ビザンツ世界の「ニコマコス倫理学」

相変わらず、『「ニコマコス倫理学」中世ギリシア注解書』を少しづつ読む。やっと半分。ちょっと短いけれど総覧的なコメントになっているのが、リノス・G・ベナキスの論文。12世紀ビザンツでの『ニコマコス倫理学』注解は、エフェソスのミカエル、ニカエアのエウストラティオスが双璧をなしている模様。特にこのエウストラティオスの注解は、ロバート・グロステストの訳で西欧世界でも知られていたといい、西欧世界で初めて『ニコマコス倫理学』の注解書を記したアルベルトゥス・マグヌスも知っていた可能性が高いという。そのあたりに影響関係があるかどうかなどは今後の研究課題だとされている。なるほどね。ほかに逸名著者による注解書や、パラフレーズものが複数あるのだそうだ。

エウストラティオスについては、ミシェル・トリツィオの論文で、新プラトン主義、とくにプロクロスが内容・形式ともに大いに参照されていて、注解に大きく影響していることを論じている。また、ピーター・フランコパンの論文は、上の双璧の注解者を擁したアンナ・コムネーネ皇女(アレクシオス1世コムネノスの娘)のパトロネージについてまとめている。このアンナは「アレクシアド」という歴史書を著すほどの文人だったといい、『ニコマコス倫理学』の注解もこの人物の指示で作られたらしいのだけれど、実はアリストテレスというか哲学全般をそれほど重視してはおらず、基本的な関心はビザンツによるヘレニズムの理想の継承そのものにあったのだという。うーむ、パトロネージとイデオロギー、政治的野心のようなものは、やはり分かちがたく結びついているものなのだなあ、と(苦笑)。それにしてもやはりこの論集、いろいろと勉強になる。後半の諸論文にも期待しよう。

断章30 (3/3)

Δεῖ τοίνυν ἐν ταῖς σκέψεσι κατακρατοῦντας τῆς ἑκατέρου ἰδιότητος μὴ ἐπαλλάττειν τὰς φύσεις, μᾶλλον δὲ τὰ προσόντα τοῖς σώμασιν ᾗ τοιαῦτα μὴ φαντάζεσθαι καὶ δοξάζειν περὶ τὸ ἀσώματον· οὐ γὰρ ἂν τὰ ἴδιά τις τοῦ καθαρῶς ἀσωμάτου προσγράψειε τοῖς σώμασι. τῶν μὲν γὰρ σωμάτων ἐν συνηθείᾳ πᾶς, ἐκείνων δὲ μόλις ἐν γνώσει γίνεται ἀοριστῶν περὶ αὐτά, οὐχ ὅτι καὶ αὐτόθεν ἐπιβάλλων, ἕως ἂν ὑπὸ φαντασίας κρατῆται.

Οὕτως οὖν ἐρεῖς· εἰ τὸ μὲν ἐν τόπῳ καὶ ἔξω ἑαυτοῦ, ὅτι εἰς ὄγκον προελήλυθε, τὸ δὲ νοητὸν οὔτε ἐν τόπῳ καὶ ἐν ἑαυτῳ, ὅτι οὐκ εἰς ὄγκον προελήλυθεν, εἰ τὸ μὲν εἰκών, τὸ δὲ ἀρχέτυπον, τὸ μὲν πρὸς τὸ νοητόν κέκτηται τὸ εἶναι, τὸ δὲ ἐν ἑαυτῷ· πᾶσα γὰρ εἰκὼν νοῦ ἐστιν εἰκών.

Καὶ ὡς μεμνημένον δεῖ τῆς ἀμφοῖν ἰδιότητος μὴ θαυμάζειν τὸ παρηλλαγμένον ἐν τῇ συνόδῳ, εἰ δεῖ ὅλως σύνοδον λέγειν· οὐ γὰρ δὴ σωμάτων σύνοδον σκοπούμεθα, ἀλλὰ πραγμάτων παντελῶς ἐκβεβηκότων ἀπ᾿ ἀλλήλων κατ᾿ ἰδιότητα ὑποστάσεως. διὸ καὶ ἡ σύνοδος ἐκβεβηκυῖα τῶν θεωρεῖσθαι εἰωθότων ἐπὶ τῶν ὁμοουσίων. οὔτε οὖν κρᾶσις ἢ μῖξις ἢ σύνοδος ἢ παράθεσις, ἀλλ᾿ ἕτερος τρόπος φαντάζων μὲν παρὰ τὰς ὁπωσοῦν γινομένας ἄλλων πρὸς ἄλλα κοινωνίας τῶν ὁμοουσίων, πασῶν δὲ ἐκβεβηκὼς τῶν πιπτουσῶν ὑπὸ τὴν αἴσθησιν.

