『食客論』

(初出: bib.deltographos.com 2023/07/23)

星野太『食客論』(講談社、2023)を読んでみました。敵でも友でもない、二項対立をはぐらかす曖昧な存在としての「食客」。そうした食客をめぐる文学的試論です。通底するのは、共生より根源的な「寄生」についての議論です。個人的に、これは面白い!

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印象的な挿話の数々や議論展開。ちょっとだけ箇条書きにしておくと……。

  • ロラン・バルトの講義で意図的に曲解される、18世紀末の美食家ブリア=サヴァランの一言(人との会食は一時間は楽しめる → 一時間しかもたない)
  • 二項対立を突き崩す可能性の嚆矢としてのルキアノス「食客」
  • 博愛的なキケロが万人の敵とする「海賊」と、そこから連想的に問われるシュミットの敵・味方の関係論
  • ラーゲリの捕虜収容所を経た詩人・石原吉郎の食への両義的なかかわり

などなど。とくに個人的に気になったのは、やはりルキアノス(2世紀ごろ)ですね。というわけで、さっそくLoebの収録本をマーケットプレースで注文してしまいました(笑)。

 

アンディ・ウィアー賛

(初出:deltographos.com 2023/07/16 )

映画にもなった『火星の人』(映画のほうは未見ですが)が、とても良かったアンディー・ウィアー。その長編3作目だという『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(上下巻、小野田和子訳、早川書房)を読了しました。今度もまた、様々な問題に巻き込まれて、対応しなくてはならない主人公の姿を、とても細やかでリアリスティックな描写で描いています。圧巻ですね。

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今回の大問題は、いきなり地球を救うというミッション。『火星の人』では、置き去りになった側と、帰途についた側、そして地球の管制塔の側の話が順に展開していく構成でしたが、今回のこれは、ミッションにかり出された理科の教師(もとは研究者)の話と、そこにいたる過去の話が交互に語られていきます。そして壮大な危機。主人公は果たして地球を救えるのか?

……と思いきや、なんとファーストコンタクト話になっていきます。ファーストコンタクトものもいろいろありますが、今回のは状況が面白いですね。こちらが科学者・技術者、同じく異星人の側も科学者・技術者で、共通の問題を抱えていたとしたら?当然、とりあえずは協働する道を探るだろうと思います。でも、そもそも意思の疎通はどうするのか。このあたり、とても細かい話になりそうですが、それを見事な処理で描き出しています。そのための数々のアイデア、いずれも実に秀逸です。すばらしい。

ネタバレですが、このバディの関係、なにやら個人的には、『攻殻機動隊』のトグサ(バトーじゃなく)とタチコマを連想したのでした(笑)。

 

個と一般のあわい(ポール・ド・マンなど)

(初出:deltographos.com 2023/07/06)

昨年末くらいに文庫化されたポール・ド・マンの『読むことがアレゴリー』(土田知則訳、2022)を、とくに第二部のルソー論を中心に、このところつらつら読んでいました。抜粋などにしか触れることがなかったので、やっと目を通すことができた〜という感じです。

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このルソー論、評判通りとても刺激的なものでした。これ、ルソーにおいて、名指される対象としての「個」と、社会のほうへと開かれていく「一般」とが取り結ぶ微妙な関係性を、いくつかの著作から読み取っていくというものなのですね。両者の関係がどちらかにきっちり切り分けられずに、ある種の緊張感を伴いながら、どっちつかずの宙づり状態で保持されていることが、ルソーの思想的な核心部分をなしている、という解釈です。脱構築的な読みとして、これはとても面白い読みの試みです。

個と一般の関係性は、それぞれの著作の個別的な箇所から浮かび上がるテーマである以上に、著作全体、テキスト全体を貫く底流にもなっているのではないか、そのように敷衍して読むこともできるのではないか、というわけです。そもそもルソーの著作というと、一般に、とても個人的な真情吐露のようにも見える私的エセーと、政治や社会についての論とに分かれるように思われがちですが、その実、両カテゴリーは密接につながっていて、いずれの側を掘り下げていっても、もう一方の側が頭をもたげるような、そんな修辞の構造が見いだせる、あるいはテキスト構造としても見いだせるのではないか、と。

研究的な営為としての文学は、やはりこのようなスケールでないとつまんないよなあ、と思ったりもします。あ、でももちろん、万人にできる芸当ではないというのは重々承知しています……。

 

変わりゆく古楽

(初出:bib.deltographos.com  2023年6月20日)

明日21日は夏至の日。ヨーロッパなどでは音楽祭とかが行われたりしますね。そんな折り、ブルース・ヘインズ『古楽の終焉 HIP<歴史的知識にもとづく演奏>とはなにか』(大竹尚之訳、アルテスパブリシング、2022)を読了しました。

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著者は18世紀オーケストラなどのオーボエ奏者だそうで(2011年に亡くなっているそうです)、古楽について酸いも甘いもかみ分けてきた人という感じですね。基本的に、「古楽」というものの来し方行く末について、細やかに論じた良書です。

全体的に浮かび上がるのは、「古楽」のイデオロギー性でしょうか。対立しているロマン派や現代音楽などとの対比から、そのイデオロギー性がどう深まって現在にいたっているかの見取り図が示されています。また、それが20世紀、それもとくに後半の一時代のものにすぎない、といった相対的な見方もきっちり示されています。やがては、古楽の「運動」も古くさい一潮流として振り返られることになるのだろう、というわけですね。

著者は古楽が主に扱うバロック音楽について、それが修辞学的なものであると認識していて、そうした工夫のないピリオド楽器の奏者などには批判的です。修辞学的な技法は、そもそも楽譜には示されていないことも多いとされ、楽譜絶対主義のようなものは一蹴されています。このあたり、いろいろ面白いエピソードが満載です。

