「存在・カテゴリー・アナロギア」カテゴリーアーカイブ

ゴッド・マイナス

前々回のエントリで、デカルトによる存在論的議論(神の存在証明)の話が出てきたけれど、そのあたりをめぐっていて、ちょっと面白い議論を見かけた。デカルトの議論のそもそもの原型は、アンセルムスのアプリオリな証明と言われるもの。「それ以上のものが考えられない存在」が神の定義であるとし、単に心の中にある偉大なものよりも、実際に存在するもののほうがより偉大なのであるから、その定義により神は存在することにならざるをえない、という議論なのだけれど、もちろんこれには当時から様々な反論があった。たとえば同時代のベネディクト会士、マルムティエのガウニロは、アンセルムスの議論では、神以外の任意の何であれ、それ以上が考えられない何か(ガウニロが示す例は島だ)として存在しうるはずだが、それが実在しないのは議論に問題があるからだ、と批判してみせたという(ガウニロについては英語版のwikipediaのエントリがまとまっていて便利)。で、まさにこのこの議論の問題点を取り出して、現代的な様相論理バージョンの議論にまで拡大適用してみるというのが、デヴィッド・ファラシ&ダニエル・リンフォード「ゴッド・マイナスの必然的存在について」(David Faraci and Daniel Linford, On the Necessary Existence of God-Munus, http://personal.bgsu.edu/~faracid/ip/god-minus.pdf)という論考。

そこでは、神が最も大いなるものだとして、その偉大さにわずかばかりかけるゴッド・マイナスなるものを仮構し、それにラヴジョイの言う「存在の連鎖」(非存在から神まで、存在が直線上に連なるという古代から中世・近世までを貫く考え方)を援用すると、最も大いなる思考対象としての神が実在するなら、「神-(ゴッド・マイナス)」も同様に実在しなくてはならないことになり、神以外にも必然的な存在が導かれてしまう。しかもその存在の連鎖が不連続なものであるとするなら(同論文では、天使がそれぞれ一つの類をなしているというトマスの議論から、それが不連続であることが窺えるとしている)、存在のスケールにおいて神と神-の次には、神–(ゴッド・マイナス・マイナス)が続き、それもまた必然的な存在、さらに次には神—(ゴッド・マイナス・マイナス・マイナス)が続き、それも必然的だということになって、連鎖のあらゆる構成要素が必然であることが導かれてしまう……。かくしてアンセルムスの議論は改めて難ありとされるわけなのだけれど、そうした議論に拡張することによって、たとえば分析哲学のアルバン・プランティンガの、様相論理にもとづく存在論(アンセルムスの議論のいわば現代版で、可能世界を含めて考えるもの)についても、大きさのスケールが不連続であるならばとの条件付きで、応用可能であることが示されている(同論考は、このプランティンガの議論の条件を示すことが主眼だったかのような感じでもある)。うーん、でも個人的にはやはり、上のマルムティエのガウニロによる議論をちゃんと読んでみたいところだ。

関連書というか……:ラブジョイ『存在の大いなる連鎖』 (内藤健二訳、ちくま学芸文庫)
存在の大いなる連鎖 (ちくま学芸文庫)

イブン・シーナーの因果論

つい先頃、カルターリ『西欧古代神話図像大鑑 続篇―東洋・新世界篇』(八坂書房)の邦訳を刊行された大橋喜之氏のブログ「ヘルモゲネスを探して」で、アヴィセンナの霊魂論・能動知性論についての記事があったのに触発されて、久々にイブン・シーナー関連の論考を読んでみた。シャムスッディン・アリフ「イスラム哲学における因果関係:イブン・シーナーの諸議論」(Syamsuddin Arif, Causality in Islamic Philosophy: The Arguments of Ibn Sina, Islam & Science, vol.7, 2009)というもの。基本的なところを押さえようとしていて、個人的にはとても有用な一篇だ。「事物を知るとはその原因を知ること」がアリストテレスにおける知の在り方だとするなら、原因に関する考察は知そのものをめぐる議論にも関係していくはずだ。で、論考の中身だけれど、イブン・シーナーの原因・結果論でまず特徴的なのは、アリストテレスの四原因論を踏まえつつも、そこに独自見解を加えている点なのだという。とくに作用因についての解釈が独特で、作用因は単に変化や運動をもたらすのみならず、事物の「存在の原因」、「存在をもたらすもの」をもなしていると考えているのだという。さらにまた、そのものとしては可能なものである偶有的な存在であろうとも、それが存在にいたるには必然的にそうなるのではなくてはならないとし、作用因(に限らず原因全体)が存在するのであれば、ほかの条件がすべて満たされるなら、結果もまた必然的に存在するのでなければならないと考えているのだという。つまり作用因は、存在化の原因であるとともに、必然化の原因でもあるということだ。作用因と結果との繋がりは、単に「外延を共有する」というだけでなく、「存在をも共有する」ということになる。このあたりはなかなか面白い議論になっている。また、そこでは「ほかの条件が満たされるなら」という部分がミソで、生成と消滅が繰り返される月下世界では、そうした本性的な条件が揃わないこともあり、結果的にその帰結が偶有的な存在であることも認められるということになる、と。

