連休明けの余波……短評とか

一応の連休明け。連休中はさしあたり急ぎの仕事とかもなく、ラ・フォル・ジュルネに行った以外はちらちらと読んだりDVDとか見たり。そんなわけでとりあえず短評メモという感じで落ち穂拾いでもしておこう。

まず、石野はるみ『チョーサーの自然–四月の雨が降れば–』(松籟社、2009)。基本的には紀要その他への発表論文をまとめたもの。また、チョーサーも当然のごとくに継承した中世の自然概念についての概説も冒頭に添えられている。概説部分には個人的には特に目新しい記述はない感じ。でも、一般向けにはこういう概説は必要かもしれない……。個々の論文も中世の伝統的な自然概念がチョーサーにどう反映されているかを論じるのが主眼のようで、個人的にはどうも悪い癖というか、「反映」よりもチョーサーがその自然概念をどういじったのか、どう「変容」させているのかといった方向性を期待してしまう。その意味ではちょっと物足りない感じ……。でも、それはこちらがチョーサーを愛読していないからかもね。チョーサーが好きな人が読めばまた違う印象をもつとは思う。

西山雄二編『哲学と大学』(未来社、2009)は最近流行っていた大学論がらみの論集。哲学史上の有名どころ(カント、フンボルト、ヘーゲル、ニーチェ、ウェーバー、ハイデガー、デリダその他)による大学と哲学の議論の読み直しによって危機的と言われる大学を再考しようというわけなのだろうけれど、一部を除きなんだかあまり切実な議論にはなっていないような気がするのは、オルタナティブな制度化などについての考察が前面に出ていないからかしら……。でも個人的には初期のニーチェの大学論の話(竹内綱史)とかが印象に残る。「(天才であるという)現実にはごく少数にしか可能でないことを、多くの人々に可能なこととして制度化されたもの」(p.107)、それが初期のニーチェが言うところの教養施設なのだという。「裾野が広くなければ頂上は高くならない」(同)ということが突きつける制度上のアポリアを、ニーチェが後に制度化構想そのものを捨てて乗り越えようとする、というのが興味深い。

ニーチェといえば、6月に出る次号でニヒリズム特集をやるらしい雑誌『大航海』。3月に出ていたNo.70は「[現代芸術]徹底批判」という特集。現代美術、現代音楽などがバッサバッサとなぎ倒されている(笑)。ちょっと身も蓋もないか……。たとえば片山杜秀は無調音楽などは(調性音楽もそうだというが)キメの重要な音型がどこに現れているか判別できるのが鑑賞法の基本なのだけれど、もはや楽譜の分析をソフトウエアなどで一般向けにする以外に、一部の選民思想的リスナーを超えて鑑賞させる方法はないみたいなことを示唆している。で、きわめつけは編集長の三浦雅士と安芸光男の対談。特に三浦氏は現代芸術はことごとくカスのようだみたいなことをいい、若手作曲家が留学するIRCAM(ポンピドゥセンター横の現代音楽研究所みたいなところ)なんか単なる箔付け機関でしかなくて不毛だとにべもない。で、評価もなにも抜きに一律50万円出すというような企業メセナのあり方に、ニーチェ的なニヒリズムの問いを重ねているところがケッサク(「要するにニーチェは、『音楽や美術に対して一律五十万ずつ配給する以外に正しさはないということに、君は耐えられるか』と問うているわけですよ」(p.103))。うむ、次号のニヒリズム特集も期待していよう(笑)。

ラ・フォル・ジュルネ、今年も

有楽町の東京国際フォーラムで5日までやっている「ラ・フォル・ジュルネ–熱狂の日音楽祭」。フォーマットに飽きたと言いつつ今年も出かけた。しかも二日連続(苦笑)。なにせ今年はテーマがバッハで、もの凄く濃いバロック音楽祭になっているもんだから、こちらも気合いを入れて出かけたというわけ。各日三公演づつを堪能。以下メモっておこう。

