外国語研究の本義……

なにやら話題らしい(?)水村美苗『日本語が亡びるとき–英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008)を読んでみた。文学研究も含めた学問の世界で英語が事実上のスタンダードになっている現状の中で、フランス語も日本語もすべて単なる<現地語>へと凋落するという構造的な危機感を、作家・文学者としての大きな視点から述べたもの。最初の個人的体験部分は作家的にヴィヴィッドに書かれ、中盤以降の<国語>(国民国家において自分たちのものと思われている言語)成立論は学者的筆裁きでまとめ上げ、最後は、短期間で西欧語に並ぶ<国語>にまで押し上げられた日本語は希有の存在だとして、どこかイデオローグ的な雰囲気(こう言うと語弊はあるが)でもって教育による保全を訴える、という構成になっている。

読んでみていろいろ思うことはあるけれど、一番のポイントは、外国語・外国文学研究が(古典学なども含めて)構造的・本質的に「内向き」なものだということでしょうね。近代日本において大学が翻訳者養成機関であったというのも当然で、おそらく外国語研究を志せば誰もが一度は考えることだろうけれど、構築されるインターフェースは双方向ではなく一方向であることが当然とされてきたし、それは学問的な構造としてそうなっていたはず(良くも悪くも)。問題はそういうインターフェースを双方向性に変化させていく方がよいのかどうか、という点だけれど、学問的姿勢としての厳密な双方向性などというものは、そうした領域では構造上あり得ないようにも思える。グローバル化で外国人研究者との交流が増えるというのは、そういう学問的本義とはまったく違う話。で、肝心なのは、むしろ積極的にそういう「内向き」姿勢そのものを刷新(脱構築?)していくことなのでは、と個人的には思ったりもする(笑)。つまりは外国語とのすり合わせを通じた日本語の彫琢と、その精緻化を再び押し進め、日本語の「思惟されない残滓」への考察を一歩だけでも進める、みたいな。よく英語に比べて日本語の論理展開が縺れた糸のようだと言われたりするけれど、そのあたりへの対応を含めて、日本語の言語空間の彫琢の可能性はまだまだ残っている(と思う、というか思いたい)。つまりはこうだ。漱石の『三四郎』に出てくる「広田先生」を、とことん突き詰め、反転させるのだ!(笑)。もちろん研究対象の言語や<普遍語>となった英語で論文を書くという営為もオプションとしてはあるだろうけれど、しょせんは外国人研究者との広い意味での交流の次元に止まるような気がする。そりゃ外国の大学に就職したいと思うならそういうことが必要だろうけれど(それはそれで茨の道だろうけれど)、それが本流にはならない・なりえない気がする。でもま、そういう刷新力を高めるには、まず大学とかの制度がしっかりするのが前提だろうけれど、今はとうていそういう状況ではない、みたいな話ばかり聞こえてくるからなあ……。先は暗い、のか?

パレスチナ……

イスラエルによるガザ地区の攻撃。仏語の歴史サイト「Herodote.net」がパレスチナ情勢の基本をまとめているが、今回のはなんだかハマスを叩くというよりも、戦争景気みたいなのを煽ろうとしているかのようで、ほとんどミニ・ブッシュという感じにしか見えない。地上戦になって一般市民の犠牲はさらに増えているといい、切り札的に(?)中東に乗り込んだフランスのサルコジの調停もまったく意味をなさず、事実上のスタンドプレーで終わったようで。「そもそもハマスが悪い」なんてイスラエル側の軍事プロパガンダをなぞるだけの捨て台詞を吐いて帰国とは情けないんでないの?パレスチナ人(あるいは周辺のアラブ諸国)がそんなプロパガンダにのっかってハマスへと反対運動とか起こすとはとうてい思えないし(各地のデモは当然反イスラエルだし)、被害の責任関係から言うなら、いきなり大規模な空爆に出たイスラエル側の責任はやはり重大なわけで……。

そんなことを思っていると暗澹たる気分になってくるわけだけれど、気分を変えるべく、ちらちら眺めていた大修館書店の『月刊言語』12月号の特集(「古典語・古代語の世界」)を取り上げておこう。同特集では、アラビア語とヘブライ語の紹介記事はどちらも並んで、「世界言語遺産」みたいなものがあったら……という仮定で書き進められているのが面白い(これって編集部からのお題ですかね?)。アラビア語について面白いのは、クルアーン(コーラン)が本来的に暗唱するものであり、書の形で正典化したのも第三代カリフの時代で、当時は正書法なども確立しておらず、識字人口も限られていて、暗唱と照らし合わせないと読めないという時代が1世紀あまり続いたのだという。そのあたりが聖書との決定的な違いなのだそうだ。