プロクロスのパルメニデス注解から

Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Introduction Generale.1ere Et 2e Partie (Collection Des Universites De France Serie Grecque)ほぼ一ヶ月前の記事で取り上げたように、一説によるとパルメニデスの「一」はまったくの別格のもの(非存在)であり、そこから「多」が生じてなどいないといわれる。また、後世の解釈がそのことを掌握できず、ひたすら「一」と「多」を同じ地平に位置づけようとする試みとして形而上学が展開してきた、という話もあった。そうした前提を踏まえつつ、プロクロスの『パルメニデス注解』を見てみようということで、希仏対訳本の一巻目(Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Introduction Generale.1ere Et 2e Partie (Collection Des Universites De France Serie Grecque), Les Belles Lettres, 2007(この第一巻は二分冊になっており、片方が総合的序論、もう片方が本文を所収している)を眺めているところ(まだ一巻の本文篇の三分の一程度)。プロクロスは冒頭の箇所でゼノンとパルメニデスのスタンスの違いについて触れている。ゼノンが存在は「一」であるとともに「多」でもあるとして、「一」は同位的に「多」を包含しているとする(I, 620)のに対し、パルメニデスの「一」は隔絶的で、「多」から切り離されているとされる。なるほど、ここまでは前に挙げた解釈にも沿う。けれども、そこから先は新プラトン主義的な解釈となってしまう。つまり「一」は、それをとりまくものによって多へと接合されなくてはならない、というのだ。

この一巻では最初にプラトンの『パルメニデス』の構成が紹介され、語りの重層性についても触れられている。その上で、そうした層をなす登場人物の語りのレベルが、すでにして「一」と「多」の関係になぞらえうると指摘される。まず、パルメニデスは何にも参与されない神的な知性としての「一」に相当するという。ゼノンはその神的な魂が参与する第二の知性であり、それでも十全な知性ではあるわけだけれど、ソクラテスにいたるとそれはいまだ不完全で、部分的知性に位置づけられる(I, 628)。この三層構造は、その次の語りのレベルでも反復されるのだという。まず、パルメニデスたちのホスト役で、対話の聴き手として満ち足りた体験をするピュトドロスが「神的な魂」に位置づけられる。そしてその対話を語るアンティフォンが、自然に働きかける「ダイモン的な魂」に相当するとされ、次いで本編の語り手となるケファロスほかが「個的な魂」に位置する、と(I, 629)。このあたり、まさに流出論的な構造でもって全体的構成がなされているとの解釈だ。

続いてプロクロスは、そうした構造を踏まえて、読み手側は逆に対話篇からその究極の目的である論理そのものへと遡及しなけばならないと説く。そしてまずは先達とされる昔の人々がどう読んでいたかを振り返ってみせる。そこでの中心的テーゼとなるのが、同対話篇が論理学的な訓練を描いているにすぎないという解釈だ(I, 634)。一方でプロクロスは、その対話篇が現実について論じているという対論を突きつけてみせる。ここで、パルメニデスによる「一」の議論が現実の無限の「多」とどう結びつくのかというアポリアもまた、鮮明に浮かび上がってくる(I, 639)。結局プロクロスは、そこに現実についての議論と論理学的な訓練との一種のハイブリッドを見る立場(プロクロスの師匠であるシリアノスの立場)にもとづいて話を進めていくことになる(I, 641)。その全体が神学(神をめぐる形而上的議論)として性格づけられていることも、そこで引き合いに出されている。で、その後は対話のスタイル、弁証法、方法論の話へと話題がシフトしていく(いまここ)。……というわけで、まだ全体からすると序のほんのさわり部分にすぎないけれど、プロクロスの注釈は、やはり「一」と「多」を切り離す議論には批判的で、全体をそれなりの整合性あるものとしてまとめる方向へとひたすら向かっていく。この後は各パッセージを踏まえた各論的な注解になっていくようだけれど、どう展開していくのか……しばらくは散発的にコメントしていきたい。