一日目、最初は来日中止になったサンフォニー・マラン・マレに代わる若手グループ「ラ・レヴーズ」。テオルボ奏者(バンジャマン・ペロー)が指揮をするというのが珍しい。技術はともかくどこかまだ「荒削りっぽくない?」みたいな、でも結構今後に期待できそうなグループ。曲目は変更があって、BWV1027(ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ1番)、BWV912(トッカータ・ニ長調)、ラインケンのパルティータ4番ニ短調。続く二つめの公演はリチェルカール・コンソート(フィリップ・ピエルロ指揮)によるBWV235ミサ曲ト短調、BWV243マニフィカト・ニ長調。ベルギーのグループ。最近の流れという感じだけれど、古楽系というのを感じさせないオーソドックスで重厚感のある演奏だ。もちろん宗教曲はこれくらいがいいのだけれど。それと対照的なのが、三つめのエウローパ・ガランテ。ファビオ・ビオンティ率いるこのグループはもうすぐ20周年になるそうで。一世を風靡した爆走系(失礼)だけれど、期待通り疾風のような圧倒的ヴィヴァルディ(シンフォニア・ト長調と、「ラ・ストラヴァガンツァ」から)。けれども単に爆走というわけでもなく、パーセルなど、このグループにかかると、なんだか緩急取り合わせて妙な色つやに彩られる(笑)。コレッリの合奏協奏曲作品6もそう。自在な音のさばき方はまさに名人芸。というわけで、これは名演でしょうね。アンコールはテレマンの組曲「ドン・キホーテ」から。これも見事な対比具合。このグループのテオルボ奏者はジャンジャコモ・ピナルディという人らしいのだけれど、これがやけにクリアな音を出していた(ほかのリュート属と違い、テオルボは爪で弾くのもアリなんだそうで、この人などはもろ爪でもって弦をバシバシ言わせている(苦笑))。

二日目はまずピエール・アンタイ指揮でル・コンセール・スピリチュエルによるバッハのコラール・カンタータ2曲(BWV178と93)から。うーん、午後のけだるいときにこの手のカンタータは禁物か。ついつい舟をこいでしまう(笑)。続いてバーバラ・ヘンドリクスほかのペルゴレージ「スターバト・マーテル」。伴奏はドロットニングホルム・バロック・アンサンブルというグループなのだけれど、メンバーなどの情報は不明(パンフに未記載……ってどういうことよ?)。ヘンドリクスはさすがに大物の貫禄というか、お手のものという感じの「スターバト・マーテル」。ものすごいビブラートのかけっぷりに、最初は個人的にちょっと引いた(笑)。でも全体としては迫力勝ち。さかんにブラヴォーが出ていた(えーと、本当はブラヴァですけどね)。締めとなったのはラ・ヴェネクシアーナ(クラウディオ・カヴィーナ指揮)によるブクステフーデ「われらがイエスの御体」。これもすばらしい。もともと隠れた名曲という感じで、生で演奏される機会というのはほとんどないと思う本作。個人的にも生演奏で聴くのは初めて。CDで聴くと結構反復部分などが耳に残ったり、半ば過ぎくらいには弛緩して聞き流すみたいになってしまうことも多いのだけれど(苦笑)、生演奏だとぐいぐい引き込まれるから不思議だ。というか、それくらいの演奏だったということかな。ラ・ヴェネクシアーナというと、モンテヴェルディもののCDくらいでしか知らなかったけれど、ブクステフーデもとても良い。これまた収穫。

明日は行かないので今年はこれで打ち止めだけれど、全体としてバロック系のスター奏者らがこれだけ一堂に会する機会というのはあまりないわけで、このイベントが今後も続くようなら、何年かに一度はバロックものでやってほしいところ。

雑感 — メディオロジーからメジオロジーへ?

行きつ戻りつ読んでいるのであまり進んでいないけれど、昨年末くらいから山田晶『トマス・アクィナスの<レス>研究』(創文社、1986)を眺めている。その3-IV「レスの個物性」という論考に、個物の属性について考えるなら、その多くが他の個物との関係性(流動する関係)に還元されてしまい、それを徹底するなら「個物」概念そのものが成立しなくなる、宇宙そのものが渦動と化してしまう、みたいなことが記されている。もちろんトマスの「宇宙」はそういうものではない、ということになるわけだけれど、上の「属性の関係性への還元」と、「その徹底化による個物概念の消失」という点については、個人的にやや留保をつけておきたいところ。関係性というか、やや俗っぽく言うならプロセス実在論だけれど、これと個物概念が両立しないというのはちょっと疑問かも。むしろ流れの中の「浮島」として、個物概念はますます存在感を高めていく気がする。なにしろその場合、浮島がその姿を留める内的な原理が問題になってくるのだから(最近は生物について動的平衡なんて言い方もされるけれど、個体の存立を理論化するのはそれだけでは不十分な気がするし)。

