「存在・カテゴリー・アナロギア」カテゴリーアーカイブ

アルベルトゥスの関係論

またまた面白い論文。今度はアルベルトゥス・マグヌスについてのもので、その「関係」(アリストテレスの十の範疇のうちの一つ)についての考え方をまとめたもの。ジェフリー・ブラウアー「ポリアディックな属性なき関係性:関係の性質と存在論的身分をめぐるアルベルトゥス・マグヌス」(Jeffrey E. Brower, ‘Relations Without Polyadic Properties: Albert the Great on the Nature and Ontological Status of Relations’, Archiv für Geschichte der Philosophie Vol.83, (2001))。ポリアディックというのは、モナディックの逆で、多数の変数が含まれるという意味。現代世界では一般に、事物同士の関係というのは、同じ関係が一度に多くの事物に当てはまる(つまり変数を変えて適用できる)とされるのが普通だけれども、アリストテレスの関係論と、それを受け継いだ中世盛期ごろまでの議論では必ずしもそうなってはいなかったらしい……というわけで、アルベルトゥスのちょっと独特な「関係論」を丁寧に見ていくというのがこの論文。

中世の関係論は、関係性そのものを外的に実在すると考える実在論と、それは頭の中にある概念にすぎないとする非実在論(唯名論)とに分かれる。中世盛期ごろには後者はあまり多くはないようで、アルベルトゥスはもちろん実在論を支持するわけだけれど、その場合の実在というのは、事物に付随する偶有的な属性ということになる。しかもそれは多数の事物に属するポリアディックなものではなく、事物ごとにその都度属するモナディックな属性だとされる。いずれにしてもそれは実在する何かに対応しなくてはならないのだけれど、アルベルトゥスはどうやらそれを、事物に宿る性向、一種の「関係づける力」であると捉えているらしい。17世紀のジョン・ロックが、事物の属性とは人間に思惟や感覚を喚起する力であると述べるのと、どこか通じる部分もある……と(ただしアルベルトゥスの場合には、ロックのような生成・喚起の力というのではなく、あくまで事物相互の結びつきの性向にすぎないのだけれど)。そうした結びつきの性向を、他の属性に還元しようとする立場もあり、中世では12世紀のアベラールが取り上げられてもいる。

これはアルベルトゥスの『範疇論』注解での話。これが『形而上学』注解になると、比重の置かれ方が変わってきていて、アルベルトゥスは関係を「何かに対する方向性」というように規定するようになるという(アリストテレスは関係を「πρὸς τι」と称するわけだけれど、まさにそれへの回帰のよう)。ここでのアルベルトゥスは、アベラール的な還元論的実在論にも与していないという。それはあくまで特殊な(sui generis)属性なのだ。こうなるとこれは、20世紀のラッセルの議論にも似てくる(と著者はいう)。ただしここでもまた、ラッセルのほうはポリアディックな議論だという違いはあるわけだが……。うーむ、ちょっと微妙な議論のようなところもあるように思えるけれど(笑)、この論考はこうして世紀をまたいでいく感じ、一種のドライブ感のようなものが小気味よい。最後にはちょっとした思考実験(ラッセル側からの想定反論にアルベルトゥスがどう対応するか、みたいな)もあって、なかなか読ませる。

↓wikipedia (en)から、アルベルトゥス・マグヌス(ユストゥス・ファン・ゲント画、15世紀)

各者各様の質料観

連休の少し前にゲットした『西洋思想における「個」の概念』(慶應義塾大学出版会、2011)を、空き時間を使ってかなり雑にだけれど目を通しているところ。急逝された中川純男氏の事実上の追悼論文集とも言える一冊。個をめぐる問題について、思想史上のエポックメーカーたちを取り上げた論考でもって俯瞰しようという主旨らしい。アリストテレスの後はアウグスティヌス、トマス、スコトゥス、エックハルトときて、おそらくこの論集の主役であろうライプニッツにまでいたる。もちろん飛び石的ではあるけれど、こうした長めのスパンでの論集というのはなかなか面白い(邦語論文なので、ある種の読みにくさはあるけれど)。こういう企画はぜひいろいろなところで進めていただきたいものだと思う。

とりあえず半ば過ぎまで目を通してみたけれど、個人的な目下の関心もあって、ついつい質料形相論がらみの記述に目がいってしまう(笑)。佐藤真基子「アウグスティヌスにおける個体の可変性についての理解」では、アウグスティヌスが用いる無形質料(materia informis)なる語が、プロティノスをもとにしつつ、事物の変化に着目した表現であることを指摘していて興味深い。なるほど『告白』と並んで『ソリロキア』もやはり重要だなあ、と改めて思う。続く水田英実「個の概念に関するトマス説」では、例の「指定された質料」(materia signata)が取り上げられている。ハードディスクに比して言えば「フォーマット済み」の質料か(笑)。部分的形相・全体的形相(「人間性」など)とその指定された質料とのどこか緊張を孕んだ関係を(?)、『De Ente』のテキストから取り出してまとめてみせている。

