「先祖返り」?

いまだに出先ではsigmarion IIIを愛用しているのだけれど、専用ソフトウエアのダウンロードサービスなども少し前に閉鎖され、世間的にはなんだかすっかり過去の遺物扱いなのがちょっと悔しいというか……。でも、蓋を開けると同時に起動(というかレジューム)し、小さい文章をちょこちょこと書いて、あとは携帯とかをモデムにしてちょっとだけ通信するといった用途には、いまだ絶大な力を発揮する道具。こういうツールの後継機をぜひまた作ってほしい。……なんて思っていたら最近、ほとんど昔のワープロ専用機の先祖返りかという感じで、ポメラDM-10(写真)なんてのが登場したのだそうで。ATOK搭載で入力は快適らしいとはいえ、通信機能がないといった点はやはり少し見劣りする。次期バージョンとかがもし出るなら、そのあたりを期待したいところ。

とはいえ、案外こうした過去の遺産の見直しに、革新の芽があるのかもしれない、なんてことを思ったりもする。たとえばアップルのiPod Touch(iPhoneでもいいが)のアプリケーションの枠組みなどは、もしかするとかつてのDOSが捨てた方向性の「復権」ではないか、という気もしたり。Windowsがもし、当時のMacをまねてマルチウィンドウにせず、MS-DOSを蹈襲しながらグラフィック画面化だけは果たし、一方で実際にDR-DOSがやっていたような(キャラクタベースのUnixっぽい)画面切り替え方式で複数のアプリケーションを起動させ切り替えながら使う、みたいな方向に行っていたら、おそらくこのiPod Touchが実現しているような環境をもっと洗練させたようなものになったんじゃないかなあ、なんて。ま、妄想でしかないわけだけれど。いろいろと途上で捨ててきたものの再考は、案外とても重要なんではないかしらん、と。

で、これはなにもIT関係だけに限らない。過去の諸説などの再考は、歴史の研究ならば普通になされていることだし。先に触れたグーゲンハイム本なんかも、いろいろな意味で問題はあるものの(イスラムの極端な過小評価、意図的っぽい極論や事実誤認など)、古代ギリシアやローマと西欧中世との間に文化的にあったとされる歴史的な断絶は本当に断絶と言ってよいのか、事実はどのあたりにあったのか、といった問題の再考を促す刺激にはなっているかも(個人的にも、メルマガでそのうち同書の検証企画みたいなのをやってもいいなあ、と思っているところ)。

「聖アレッシオ」

ウィリアム・クリスティ率いるレ・ザール・フロリサン。久々にその演奏をDVDで堪能する。ステファノ・ランディ(1587-1639)の音楽悲劇『聖アレッシオ』(Virgin Classics)。これはなんとも素晴らしい舞台だ。1631年の初演という初期のバロックオペラを、2007年にカーン(Caen)で上演したもの。まずもってヴィジュアル的に圧倒される。照明をロウソクの灯りで取るという手法のせいか、画面全体が赤みを帯びて、まるで生きた宗教画を見ているかのよう。少年合唱団が羽根を背に天使の役などで登場するが、それも全体の絵の中にとけ込んで違和感がない。うーん、お見事。演出のバンジャマン・ラザールという人はバロック劇の権威なのだそうで、なるほどと納得。また演奏も実に渋く、またバロックダンスなども随所に取り入れて見所もたくさん。クローズアップを多用したカメラワークは、時に人物の登場場面などを逃してはいるけれど、それでも主要な人物たちの微細な表情や仕草(これがまた実に絵画的)を細やかに追っていて上質。中身は、ヤコブス・デ・ヴォラギネの『黄金伝説』に出てくる聖アレッシオ(アレクシス)の最後の方の物語を三幕で構成したもので、すでに決定的な時(アレッシオの婚礼からの逃避、放浪など)は終わり、失われてしまっていて、いわば「残りの時」を抒情的に描き、歌い上げている。決定的な事件はすでに起きてしまっているという点で、ワグナーの「トリスタンとイゾルデ」なんかを彷彿とさせるかもね(笑)。

新刊情報(ウィッシュ?リスト)

以前メルマガのほうでまとめていた中世関連の新刊情報だけれど、そちらはちょっと小休止。代わりに備忘録という感じで、こちらにリストアップすることにしようかな、と。最近の気になる新刊というと、ざっと以下のような感じに。

ボイヤーの『数学の歴史』は新装版ということで、なるほど全部で5巻本で出ているわけね。個人的な注目は、キャヴィネス本と『フランク人の事績』かな。この後者は3つの十字軍従軍記をラテン語から訳出したものなのだそうで。

色彩の不可思議

夕方ちょっと新宿へ。南口のサザンテラスはすでにクリスマスイリュミネーション。昔と違うのは、有機LEDになって発色がかなり「原色」っぽくなったことか。そのため視覚的な表現も以前に比べて凝ったものになっている気がする。電気の消費量も少なくて済むというし、いいことずくめ……なのか?