実像寄りのパルメニデス

プレソクラティクス-初期ギリシア哲学研究- (叢書・ウニベルシタス)プラトンの『パルメニデス』篇は当然ながら、基本的には「プラトン的な」パルメニデス像にすぎないわけだけれど、すると今度は、実像としてのパルメニデスはどんな感じだったのか、「一」と「多」についてどんな議論をしていたのか……といった疑問が頭をもたげる。ま、それは以前にも抱いた問いのような気がするが(苦笑)、今回はさしあたり次の文献に当たってみた。エドワード・ハッセイ『プレソクラティクス-初期ギリシア哲学研究- (叢書・ウニベルシタス)』(日下部吉信訳、法政大学出版局)。手引き書と言うにはちょっと硬派すぎる感じの一冊だけれど、ソクラテス以前の初期ギリシア哲学について、歴史的な時代背景などにも目配せしつつ総合的に掌握しようとしている点は好感がもてる。パルメニデスについては後半に比較的多くのページが割かれていて、実際に残っているパルメニデスの断片の核の部分を再検討してみせている。で、同書によれば、パルメニデスの「在る」の議論は、プラトンの『パルメニデス』の場合の「一」と同様に、「多」へと開かれていないのだという。けれどもここで同書の著者は、その開かれていないことを難点と見、そこに救済として思惟の次元をもちだそうとする。つまり、「在るもの」が一様でないとしたら、そこには「在らぬもの」(「ないもの」)が導入されているのだ、として多性を否定するパルメニデスの議論に対して、「われわれ」は「在るもの」を思惟において部分と全体に切り分けたり、存在と非在を思惟したりすることができる、といった議論をぶつけてみせるのだ。さらに、そうした思惟の側からの議論をパルメニデスが「阻止」していないのは不十分ではないか、とさえ批判してみせる。うーん、これにはちょっと違和感を感じざるをえないのでは……。そう思っていたら、訳者の日下部氏があとがきで、パルメニデスの解釈について同書が「本質的な点において混乱が見られる」と指摘していた。

パルメニデスの「誤解史」について、日下部氏は自著の『ギリシア哲学と主観性』を参照せよと述べている。で、おそらくは当該箇所であろうパルメニデスを扱った同書の一部が、嬉しいことにその日下部氏のオフィシャルブログにおいて、PDFで公開されていた(→こちら)。それによると、パルメニデス的は「ない」の否定を通じて、現象世界へのいっさいの言及を封じ、現象世界を「死すべき者どものドクサ」として非妥協的に斥けたのだという。一方、プラトンやアリストテレスなど西欧の形而上学の伝統は、パルメニデスのテーゼを無視することに始終したというわけだ(p.8)。プラトンの場合、ソフィスト断罪のために、一定の評価をしていたパルメニデスのテーゼはいったん犠牲にされ、「非存在でもある意味存在するし、存在もある意味では存在しない」という形でテーゼを緩和したのだという(p.9)。アリストテレスの場合、パルメニデスの存在論は感覚的存在が対象だと見なし、それを思考や認識の議論でも転用したのだという(pp.9-10)。なるほど、こうしてみると、上のハッセイのコメントも、アリストテレス以来の曲解が今なお息づいていることの見本ということになるのかもしれない。

パルメニデスの「一」

Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library)プロクロスによる『「パルメニデス」注解』の対訳本がフランスのLes Belles Lettresから分冊で刊行されている。そのうちこれを見ていきたいなあと思いつつ、とりあえずその準備として何年かぶりにプラトンの『パルメニデス』を読んでいる。以前はLes Belles Lettresの希仏対訳本で読んだのだけれど、今回はLoeb版(Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library))。『パルメニデス』は他の対話篇でソクラテスが担う役どころをパルメニデスが担い、若きソクラテスは聴き手に回っていたり、語りの構造も複雑だったりして、変わり種であるところが個人的には割と好きな一篇なのだけれど、基本的に論じられている「一」と「多」の問題については、相変わらずよくわからないところなどもあって、きっかけがあればたまに読み返したい作品でもある。「一」には部分・全体の区別もないし、他のものの参与もなければ、類似・非類似の区別もない。運動・静止の区別もなく、時間や空間に与ることもない。それらは「多」であって、いずれも「ない」のであって、在るのはただ「一」のみなのだ……といった話が延々と示されていくわけなのだけれど、では一方で、現象としてのそれらの「多」の「存在」はどう考えればよいのかという点は、やはりあまりよくわからずじまいだ。

今回はそのあたりの問題について、参考となる論文も合わせて見てみた。岡崎文明「プラトンの『パルメニデス編』における「第一の仮定」」(彦根論叢, 287・288: 57-77, 1994)PDFはこちら)。それによれば、このパルメニデス編の議論を追っていくと、なんともパラドクサルながら、結局「一」はいかようにも存在しないということになるし、「一」は一というあり方ではないことにもなる、という(!)。確かにテキストにそういう箇所があって(141e12)、ここは結構びっくりする箇所でもある。で、同論文はそこから、それらの諸特徴を否定された「一」は「あらぬもの・非存在者」ということになる、としている。パルメニデスが語っている「一」は否定的な「一」であり、かくしてその超絶的な「一」は、「物体」「魂」「知性」ではないことが示されるのだ、と。で、それら「物体」「魂」「知性」はあくまで「存在するもの」「一であるもの」であり、肯定された「一」として、書き手であるプラトンの探求の対象になっていくのだという。なるほど、一定の決着として腑に落ちる解釈ではあるなあ。