「存在・カテゴリー・アナロギア」カテゴリーアーカイブ

実在、不確定、神……

これもちょっとした話題作……なのかな?マイケル・ダメット『思想と実在』(金子洋之訳、春秋社)にざっと目を通す。分析哲学はなにやらとても窮屈な感じがするので、そういうのに耐えられる心情のときでないとなかなか読み進められないのだけれど、これは講義がもとだということで、比較的とっつきやすい感じではる。ま、そうはいっても歯ごたえは十分すぎるほどあるのだけれどね(笑)。個人的には最後の3つの章が断然面白い。まずは命題の真偽がどう決まるのかという大きな問題をめぐって進んだ末に、命題が時制をもっている場合の処理が、諸説にとってのある種の試金石になることを論じている。ダメットはそこから、「文理解についての正確な説明」が「要求する程度にとどめる」限定つきの実在論を擁護する。次いで今度は、そうして考えられた実在論から、二値原理(真か偽か)でもって確定できないような実在が導かれる。「もし世界が創造者をもつならば、神は確実に人間の著者と同じように世界の細部を未決定のままに残す自由をもつはずである」。こうして、事物の現れ方(われわれにとっての)と事物それ自体がどのようにあるかということとの断絶があらわになり、と同時に、あるがままの事物を捉えることの不可能性(われわれの)が、そうした事物を捉える純粋知性としての神の概念へと織り込まれて表裏をなすことが概括される……。この、世界観や神についての問いは同書の白眉といえそうな部分で、このあたり、(多少の読みにくさはあっても)なんだか一気にたたみかけるような調子でどんどん読ませてくれる。分析哲学も大陸系の現象学のように、そうした壮大な問いへと開かれている……なんてことはつい忘れてしまいがち(反省を込めて、苦笑)。

久々にドゥルーズ論

久々にドゥルーズ論を読み始めたところ。ピーター・ホルワード『ドゥルーズと創造の哲学 – この世界を抜け出て』(松本潤一郎訳、青土社)。まだ2章めの途中までだけれど、わー、すでにしてこれはなんというか、個人的には読む快楽を味わうことができる一冊。ドゥルーズ哲学の全体像を「創造」をキータームにしてわしづかみにしようという目論み。創造とはつまり生成変化のことで、いわば例のプロセス実在論ということ。ここではそれはある意味それを突き抜けて、むしろプロセス神学的(といっても、ホワイトヘッドのそれとは違うけれど)。まだほんの出だし部分しか読んでいないのでナンだけれども(苦笑)、ドゥルーズが存在の一義性のほか、たとえば神(この場合は創造のプロセスそのものということになるのかしら)の認識が人間主体にもとより可能であるという見解(つまりは神秘主義的な見識だが)でもドゥンス・スコトゥスに重なるらしいことが改めてよくわかる。ドゥルーズってやはりとても「フランシスコ会的」かも(笑)。「われわれが真に思考するとき、神こそがわれわれを通して思考する」(p.35)なんて、反デカルト的にマルブランシュにも通じているし。フランシスコ会系の思想のはるか先にドゥルーズのような思想が待っているとしたら……やはりそのもとの思想を現代において問い直す意義も十分にありそうだ、と改めて。

コペルニクス……

先日、メレオロジー関連のとある論文のコピーをいただいた(Tさん、ありがとうございました)。アンドレ・ゴドゥ「コペルニクスのメレオロジカルな宇宙観」と題された一本(André Goddu, ‘Copernicus’s Mereological Vision of the Universe’, Early Science and Medicine 14 (2009) 316-339) 。ちょっと妙な読みにくさがあるけれど(「メレオロジー」の用語の持ち上げ方とかに、なんだか違和感を覚えたりもする……)、全体としてはなかなか面白い考察。コペルニクスは地動説の議論において、従来の天動説の何が間違いかというところで、「部分に属するものを全体に属するものと取り違えた」みたいな議論をするのだという。そこで言う部分と全体というのは運動がどこに属するか(地球か、あるいは宇宙か)ということらしいけれど、同著者はコペルニクスの考え方においてこの「部分」と「全体」の推論が大きな意味をもっているとして、まずは論理学的伝統を辿り直すところからアプローチする(コペルニクスがそういう伝統的論理学の教育を受けていたため)。とくに、論理学の教科書をなしていたペトルス・ヒスパヌス(13世紀)の論理学に着目し、キケロとボエティウスに遡るとされる「家と壁」の関係の話などを取り上げている。