さらに次の小川量子「ドゥンス・スコトゥスにおける個の問題」は、スコトゥスの個体化理論の概要を史的な周辺事情をも絡めてまとめ上げている。スコトゥスでは認識の問題から個体化の話に入るために、質料形相論はやや後方に位置するように思える。実際この論文でも扱いは大きくないものの、トマス的な質料による個体化(複合体の)という議論に対して、スコトゥスのは、質料には質料を「この質料」にする個体化の原理があり、形相には形相の個体化の原理があり、複合体の個体化の原理もまた別ものなのだ、とまとめている(うーむ、このあたりのテキストの解釈は結構微妙なものになる感じもするが……再検証しよう)。高橋淳友「エックハルトにおける「個」の概念」はマイモニデスとの関連でエックハルトのキータームを考察するというもので、質料形相論は出てこないようだが、逆にエックハルトの場合に質料形相論がどうなっているのか気になってきた(笑)。橋本由美子「個体と世界」はライプニッツのモナドロジー解釈。ライプニッツが質料とだけ言うときの質料は第二質料なのだというが、すると第一質料はどうなるのかということになるわけだけれど、なにやらここで、この論集を最初から見てきた読者には、これがなんだかアウグスティヌスの無形質料に重なって見えてくるような……(笑)。既視感がおりなす円環?いやいや、そこでは終わらない。論考はほかにも田子山和歌子「ライプニッツにとって個とは何であるか」、藁谷敏晴「論理的存在論について」「三段論法における単称命題の特殊性に関するライプニッツの要請について」、そしてモナドロジーの全訳(田子山訳)が続く。こうして名ばかり連休の夜も更けていく、と……。

トロープ理論再び

間接的に関係するだけなのでと、後回しにしてきた一冊にようやく目を通す。『現代形而上学論文集』(柏端達也ほか訳、勁草書房、2006)。分析哲学方面の重要な論文のいくつかを訳出した、日本オリジナルの一冊。普遍と個別の問題などが取り上げられているので、それなりに面白い。ただ、アリストテレスあたりから受け継がれた機能主義というか、科学的な分解と再構成の手法の行き着く先という、今とてもアクチャルな問題機制との関連で眺めると、正直なところ、これが本当に豊かな哲学的地平を開くのかどうかという点で居心地の悪さを感じたりもする。ま、それはともかく。個人的な関心からすると、とりわけ興味深いのは後半の大きな部分を形作る二つの論考。デイヴィド・ルイスの「普遍者の理論のための新しい仕事」と、ピーター/サイモンズ「個別の衣をまとった個別者たち」だ。

ちょっと乱暴にまとめてしまうと(苦笑)、前者は基本的に、普遍者を想定する代わりにクラス的なものとしての性質を前面に出すことを提唱する。そのために、自然的性質という、モノを指示する上での適格性を備えた性質を仮構している。後者はというと、いわゆるトロープ(個別者の備える性質)理論についての議論。指示できるようなモノをトロープがどのように成立させるかという問題について、従来の「束説」「基体説」の難点を指摘し、両者の折衷案のような形で「核説」を提唱する。トロープが束をなすという一つめの説は、全体を取りまとめる結合に難点があるようで、フッサールのようにトロープを部分と見る立場や、オッカムなどに端を発するモード(仕方、様態?)として見る立場など、いずれも偶然的トロープと本質的トロープの区別が考慮されないという。基体説はアリストテレスの第一質料にまで遡れる議論だというけれど、その立場ではトロープと物的実体との関係が説明されずに残ってしまうという。そこで出てくるのが、核をなすトロープとそれに引き連れられる偶然的トロープという考え方だ。これはどうやら素粒子などのイメージを重ね合わせたものらしいことが最後のほうで語られている(ここでいう核が、nucleusなどの名で呼ばれているのは示唆的かもしれない、なんて)。

両論考は、クラス的なものとするか個別の側のものとするかはともかく、いずれも性質をモノの実体を構成するものとして取り上げている。けれどもその「性質」は実体未満かつ理論的な仮構物という側面が強く、ひどく静的な概念だという印象を受ける。ここはやはり、どこか大陸的な感性でもって(?)、ぜひとも動的な概念装置を持ち込んでもらいたい気もしなくはない(笑)……そんなことが可能かどうかはわからないけれど……。ま、それとは別に、原論文は前者が83年、後者が94年ということで、両者間の開きもあるし、今現在の最新鋭の議論はまたずいぶんと違っているのだろうと思う。ちょっとその後がどうなっているのか、改めて少し探ってみたい気もしている。

