくのでしょう。

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ちょうどこれと平行して、リウ・ツーシン(劉慈欣)の『三体』第二部「黒暗森林」を読んでいたのですが、これなどはまさにそうした、ある種の壮大な馬鹿話の集成にもなっていました。

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第一部は以前、英語版で読んだのですが、個人的には、ちょっとバッドエンディングっぽいギリギリのところで締めくくられた第一部のほうが好きなのですが、この第二部は、途中に中だるみはあるものの、「そうくるか」という終盤の劇的な展開とその華麗な終着点、伏線回収の妙で、また別の味わいをもたらしてくれますね。

勝手に想像させていただくと、ルキアノスの架空の航海記を同時代的に読んでいた読者たちは、私たちがこの『三体』に感じるような面白さに似たものを感じていたのかしら、などと思ってみたくもなりますね。

 

「出来事」への距離感

(bib.deltographos.com 2023/11/23)

イスラエルとパレスチナの紛争。地理的に(心理的にも)遠いせいか、凄惨な映像を見てもなお、この極東の島国では、なかなかその出来事をヴィヴィッドなものとして受け止めることができないように思います。何年か前、南アジアで仕事をしている知り合いに、中東が落ち着いたら旅行にでも行きたいと言って、たしなめられたことがあります。中東が落ち着いたことなどなかったし、これからもない、そんなふうに言うのは典型的な平和ボケ、認知バイアスだ、というわけですね。

しかしながら、私たちには、そうした緊張感を実感できるだけの「基盤」がないことも確かです。もたらされるのは映像や音声、あるいは文字での情報だけです。それらをどう自身の内的な感覚につなげていけるのか。これはとても困難な問いのようにも思えます。

ちょうど、X(旧Twitterですね)で、『記憶/物語』(岡真理、岩波書店、2000)が紹介されていたので、読んでみました。

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著者は現代アラブ文学の研究者です。基本的には、文学や映画などの作品が描く「現実」についての考察です。主要な主題は、作品で描かれた「現実」を、「出来事」そのものとして受け取ってはいけない、ということに尽きます。出来事の記憶は、出来事が圧倒的であればあるほど、文章にとっての、取りこぼされるしかない残滓となるほかない、再現できない外部であり続けるしかない、私たちが分有できるのはせいぜい、自分たちのファンタジーを投影した、安定し安心を与える物語にすぎない、というのです。

では、一般的な読者は、そのような文章にどう向き合えばよいのでしょうか。著者が説いているのは、表象できない「出来事」に、その表象不可能性の痕跡を読み取るような読書、ということのようです。象徴できないものの痕跡をあえて探し出すような緻密な読解。これなくして、出来事そのものの暴力性に、共感できるようにはなりえない、と。安易な物語に回収されないようにすること。しかしそれは、なんとも難しい接し方、構え方と言うほかありません。人文学はそんな読み方を本当に育むことができるのでしょうか……。