ペトルスが挙げているのは、1「家があるならそのパーツもある」2「家がなければパーツもない」3「パーツがあれば家もある」4「パーツがなければ家もない」。で、この2番目と3番目が論理命題として難があるわけだけれど、アベラールなどは、全体というのは部分とその部分がもつ配置を兼ね備えたものと考え、2番目を「家がなければ、『その家をなすパーツ』もない」と解釈して真と認めるのだという。3番目も、「『この家のパーツ』があれば家もある(潜在的に)」と解釈すれば真になる(こりゃちょっと強引だが(笑))、と。さらに後のスコラ学には、部分には存続に関係するものとそうでないものとがある、みたいな議論も出てくるのだそうで(ガンのヘンリクス?)、このあたりもそれなりに錯綜していそうで、やはりいろいろ確認していけば面白そうだ。

このあたりの話は同論文の本筋ではないけれど(コペルニクスが主題だもんね)、いずれにしても、ルネサンスというか初期近代というか、後の時代を考察する論文に案外中世関連のヒントなどがある、みたいなことが、最近やたらと個人的に目につく。うーん、膨大な文献をあれもこれもと消化するのはとうてい無理だとしても、少しばかりはそういう方面も覗いてパースペクティブを拡げるのも有益かな、なんて思ったりもする。

九鬼哲学入門文選

ちょっと思うところあって、九鬼周造の偶然についての論考を読もうと思い、代表作『偶然性の問題』とかの前にとりあえず小論を、と考えて手にしたのが『偶然と驚きの哲学 – 九鬼哲学入門文選』(書肆心水、2007)。これはなかなか手頃で良質な文選(こういうものはもっといろいろ出してほしいところ)。『偶然性の問題』の要旨をまとめたような小論(「偶然の諸相」)が収録されていたのは予想通りだったけれど、まさかその序文と目次、結論まで入っているとは意外だった(笑)。偶然を必然すなわち同一性の否定ととらえ、必然の三つの相の裏返しとして、定言的偶然、仮説的偶然、離接的偶然を分けるという、九鬼偶然論の基本がよくわかる。さらに「驚きの情と偶然性」では、現実世界そのものに原始偶然を見るという境地になっている。これなどは、偶有(個体)をこそモノの存在様式の基本アスペクトと見るドゥンス・スコトゥスあたりとも共鳴させることができそうな感じで、個人的には興味深い。いずれにしても、こうして短い文選でもって読むと、やはりちょっと物足りない、読み足りないという気もしてくる。ちょっと全集版を図書館で見てくることにしようかと。

四次元主義……

中世の存在論とか個体化論などのはるかなる延長線ということで、現代の分析哲学系の形而上学も気になるのだけれど、これはこれでなかなか手強そうではある。そんなことを改めて感じさせるのが、セオドア・サイダー『四次元主義の哲学』(中山康雄監訳、春秋社)。まだ読み始めたばかり(2章まで)なのだけれど、時空的変化を踏まえた存在論という感じの基本スタンスを示す第一章はなかなか軽快な感じで進み、なるほど中核的なアイデアはそれほど面妖なものでもなさそうだ、なんて思えたのだけれど、2章の「現在主義への批判」にいたると、ちょっと個人的に読み進むのに疲れてくる(苦笑)。マクタガート以来の時制論のたぶん簡便な整理になっているのだろうけれど(?)、すでにしてかなり重厚な議論の積み重ねが背景にあるいることがわかる。うーん、そのあたり、なかなか簡単には入っていけないっすね。3章以降が再び四次元主義の具体的な話になるようなので、改めて期待しているところだけれど、まあ、ちょっと行きつ戻りつしながらゆっくりと進めていくことにしようかと。