それにしてもこの青の発色はなかなか映える。このところアリストテレスの小品「色彩論(περί χρωμάτων」を読んでいたのだけれど、白と黒を両端として、その間に混合の濃淡をベースにした発想で様々な色が並ぶのがなかなか面白い。青とかとりわけ紫などは黒に近い色という感じで捉えられている。先のパストゥロー本によると、このアリストテレス説は12世紀に再発見されたのち、17世紀まで命脈を保つのだという。面白いのは、同じ青でも、「濃くて輝きのある青は、褪せてくすんだ青よりも、やはり濃くて輝きのある赤や黄や緑の方に近いものとしばしば知覚されている」(p.129)という点。色そのものよりは濃淡の方に分別の比重が置かれていた、というわけか。色一つとってみても、ずいぶんと捉え方が違ったらしいことが興味深い。パストゥローはそういう意味において、絵画修復などの色彩の再現にも微妙な批判を加えているし、彫刻にしても、当時はなんらかの色が付いているのが普通だったとし、現存するものが色がないからといってもとから無色だったと了解しては間違いになる、ということも指摘している。色彩や視覚については、スコラ的な理論も興味深いが、こういう現象としての歴史も負けず劣らず興味深い。

論争の書

春に刊行されて、フランスでは「イデオロギー的だ」との批判が噴出したシルヴァン・グーゲンハイム『モン・サン=ミッシェルのアリストテレス』(Sylvain Gouguenheim, “Aristote au Mont Saint-Michel – les racines grecques de l’Europe chrétienne”, Seuil, 2008)を、とりあえずどんなものか読んでみる。ローマ帝国の崩壊とともにヨーロッパではいったんギリシア思想などの古典的な知が失われ、はるか後に、アラブで温存されていたそうした知が翻訳を通じて再び流入したという、昨今では広範に共有された定説に、事態はそう簡単ではないと異を唱える一冊。前半は割と穏やかなトーン。帝国崩壊後のヨーロッパで、古典的知は決して失われてはおらず、細々とでも温存され、とくにビザンツから逃れてきた知識人たちがそうした知の普及に与っていたのだとし、またシリアなどの東方での翻訳にはキリスト教徒が大きく貢献していたということを指摘している。全体として、知の普及の見取り図として12世紀ごろまでの様々な神学者らの名前も挙がるのだけれど、個別にはいくつか誤りもあるようだし、またちょっと強引な論の進め方もあるし(たとえば、サレルノの医学的伝統などが引き合いに出されていて、これはアラブ=イスラム世界とは関係がないとか書かれているけれど、そんなことはないわけで(苦笑))、断定するような物言いに限って注釈がついていなかったりもする(出典が明らかでない)。前半の最後には、表題にもなっている、モン・サン=ミッシェルでのヴェネツィアのジャンなる人物がなしたというアリストテレス全訳が取り上げられるのだけれど、この人物なども実際には詳しいことはわかっていないらしいのだが、著者の議論ではある特定の論文が再三引かれ、それにかなり依存したものであることがわかる。著者はそのジャンの訳がアルベルトゥスやトマスにも使われているなんて言っているけれど、この辺もかなり怪しそう(?)。

でもま、少なくともこの前半からは、ビザンツと西欧各地の交流史や、シリアでの文化活動の詳細など、一般の中世史研究ではあまりお目にかからない部分のアプローチも必要だということを改めて感じさせる。また、アリストテレスの旧訳の普及というあまり光の当たっていない部分も思い起こさせる。そういうところもある程度固めないと、怪しい議論の席巻を許してしまうことにもなりかねない……とまあ、中世史研究の全体的な間隙というのを指摘している点だけは、案外有益かもしれないなあと。ところが後半になると、そもそもイスラムはギリシア思想なんかこれっぽっちも大事にしていなかった、ギリシアの知の伝達を担ってきたのはあくまでキリスト教なのであって、イスラムとは関係ない、みたいな扇動的な語りの度合いが高まる。なるほど、これではイデオロギー的に偏っていると言われても仕方ないかもね。先行研究を踏まえての、最適解を出しているようにはちょっと思えない……か。ま、興味のある方はどうぞ。