「見・聞・読・食」カテゴリーアーカイブ

『月刊言語』も休刊

遅ればせながら知ったのだけれど、大修館書店の『月刊言語』も12月号で休刊だそうな。面白そうな特集が組まれているときだけ買っていた雑誌だったけれど、なくなってしまうとちょっと寂しい気も。80年代くらいから、基本的には高校生くらいから大学院受験生くらいまでを対象とする雑誌だったように思う(それ以前はもっと専門的だったらしいが)。結構古いバックナンバーも以前は手元にあったのだけれど、内容的にもだいぶ古びたものなどが多くて(ソシュールものとか)処分してしまい、あまり残っていない。残っている比較的最近の号では、たとえば「ラテン語の世界」を特集した2002年9月号などがそれなりに印象的。ラテン語のすすめという感じの特集にしては、古典ラテン語に傾斜せず、キリスト教やスコラ学のラテン語についての概括(月村辰雄)や、ダンテの詩作についての紹介(浦一章)、さらには美食のラテン語と題してローマ時代のメニュー用語の紹介(塚田孝雄)などがあってとても楽しい特集になっている。こういう特集は同誌ならではだった。ほかの雑誌ではこうはいかないだろうなあ、と。そういう意味ではとても残念。

自彊術……

先月の腰痛病みはだいぶ収まり、こうなると回復・予防のための体操が必要になってくる。病院から腰痛体操というストレッチ系の体操を指示されたけれど、自分でもいろいろと調べてみようと思っていたところ、リュートの師匠から自彊術なるものがあると聞いた。体調が悪いときの回復体操のようなものだという。ウィキペディアのページからリンクされている国立国会図書館の近代デジタルライブラリー内の中井房五郎著『自彊術』(1916年)を見てみたけれど、なるほどこれはラジオ体操の前身みたいな感じで面白い。それほど無理なくやれそうな感じ。

余談だけれど、このデジタルライブラリー、なかなか使いやすい感じだ。10ページ単位でpdfに落とせるのも悪くない。体操の概念は近代的なものだろうけれど、自然治癒を促進させるみたいな整調術のようなものって、西欧とかにはなかったのかしら、とふと思ってしまう。ギリシア&アラビア医学の伝統とかに、何かそれらしいものがあるかもしれないので、ちょっと探ってみることにしようか、なんて(笑)。

「ポッペアの戴冠」

2008年のグラインドボーン音楽祭で上演された『ポッペアの戴冠』(モンテヴェルディ/L’incoronazione De Poppea: Carsen Haim / Age Of Enlightenment O De Niese CooteをDVDで数回に分けてと観た。「舞台映えする」と評価されるダニエル・ド・ニースが肉感的に転げ回っているのが印象的(笑)。また、従者たちが性別を入れ替えて演じているのが面白い。ミニマルな舞台美術で、でかい布一枚がいろいろな場面を構成したりもする。エイジ・オブ・エンライトンメント・オーケストラは小編成ながら味わい深く、歌もいい。カメラで人物がアップになったりするときに、演出の細やかさもよくわかる(舞台を生で見ている人はそこまでわからないんじゃないかしら?)。指揮のエマニュエル・アイムはチェンバロの弾き振りで、なかなか堂に入っている感じ。パフォーマンスは全体的に高水準のようで、舞台もとてもセクシャルかつ緊張感のある優れもの。だけれど、個人的にはやっぱり入っていけないっすねえ、この世界。

『ポッペアの戴冠』は2回ほど実演を観たこともあるのだけれど、毎回なんというか、ポッペアが脳天気に描かれるほど、その脳天気さゆえにもたらされる悲劇の部分がとても不条理に見えてくる。セネカを死に追いやった後で、ネロとの関係を阻むものがなくなったとはしゃぐ姿なんか、かなりのグロテスク。というか空恐ろしい。ポッペアが政治的な野心をもっているように描かれるのならまだしも、情念に素直にしたがうだけで、そのツケがすべて、ネロの冷徹さを通じてすべて周りの人々に押しつけられていくようにしか見えない……と。うーん、こういう人物造形とこういう筋立てで、いったい何を描こうというのか、モンテヴェルディ。そもそもの元の意図がよくわからない。まあ、これがルネサンスからバロック的な逸脱感への移行ということなのだと言われればそれまでだけれど……。

でもこのプロダクションでは、演出のロバート・カーセンはなにやら最後にちょっとした皮肉なエンディングめいたいものを用意している(ように思える。ホントか?)。そう、戴冠してハッピーらっぴーで終わり、じゃちょっとね。

福本ワールド

『カイジ』の実写版映画公開に合わせてということなのだろうけれど、雑誌『ユリイカ』10月号は特集が福本伸行。福本ワールドは絵柄も話もどこか異形。その異形ぶりは同誌に再録された初期短編(絵柄はずいぶん違うが)にもほの見える。主人公の高校生はなんと朝から酒飲んで路上で寝ているという、ラブコメにはまるで似つかわしくないキャラクター。なにかこの、すさみ方がすでにして異形だ。で、『ユリイカ』誌だけれど、特集の対象がそういう異形世界なのだから、批評・論考も異形のものが期待される。個人的に目を惹いたのは、タキトゥスによる賭博についての一節から始まる、前田塁氏の論考。ギャンブル(麻雀など)を扱う小説やマンガが、結局は和了形から遡行して展開が逆算される以上、作品はいわば賭博の偶然性をどう消去していくかというプロセスに始終せざるをえないことを看破している。賭博の本質は「描かれない外部」としてあるということか。論考の末尾を閉じるのは、今度は『ゲルマーニア』の一節という、なかなか手の込んだどこか「異形の」論考。

ニュートン……

積ん読になって久しかったフランク・E・マニュエル『ニュートンの宗教』(竹本健訳、法政大学出版局)を読み始める。ざっと本文の半分ほど。本文の後には補遺としてニュートンの論考の断片、手稿が続く。これらを通じて、ニュートンが宗教をどう自分のものにしていたか、宗教とどう(深く)関わっていたかを、通俗的な伝説排する形で(ニュートンが若いころから真摯に宗教に向き合っていた姿を描こうとしている)を追っていくというもの。原著は73年といい、実際この手の議論は伝聞的に広まっていると思うので、ある意味これは新古典という感じの一冊でしょうね、きっと。特に2章めの、自然と聖書という二冊の書物のメタファー(つまり科学と神学)についての話が面白い。ニュートンは、それらを分離せよという分離派の立場を取りながら、つまりそれらを総合しようとする汎知学の立場を批判しつつ、それらとはまた違う形で二つのメタファーの調和を見出す立ち位置にあった、という話(とても大雑把な要約だが)。このあたり、詳しい人にとってはもはや常識的なことなのかもしれないけれど、そういうちょっとずれているように見えて、その実、正攻法をなしているような立ち位置、というのが刺激的な感じ(笑)。もっと古い時代にも同じような例を見出せそうな感じもしなくない……なんて(?)。