したがって、考察に際しては、両者それぞれの特性について習熟し、性質を混同しないようにしなくてはならない。あるいはむしろ、物体そのものに付随するものを、非物体について想像したり考えたりしてはならない。なぜなら、誰も純粋な非物体の特性を物体にあてがうことはできないからだ。誰もが物体と親和的である以上、非物体の認識上は難しく、非物体については確定できないのである。想像に捕らえられている限り、それはおのずとわかるものでもない。

かくしてあなたは言うだろう。一方には、体積へと進み出でるがゆえに、場所に在り、みずからの外に出るものがあるとするならば、もう一方には、体積へと進み出ないがゆえに、場所にはなく、みずからの内にある認識対象もある。一方には像があり、もう一方にその原型があるとするならば、一方は認識対象への関係から存在を獲得し、もう一方はみずからのうちに存在がある。なぜならすべての像は知性の像だからである。

また、両者の特性を想起する際には、その接合における異なった様相に驚いてはならない。もっとも、その全体を接合と称すべきであるならば、の話であるが。というのも、私たちは物体の接合を検討しているのではなく、下支えの特性において相互にまったく異なるものの様態を検討しているのだからだ。その場合の接合は、同種の実体にもとづく通例のものとは異なる。それは混淆でも混合でも、接続でも並列でもなく、同種の実体によるなにがしかの相互の結びつきとは異なるものとして現れる別様のものであり、感覚へと落ちてくるいっさいのものと異なるのである。

リンドベルイのヴァイス再び

おー、ヤコブ・リンドベルイによるヴァイスの新盤が出ていた!『シルヴィウス・ヴァイス – リュート音楽2』(Weiss: Lute Music Vol.2 – Sonatas No.39, No.50, Tombeau sur la mort de Monsieur Comte de Logy / Jakob Lindberg)。前作に続くソナタ2つ(No.39ハ長調、No.50変ロ長調)の間に「ロジー伯の死をめぐるトンボー」が挟まっているという構成。今回は前作のような16世紀の本物のピリオド楽器ではなく、英国のリュート製作家マイケル・ロウ作のスワンネック型13コースだそうだ。とても伸びやかな音。選曲もその楽器に合うものを厳選したということで、確かにとても華やかさに満ちた一枚になっている。二つのソナタと「トンボー」の沈んだ色合いの対比がすばらしい。リンドベルイのこのヴァイスは、バルトの重々しさに満ちたヴァイスでも、エグエズのラテン的な華やぐヴァイスでもなく、いわば両者の中間のよう。たおやかに朗々と歌い上げるヴァイスという感じかしら。これもまたいいっすねえ。

ビザンツ再評価

Ch.バーバー&D. ジェンキンズ編『「ニコマコス倫理学」の中世ギリシア注解書』(“Medieval Greek Commentaries on the Nicomachean Ethics”, ed. Ch, Barber & D. Jenkins, Brill, 2009)を読み始める。中世ギリシア語圏での『ニコマコス倫理学』の注解書がどんな感じなのか、ちょっと興味が湧いての購入。まだ、事実上のイントロダクションという感じのアンソニー・カルデリスの最初の論文「12世紀ビザンツの古典学」をざざっと眺めただけで、『ニコマコス倫理学』の問題には入っていないのだけれど(苦笑)、うーむ、すでにして、やはりビザンツは中世思想史においても巨大な空隙だったのだなあ、ということを改めて感じさせられる。この論集自体もそうだけれど、西欧では今やあちらこちらでビザンツ世界の再評価が始まっている感じなのかも。同論文、西欧が古代ギリシアの文献に向ける視線の在り方は、実はビザンツの学者が大枠を定めてしまっていたことなどを指摘し、また12世紀ごろのビザンツの学者たちが、イデオロギー的にも環境的にも(辞書や文法書の整備など)、古来の文献の精査に十分なだけの準備ができていたことを論じている。うーん、出てくる名前とかも、プセロスなどの有名どころ以外は初めて聞く名が多い。これは気を引き締めて臨むことにしないと(笑)。

道元……

ちょっと閑話休題的だけれど……空き時間読書(移動時間その他での)でゆるゆると眺めるつもりが、例によって一気に加速してしまったのが頼住光子『道元–自己・時間・世界はどのように成立するのか』(NHK出版、2005)。これがなかなか面白かった。『正法眼蔵』の難解なテキストの核心部を、なんとも実に鮮やかな手さばきで切り分けてみせた良書。小著ながらとても読み応えがある感じ。現代思想などでこういう分析的な解釈をするのは多々あっても、日本の古典、しかも道元にそういう道具立てで切り込んでいくというのはなかなか凄い。特に後半の、自己と時間と存在とが一種の「配列論」として扱われるところなどは圧巻。時間は客観的な軸にそって流れるのではなく、「配列」によって連続していく、その意味づけ(配列)によって世界が現成化し、同時に自己も立ち上がるのだ……と。うーん、仏教方面はあまりよく知らないし、古文のテキストもちゃんと読めないけれど(苦笑)、とても刺激的な世界が潜んでいるのだなあ、と。巻末に収められた参考文献とか見ると、フランス文学者や西欧哲学の研究者などにも道元を論じている人がいたりして、そのこともとても興味深い。