前々回のエントリで、デカルトによる存在論的議論(神の存在証明)の話が出てきたけれど、そのあたりをめぐっていて、ちょっと面白い議論を見かけた。デカルトの議論のそもそもの原型は、アンセルムスのアプリオリな証明と言われるもの。「それ以上のものが考えられない存在」が神の定義であるとし、単に心の中にある偉大なものよりも、実際に存在するもののほうがより偉大なのであるから、その定義により神は存在することにならざるをえない、という議論なのだけれど、もちろんこれには当時から様々な反論があった。たとえば同時代のベネディクト会士、マルムティエのガウニロは、アンセルムスの議論では、神以外の任意の何であれ、それ以上が考えられない何か(ガウニロが示す例は島だ)として存在しうるはずだが、それが実在しないのは議論に問題があるからだ、と批判してみせたという(ガウニロについては英語版のwikipediaのエントリがまとまっていて便利)。で、まさにこのこの議論の問題点を取り出して、現代的な様相論理バージョンの議論にまで拡大適用してみるというのが、デヴィッド・ファラシ&ダニエル・リンフォード「ゴッド・マイナスの必然的存在について」(David Faraci and Daniel Linford, On the Necessary Existence of God-Munus, http://personal.bgsu.edu/~faracid/ip/god-minus.pdf)という論考。
つい先頃、カルターリ『西欧古代神話図像大鑑 続篇―東洋・新世界篇』(八坂書房)の邦訳を刊行された大橋喜之氏のブログ「ヘルモゲネスを探して」で、アヴィセンナの霊魂論・能動知性論についての記事があったのに触発されて、久々にイブン・シーナー関連の論考を読んでみた。シャムスッディン・アリフ「イスラム哲学における因果関係:イブン・シーナーの諸議論」(Syamsuddin Arif, Causality in Islamic Philosophy: The Arguments of Ibn Sina, Islam & Science, vol.7, 2009)というもの。基本的なところを押さえようとしていて、個人的にはとても有用な一篇だ。「事物を知るとはその原因を知ること」がアリストテレスにおける知の在り方だとするなら、原因に関する考察は知そのものをめぐる議論にも関係していくはずだ。で、論考の中身だけれど、イブン・シーナーの原因・結果論でまず特徴的なのは、アリストテレスの四原因論を踏まえつつも、そこに独自見解を加えている点なのだという。とくに作用因についての解釈が独特で、作用因は単に変化や運動をもたらすのみならず、事物の「存在の原因」、「存在をもたらすもの」をもなしていると考えているのだという。さらにまた、そのものとしては可能なものである偶有的な存在であろうとも、それが存在にいたるには必然的にそうなるのではなくてはならないとし、作用因(に限らず原因全体)が存在するのであれば、ほかの条件がすべて満たされるなら、結果もまた必然的に存在するのでなければならないと考えているのだという。つまり作用因は、存在化の原因であるとともに、必然化の原因でもあるということだ。作用因と結果との繋がりは、単に「外延を共有する」というだけでなく、「存在をも共有する」ということになる。このあたりはなかなか面白い議論になっている。また、そこでは「ほかの条件が満たされるなら」という部分がミソで、生成と消滅が繰り返される月下世界では、そうした本性的な条件が揃わないこともあり、結果的にその帰結が偶有的な存在であることも認められるということになる、と。
ほぼ一ヶ月前の記事で取り上げたように、一説によるとパルメニデスの「一」はまったくの別格のもの(非存在)であり、そこから「多」が生じてなどいないといわれる。また、後世の解釈がそのことを掌握できず、ひたすら「一」と「多」を同じ地平に位置づけようとする試みとして形而上学が展開してきた、という話もあった。そうした前提を踏まえつつ、プロクロスの『パルメニデス注解』を見てみようということで、希仏対訳本の一巻目(Commentaire Sur Le Parmenide De Platon: Introduction Generale.1ere Et 2e Partie (Collection Des Universites De France Serie Grecque), Les Belles Lettres, 2007)(この第一巻は二分冊になっており、片方が総合的序論、もう片方が本文を所収している)を眺めているところ(まだ一巻の本文篇の三分の一程度)。プロクロスは冒頭の箇所でゼノンとパルメニデスのスタンスの違いについて触れている。ゼノンが存在は「一」であるとともに「多」でもあるとして、「一」は同位的に「多」を包含しているとする(I, 620)のに対し、パルメニデスの「一」は隔絶的で、「多」から切り離されているとされる。なるほど、ここまでは前に挙げた解釈にも沿う。けれども、そこから先は新プラトン主義的な解釈となってしまう。つまり「一」は、それをとりまくものによって多へと接合されなくてはならない、というのだ。