個人的に面白いなと思ったのは、たとえばスラーの扱い・解釈です。バロック期の楽譜にスラーの記号が書かれているのは、本来スラーなど用いない箇所に、あえてスラーを持ち込む必要があったからだという解釈も成り立つという話です。修辞的な伝承・伝統として、書かれたものによらないで伝えられていた技法を、楽譜にわざわざ書いたりはしなかったかもしれない、と。さらに、そもそものスラーの意味すら、現代的な楽譜とは異なっている可能性がある、と。

こうなるともはや、今月の『現代思想』が特集を組んでいる無知学じゃありませんけれど、過去の修辞的伝承はどうすれば復元できるのか、そもそも復元などできるのか、といった不知・無学の問題にぶち当たってしまいそうです。過去のことを本当に理解などできるのか、どこでどう過去の事象、歴史的事象と折り合いをつけられるのか……云々。なんとも悩ましい問題ですが、私たちはそのあたりを、堂々巡りと知りつつ、何度も行き来し吟味し続けるしかないのでしょう。ソクラテスの徳目をめぐる検討のように。

同書は70曲以上のサンプル音源が参考としてあげられていることも魅力の一つです。これはなかなか聴き応えがありますので、ぜひ。

 

「無知」再考

クセノフォン的ソクラテス

この数ヶ月というもの、光文社古典新訳文庫のクセノフォン『ソクラテスの思い出』(相澤康隆訳、2022)を、Loeb版の希語と突き合わせて読んでいました。クセノフォンのソクラテス像というのは、プラトンのものよりも、どこかしら皮肉な(キュニコス的な)強烈さが薄く、好人物な面が浮き出ているような気がします。でも、ギリシア語的には少しとっつきにくい感じです。

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このソクラテス像の違いというもの興味深いのですが、ここでは最後のほうに出てくるソクラテスの学問的姿勢に注目したいところです。邦訳から引いておきましょう。

総じて言えば、神が天空の現象のそれぞれをどのように設計しているかについて思いを巡らすような思索家となることを彼は戒めたのだった。なぜなら、それらは人間には解き明かせないことだと考えていたからであり、神々が明らかにすることをお望みでない事柄を探求する者は、彼らに気に入られはしないだろうと思っていたからである。(p.230)

また、彼は算術を学ぶことも奨励したが、ほかの科目と同じように、これについても無駄な勉強をしないように注意せよと言っていた。しかし、それが有益であるかぎりは、彼自身もあらゆる問題を仲間たちと一緒に考え、探求したのだった。(p.231)

ソクラテスがある種の事象(自然学的なものなど)について、知の対象とすることに制限・制約をかけていたらしいことがわかります。その基準は、人知が及ばない事象(神の領域に属するような)、学ぶことが無駄となるような、答えの出ないような事案、ということのようなのですが、プラトン的なソクラテスが、なんらかの対象について「知る」と吹聴する相手に議論をふっかけ(ているように見えますね)、その相手の無知・不知を引き出していくのは、決まってそうした「制限・制約」を逸脱した相手に対してだということが推察されます。

クセノフォン的なソクラテスは、本文にも出てくるように、助産婦的な役割を担い、いろいろ思い悩んだりする若者に、しかるべき忠告を与え手を差し伸べ、知を広げる手伝いをする善良な人物のイメージです(もちろん、凝り固まった相手などには、厳しく追い込んでいく姿も活写されてはいるのですが)。要するにそれは、制限・制約の手前にある対象についての話なのですね。

その制限・制約は具体的に何を指すのか、なにゆえに必要とされ(有益性と言われていますが、では有益性とは?)、それを踏み越えるとどうなるのか、といったあたりが気になります。広範に整理してみたいところですが、誰かやって論考にでもまとめてくれないかなあ(他力本願)。

「不知の自覚」とは

これにも関連しますが、ちょうど青土社の『現代思想』6月号が「無知学/アグノトロジーとはなにか」という特集を組んでいて、そこに納富信留氏が「知らないということ」という論考を寄せています。

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ソクラテスの「不知」は、そもそも相手をへし折るためになされる議論ではなく、納得のいく答えが今度こそ得られるのではないかという希望が前提にある、と納富氏は強調します。ソクラテスの不知は誤解にまみれているというのですね。

ソクラテスが対話の最初に自分は「知らない」と宣言し、対話編の最後で結局はその不知を確認するだけになっているとしても、ソクラテスは不知の自覚にとどまりつづけているのではなく(不知の知覚そのものの維持が難しい、と納富氏)、絶えざる探求を続けてはじめて、自己と知との関わりが真に見極められるのだ、とこの論考は核心部分で述べています。

ソクラテスによる「知らない」という表明は、探求初期に必要な浄化の下準備などではなく、探求の全体をつうじて最後まで基礎となる決定的な自覚であり、それのみが真に知への関わりを可能にする条件だと言えるはずである」(p.413)

とはいえ、一つ疑問なのは、ではソクラテスは弟子たち(というか、集まってくる若者たち)に、そのような過酷ともいえる探求を奨励していたのかという点です。どうもそうとは思えないふしがあります。上に示したように、弟子たちへのソクラテスの接し方は「助産婦的」なものだったとされるわけですが、そのことと不知の自覚はどう関連するのでしょうか。もちろん、思い込みによる「知の確信」を戒めていただろうことは十分考えられますが、それ以上に踏み込んだ不知の自覚への手ほどきはありえたのか云々。このあたりが、あまりクリアに見えてこないようにも思われます。プラトンとクセノフォンのソクラテス像の違いもあり、このような単純そうに見える問いでも、探求・考察の途はそう簡単ではなさそうです。

(初出:deltographos.com 2023年6月12日)