そういう意味では、組織化論というのはとても重要なものになりそうだ。それはまさに「浮島」をそのものとしてつなぎ止める原理へのアプローチだから。組織化論と一口で言っても、一般論的・形而上的な超マクロ(あるいは超ミクロでもいいが)なレベルから、より具体的な生体のミクロな組織論、さらには社会学的なマクロな組織論までいろいろありうる。すっかり忘れ去られているけれど、レジス・ドゥブレが提唱したメディオロジーなんてのも、本来はそういう社会学的なレベルでの組織論、ポイエーシス論を目指していたものだった。で、紹介から10年ぐらい経った今思い返すと、そこに足りなかったのは、むしろより一般論的なレベルの議論だったような気がする。シモンドンやドゥルーズを着想源としていたと思うけれど、プロセスの中で個体相互が織りなす媒介作用といった話には向かっていかなかった。下流に身を置くことを信条として(とドゥブレは語っていた)上流を目指さないんだもの。今にして思えばその点は残念。というか、今からでも遅くないから、そういうレベルのシフトを行ってもいいんじゃないかしらんと。そのためには名称すら変えてしまって、メディオロジーじゃなくメジオロジー(mesiology 中位学?)みたいにするとか(笑)。いやいや真面目な話。要はプロセス実在論的な観点から「媒介作用」の何たるかを考察する、という方向性だ。これ、先の西田哲学にも絡んでくる話だし、もちろん中世神学などの議論にも関係する。果たして軸線になりうるか?

複式簿記の誕生

待ってました、という感じの研究書。橋本寿哉『中世イタリア複式簿記生成史』(白桃書房、2009)。4部構成の全体のうちまだ前半の2部までを読んだだけだけれど、予想通りの面白い研究。複式簿記の成立については諸説があるそうで、古代ローマ説なんていうのも少数ながらあるのだとか。主流はやはり中世イタリア説。とはいえ発祥地については説が細かく分かれるらしい。折衷案の同時期説なんていうのもあるという。同書はそこに、12〜13世紀の数学的思考の介在とアラブ世界の影響を見ている。第2部ではフィボナッチ数列で有名なレオナルド・ピサーノの『算術の書』(Liber Abaci)の内容が紹介されている。基本的な算術の概説書ということだけれど、なるほどその後半部分は商業活動への応用という話になっているわけか。さらに12世紀の公証人による商業契約記録が紹介され、海洋交易の一種のベンチャー事業の収益分配の実例が言及されている。会計帳簿のシステムが、商業活動の複雑化にともなって、そうした公証人の利益計算文書から派生的に整備されていったのではないかという話。うーん、面白い。後半は14世紀から15世紀にかけての地域的な簿記の発展を、具体例を追いながら詳述するらしい。そちらにも期待大。

奇矯と偉大

普通なら関係者だけで共有される本という感じだけれど、一般販売されているのがとても嬉しい『ラテン詩人水野有庸の軌跡』(大阪公立大学共同出版会、2009)。昨年春に鬼籍に入った日本随一の「ラテン詩人」。大学でのそのラテン語授業も超弩級の激しいものだったといい、その学恩に与った人々を中心に、様々な思い出を綴っているなんとも刺激に満ちた追悼文集だ。そこから浮かび上がる「ラテン語一代記」。そして弟子の方々の分厚い層。うーん、圧倒される。古典学の学会で、水野氏があたりの人にラテン語で話しかけまくり、皆が逃げたなんていうエピソードも。奇矯さ(というかある種の狂気というか)は偉大さの裏返しみたいなものなのだろうけれど、でも、ラテン語会話を受け止める人がいなかった(らしい)というのもちょっと問題よね(笑)。どの古典語だろうと言葉なのだから、文献を読む(黙読的に)だけでなく、音読し書けて話せて聞けるというのはやはり基本……だよなあ。学問としてはそこまでしなくても、というコメントも誰か寄せているけれど、でも自由に使いこなすというのは無上の楽しみなはず。というわけで、まあ、あまり激しくはできないけれど(苦笑)、自分も「エウパリノス・プロジェクト」に向けて少しづつ前進しようと改めて思ったりする。

その水野氏の『古典ラテン詩の精』は現在は入手不可のようだけれど、機会があればぜひ見てみたいところ。ちなみに、「Nux mea uoluitur; en nucula / in stagnum incidit: hac quid fit?」と始まる「どんぐりころころ」ほかいくつかのラテン語訳は同文集に収録されている。ちゃんと歌として歌えてしまうこの見事さ!