ビュリダンはまた別の角度、今度は論理学的意味論からのアプローチをかける。これがなんだか妙にわかりにくいのだけれど、「球が平面と接する」という場合、両者は自立的意味(categorematic)でのなんらかの「全体」同士として接触しているのであり、その「全体」は本来的はに分割可能でなければならないのだが、とはいえ侵入しあうわけではないので、共義的な意味(syncategorematic)での全体(混じり合った感じの?)として接しているわけではない……。んん?つまりは両者それぞれの接触部分が、あくまで両者それぞれの部分をなしている(相互に相手を侵犯しない)限りにおいて、その命題(「球が平面と接する」)は真となる、ということなのかしら?でもそれだと、ヴォデハムが言っていることと中身はほとんど変わらないような気も……(苦笑)。おそらく重要なのは、分割可能なもの同士の隣接では、その「接する」部分同士が際限なくより微小なものに分割でき(これを同論文では、proportional division ad infinitum、無限までの応分の分割と表現している)、決して混じり合わないということなのだろう。不可分の点で接するということは、接する両者がその点を共有することになり、いわば「混じり合」ってしまうことになる。これは認められない、というわけだ。けれどもビュリダンは、あえて「点」で接すると言ってよいのだと考えている(!)という。ただしその場合の点は、不可分なものではなく、分割可能なもの(接する同士のいずれか)に属する限りでの点だとされている(とまあ、この論文著者の議論からは読める)。ここにおいてビュリダンは、ヴォデハムを挟んだ形でオッカムとのある種鮮やかなコントラスト(方法的にも、議論としても)を見せている。うーん、こうした理解でいいのかちょっと心許ないが、ビュリダンについてはいずれあらためて検討したい。
またまた溜まった未読PDFの山(推定上の)を、連休期間中に少しばかり片付けようと考えているところ。でもなかなか進まない(苦笑)。とりあえず、ジョン・マクギニス「中世アラビアの、瞬間の運動についての分析:流れる形相/形相の流れ論争へのアヴィセンナの出典」(Jon McGinnis, A medieval Arabic analysis of motion at an instant: the Avicennan sources to the forma fluens/fluxus formae debate, British Journal for the History of Science 39(2), 2006, pp.1-17)という論考に目を通す。中世盛期の自然学の一大問題だったという「運動」概念。アリストテレスの考えたどの範疇に運動が分類されるのかというのがその難問だったというが、ラテン世界ではとくに運動と形相の関係が問題になり、運動はforma fluens(流れる形相)かfluxus formae(形相の流れ)かという議論になったのだという。これらはアルベルトゥス・マグヌスが運動概念を整理する中でまとめているという。運動を目的因から見る場合、それは「完全なもの」になる途中の段階と見なすことができるというわけなのだけれど、その際に最終的状態を運動概念に含めるか、それともあくまで運動は途上の手段にすぎないかで見解が分かれる。前者の立場を取ると、最終的状態はいずれかの範疇に属するので運動はその最終状態の範疇に分類される。また、運動はその過程と到達点を両方含み、両義的な概念となる。これがforma fluensの立場で、アルベルトゥスはこれをアヴェロエスに帰している。後者の立場を取ると、運動は過程でしかないのでどの範疇にも属さないものになってしまう。運動概念は一義的になる。これがfluxus formaeの立場で、アルベルトゥスはこれをアヴィセンナに帰している。
『ケンブリッジ必携』シリーズはいろいろな思想家のものが出ていて、アベラールの巻(“Cambridge Companion to Abelard”, ed. Jeffery Brower et al, Cambridge University Press, 2004)ももちろんあるわけだけれど、これに収録されているピーター・キングの「アベラールの形而上学」(Peter King, ‘THE METAPHYSICS OF PETER ABELARD’, pp.65-125)がPDF(→こちら)で公開されているのを最近知る。さっそく落として、今前半くらいまでをざっと見ているところ。アベラールは従来、どちらかというと普遍論争がらみや論理学方面から取り上げられることが多いという印象なので、その「形而上学」の概要をまとめるというのは結構珍しいのではないかという気がする。で、この論考でもまずその唯名論者(反実在論者)的な面から入っていく。アベラールが実在論を斥ける議論を展開しているのは、有名な例の「Logica Ingredientibus」だけれど、この論文の著者は少し細かく紹介している。アベラールがボエティウスの示す「普遍」の基準に合致しないとして斥けるのは実在論は、物質的本質を認めるタイプの実在論(一般的な実在論)と、集合的実在論(部分が集まったものを普遍とするという実在論)、中立理論(シャンポーのギヨーム:個物のみが存在するとしつつ、その個物の中立的同一性を普遍とする実在論)などがあったとされている。で、その上でアベラールが考えていた個物についてのまとめがあり、その基本的な質料形相論が、アベラールの唱える二段階創造説の文脈(無からの元素の創造と、その後の形相の創造)から紹介される。形相と質料の密接な相互関係などが強調されているといい、一方で人間の魂は形相そのものではなく形相に類するもの、といった議論を展開しているとされ、なにやらそのあたり、後世のアウグスティヌス主義を彷彿とさせたりもする。このあたりの話は、ポルピュリオスのエイサゴーゲーへの注解(Logica Ingredientibusの1巻目)からのものなのだとか。