「見・聞・読・食」カテゴリーアーカイブ

休日的、閑話休題2

オリヴィエ・メシアンの唯一のオペラ『アッシジの聖フランチェスコ』。めったに上演されるものでもないこの作品の3枚組DVD( メシアン、オリヴィエ(1908-1992)/Saint Francois D’assise: Audi Metzmacher / Haag Po Gilfry Tilling Delamboye)を、三日かけて観てみた。聖フランチェスコの生涯のエピソードを綴ったもので、話は淡々としているものの、メシアンの独特の音型でもって歌われると、なにやら微妙な緊張感が全編にみなぎってくるから不思議。鳥の声の再現でも知られるメシアンだけに、笛やパーカッションの彩りも実によく利いていたりする。演奏はハーグ・フィルハーモニック。指揮はインゴ・メッツマッハー。演出はピエール・オーディ。楽団がステージの奥に陣取るというちょっと変わった配置(演奏会形式ではない)。歌手=役者はその前面で歌う(修道僧たちが皆オールバックで、ちょっと可笑しい(笑))。どこかインスタレーション風の木々や十字架を表す板、要所要所での派手な色彩、子ども達を使ったインプロビゼージョン、細やかなライティングなど、いずれも全体の緊張感を高めるのに一役買っている。基本的に映像がないと全曲聴き通すのは辛い気もするけれど、舞台としては全体的になかなか素晴らしいのではないかしら、と。

休日的、閑話休題

すっごく遅ればせながら、小野正嗣『にぎやかな湾に背負われた船』(朝日文庫、2005)を読んでみる。どこぞで面白いという話を聞いたもので……(苦笑)。で、なんかこれには軽い衝撃を受ける。表題作ともう一作の合本だけれど、やはり表題作がすごい。どこぞの海辺の集落を舞台にし、老人たちのくっちゃべりなど、昔の田舎にならどこにでもあったような風景の中が描かれていくのだけれど、徐々にかなり不条理な非日常が顔を出し、昔語りの重層性から、かつての集落の恥ずべき記憶などが浮上してくるという、とても凝った作品。なんだか、懐かしい旋律を追っていたら、徐々に対位法的に別の音型が混じってきて、気がつくとまったく別の音楽を聴いていた、みたいな感じに近いものが。うーん、田舎の土着性の泥から結晶のような物語が引き出されるとは……。それにしても、この国の田舎的な均質性って一体……なんてことも改めて思う(笑)。

道元……

ちょっと閑話休題的だけれど……空き時間読書(移動時間その他での)でゆるゆると眺めるつもりが、例によって一気に加速してしまったのが頼住光子『道元–自己・時間・世界はどのように成立するのか』(NHK出版、2005)。これがなかなか面白かった。『正法眼蔵』の難解なテキストの核心部を、なんとも実に鮮やかな手さばきで切り分けてみせた良書。小著ながらとても読み応えがある感じ。現代思想などでこういう分析的な解釈をするのは多々あっても、日本の古典、しかも道元にそういう道具立てで切り込んでいくというのはなかなか凄い。特に後半の、自己と時間と存在とが一種の「配列論」として扱われるところなどは圧巻。時間は客観的な軸にそって流れるのではなく、「配列」によって連続していく、その意味づけ(配列)によって世界が現成化し、同時に自己も立ち上がるのだ……と。うーん、仏教方面はあまりよく知らないし、古文のテキストもちゃんと読めないけれど(苦笑)、とても刺激的な世界が潜んでいるのだなあ、と。巻末に収められた参考文献とか見ると、フランス文学者や西欧哲学の研究者などにも道元を論じている人がいたりして、そのこともとても興味深い。

『チェーザレ』7巻

先日、出先の本屋に行ってみたら、普段新刊の売れ筋本が並んでいるコーナー(この間まで『1Q84』とかが並んでいた)が、すべてコミックの新刊になっていた。『のだめ』(いよいよ佳境っすね)とか『神の雫』(これは読んでいない。発酵ものというと『もやしもん』のビール編を堪能したばかり)……ってその下に、惣領冬実『チェーザレ』7巻(講談社)が並んでいるでないの。で、即買い。秋ぐらいかなと思っていたら、もう出ていたのね。この7巻、降誕祭の司祭をつとめるチェーザレが、みずからの政治思想の根幹を語り、それを通じて聖職叙任権闘争の象徴の一つ「カノッサの屈辱」と、ダンテがハインリヒ7世に託した「帝政論」が重ねて描き込まれるという、なんとも贅沢な巻。「カノッサの屈辱」なんか、教科書的には単純に「教皇側の勝ち〜」みたいに言われていたりするけれど(ほんとか?)(笑)、事態はそう単純にあらず、という話を実にドラマチックに描いていて秀逸。ダンテにしても、きわめて政治的な、ある意味とても俗な人物として描かれているのがまた素晴らしい(笑)。

今回はまた、若き日のミケランジェロとかちらっと出てくるし、『ニコマコス倫理学』が言及されていたりもする。ん、レオナルド・ブルーニのラテン語訳はともかく、アンギュロプロス(ヒューマニストらにギリシア語とか教えた人よね)による翻訳本って初耳。あと、アヴェロエス版って?(とアラビア語訳?)これって注解書のことかしらね。うーむ、いずれにしても『ニコマコス倫理学』はこのところ、改めてちょっと注目したいと思っていただけに、なんだかとってもタイムリー(笑)。ちょうどBrillから今年出た、ビザンツでの同書の受容についての論集を注文したばかり。

歯車機械

先のジャンペル本では、西欧では機械式時計が発明されたのは13世紀ごろとされ、振り子式やエスケープメントも14世紀半ばには定着していたと記されている。これがまあ、従来の妥当な定説。しかしながら、はるか昔のギリシア時代、同じような歯車式の機械がすでに存在していたとしたら……。という問いを突きつけてきたのが、「アンティキテラの機械」と言われるものなんだそうで。1901年に古代の沈没船から引き上げられた物品の中から発見された、ボックス型の歯車機械。何をする機械なのか、どういう仕組みで動くのか、いつごろの機械なのか。そうした疑問に取り組んだ人々を活写した、サイエンス・ルポルタージュの好著だったのがジョー・マーチャント『アンティキテラ – 古代ギリシアのコンピュータ』(木村博江訳、文藝春秋)。うーむ、以前のブログに記したフェルマー最終定理本や線文字B解読本などもそうだったけれど、これも実に読ませる一冊。こういうサイエンス系のジャーナリズムの充実ぶりは、日本ではとうてい考えられない。なにせこちらではせいぜいが「プロジェクトX」とか、専門家が勝手に書き散らすエッセイ本どまりになってしまう(のはなぜなのかしら、という疑問もあるのだが)……。

不可思議なそのボックスに魅入られて、ひたすらその再構築に人生をかける研究者たちの群像劇。なんとも人間くさくて興味深い(笑)。また、その対象となる機械そのものの不可思議さがまたいい。差動装置や遊星歯車などの機構を、古代ギリシアの技術者たちがとうに知っていたかもしれない、なんて仮設も出てくる。うーむ、ま、邦題の「コンピュータ」というイメージはちょっと違うかなという気がするけれど、最終的な結論もとても興味深いもの。古代ギリシアのコスモロジーへと一挙に誘ってくれる感じだ。この間の日蝕の前に読んでおくとよかったかもなあ(笑)。