ブラッドショウ本(その2)エネルゲイアからウーシアへ

11日の地震後(というかその前から)ブログ更新が止まっていたけれど、少しづつ復帰していこうと思う。というわけで、前回掲げたブラッドショウ本の続きというかメモから。余震と原発ニュースの中で、この数日の間ちびちび読む感じになってしまっているのだけれど、その意味ではよい気晴らしにもなってくれている。内容的な面とも併せて、これは記憶に残りそうな一冊かもしれない(笑)。

常々思っていたのだけれど、actus essendiなどという時の「actus」が、現実態と訳されつつも、どうも「働き、作用、営為」のような意味合いを含んでいるらしいのは、一体どのような思想的背景に根ざしているのかという疑問があった。で、どうやらその鍵はこの「エネルゲイア」概念的変遷を追うことにあったらしい。発端はもちろんアリストテレス。そこには「潜在力の行使」と「現実態」の二つの意味論が見出されるといい、それが「不動の動者」の概念と絡むことで、一種の神学的な下地が出来上がる。とはいえ、リュケイオンの後継者だったテオプラストス以降、天空の円運動などを指す意味のみが受け継がれていく。一方、「エネルゲイア」に神の表出(それにより神が知られるもの)の意味が再浮上するのはアレクサンドリアのフィロン(ピロン)からだという。さらに中期プラトン主義(主にヌメニオス)がフィロン的なエネルゲイア概念を取り込み、さらにアフロディシアスのアレクサンドロスにいたって、「行為」と「現実態」の二つの意味が再度つながれる。

その二重の意味はプロティノスの体系において、実体の「内的」作用と「外的」作用(知性と一者)とに規定され直し、完全に二つのヒュポスタシスとして定義し直される。これが偽ポルピュリオスの(逸名著者の)『パルメニデス注解』になると、「一者」(概念としての)と「存在する一者」の区別となって現れる。一者の「エネルゲイア」はその「存在」とイコールとされ、プロティノスの一者と知性の区別は一者を考察する二つの仕方へと縮減されていく。まさにここに、ある種の行為としての存在という、その後中世へと受け継がれていく概念の嚆矢があるのだ、と。うーん、なるほど、『パルメニデス注解』か。これ、前にも出てきたことがあるなあ。落ち着いたらぜひ目を通さねば!

Wikipedia (en) より、ポルピュリオス

グンディサリヌスへ

以前に購入し部分的に目を通したことのあったドミニクス・グンディサリヌスの『哲学区分論』(De Divisione Philosophiae)を、ちょっと思うところあって、頭からの通読を始める。グンディサリヌスは、12世紀のスペインのスコラ学者(1110頃〜1190頃)。アラビア語からラテン語への翻訳(イブン・ガビロール、ガザーリー、イブン・シーナーなどなど)で知られる人物で、トレドで活躍した。翻訳のほかに自著もいろいろとあり、この『哲学区分論』はその代表作。手元にあるのは羅独対訳本(Dominicus Gundissalinus, “Über die Einteilung der Philosophie”, ubs. A.Fidora und Dorothée Werner, Verlag Herder, 2007)。でも、なんともすばらしいことに、ミュンスターで1903年に刊行された版がオンラインで公開されている(→PDFファイル)。余談ながらこれ、最近ツィッターで流れてきたサイト情報だったのだけれど、それにしてもこのヴァーチャルライブラリは素晴らしい充実ぶり。

まずはとりあえず本文の序章。「区分論」というだけに、大きなところから小さなところへとひたすら切り分けながら突き進んでいくというがその方法論。なんと最初は人間の欲求の区分から始まっている。欲求を精神的・肉体的と分け、精神的なものを有害・空疎・有益に分け、今度はその有益を徳と知に分け、知を神的なもの・人間的なものに分け、人間知を雄弁(文法・詩・レトリック)と賢慮(哲学)に分けていく。これが前半。後半は続いてその哲学を区分していく段になる。これまたちょっと紆余曲折があって(苦笑ながら割愛)、最終的に哲学は理論と実践に分かれるとされ、理論はまた、思惟の対象と物質性を基準に三つに分かれ(自然学、数学、神学)、実践も対象に応じて三つに分かれる(政治学、経済学、倫理学)。そして理論に先行するものとしての論理学も忘れていない。そうして次章は自然学についての詳論となっていく。ここまで、議論はかなりの速度でテンポ良く進む。これだから、ある種の中世のテキストは止められないのよねえ。この速度感をしばらく味わうことにしようと思う(笑)。