ヘブライ語のほうでは、19世紀に復活したヘブライ語が古い言葉の復元というよりも、たとえば音素体系ではイディッシュ語やアラビア語から音素を取り込んだ折衷案だった、といった話が興味深い。国際連盟の委託でイギリスがパレスチナを統治した時分、英語、アラビア語、ヘブライ語を公用語に定めたといい、いったん死語になった言語が公用語に返り咲くということがそもそも前代未聞なのだという。そりゃそうだよねえ。それにしても、もともとセム系だし、近代語に限ってみてもやはり兄弟関係と言えなくもなさそうな両言語なのだけれどねえ……。

モンドールを食する

mont_dor08個人的に、年末年始あたりの風物詩となりつつある(?)のが「モンドール」。ジュラ山脈産のチーズ。Wikipediaの解説が結構詳しい。最近では、この冬の時期にはチーズ専門店ならほとんどが仕入れているようだけれど、それにしても値段は高い。あるチーズ屋の前でチーズの値段を見た外国人が、「It’s ridiculous !」みたいなことを言ったりするわけだけれど(そいういう場面にたまに出くわす)、実際モンドールは5000円程度で売られていることが多い。ちなみにフランスだと15ユーロもしないくらいらしい。まあ、昨年末は4000円切るくらいで手に入ったのでよしとしよう(苦笑)。とにかくこれ、オーブンでの焼きモンドールがナイス。白ワインをドボドボ入れて焼くとトロトロの状態に。オーブンから出した直後は結構しょっぱいが、少しさめてくると味も馴染み水っぽさもなくなって美味い(ってそれはワイン入れすぎのせいかな?)。

「舟と船人の比喩」の再考

またもアラン・ド・リベラ還暦記念論集『実体を補完するもの』の収録論文から。アレクサンドリーヌ・シュニーヴィントの「魂は舟の船人のようなものなのか」という小論。奇妙な変遷を辿ったことでも有名な「舟と船人の比喩」(身体と魂の関係を謳ったものとされる比喩)について、アリストテレスのもとのテキストと、アフロディシアスのアレクサンドロス、プロティノスの注解から要点をまとめている。この比喩は、むしろ「舟と操舵手」という比喩として人口に膾炙しているわけだれど、もとのアリストテレスは操舵手(κυβερνήτης)ではなく船員(πλωτήρ)を使っているといい、また両者を区別する一文が『政治学』にあることから、その語の選択は意図的になされたのだろうと推論する。そこにはしかるべき意味があったというわけだ。ところがアレクサンドロスになると、用語的にはすっかり「操舵手」になってしまい、その上で、その語が一人の操舵手を指すのか、それとも操舵の技術を指すのかを検討し(魂と身体の関係を譬えているわけで、前者ならばプラトン主義的に魂が身体から分離しうると解釈できるし、後者なら内在論と解することができる)、結局は両方とも魂と身体の関係の譬えに使うには不適切として斥ける。誤った語をさらに敷衍して考察しているのはちょっと悲惨だ、みたいな扱い。プロティノスになると、正しく「船員」「操舵手」両方の語の違いを考察し、やはりどちらも魂と身体の関係を表すには不当だとこれまた斥けているのだという。うーん。後世において「船員」が「操舵手」になった大元はアレクサンドロスの用語法のせいだというわけなのだけれど、そのあたりは結構微妙なのでは……?「操舵手」はプラトン『国家』にも見られる(488C)という話もあることだし(論文著者本人が指摘している)、第一、ギリシア語自体が時代によって多少意味のズレを含んでいたりもしないのかしら、などと素朴な疑問も浮かんでくるのだが……。
090103

断章6

Οὐ πᾶν τὸ ποιοῦν εἰς ἄλλο πελάσει καὶ ἁφῇ ποιεῖ ἃ ποιεῖ, ἀλλὰ καὶ τὰ πελάσει καὶ ἁφῇ τι ποιοῦντα κατὰ συμβεβηλπὸς τῇ πελάσει χρῆται.

他に働きかけるものすべて、(みずからが)為すものを、近接と接触によって為すわけではない。逆に、近接や接近により働きかけるものであっても、近接を用いるのは偶然によるのである。