「見・聞・読・食」カテゴリーアーカイブ

「神曲」祭り?

NHKの「芸術劇場」で昨日放映していたロメオ・カステルッチ演出の『神曲 – 地獄編・煉獄編・天国編』(一部ダイジェスト)を録画で視る。2008年のアヴィニョン演劇祭などの映像。ダンテの『神曲』の、かなり自由な翻案というか。とくに地獄編は、ひたすら寡黙で鮮烈なイメージが次々に繰り出される舞台。反復される動作、痙攣する身体などなど、テレビで見ても圧倒されるのだから、実際の舞台はさぞ強烈でしょうねえ(これ、昨秋に国内でも上演があったようだ)。素晴らしい。なにかこのところ「芸術劇場」は充実している感じ。先週も『ヴォツェック』とピエール・アンタイのチェンバロ演奏の二本立てだったし(それにしても凄い組み合わせだな、これ)。来週はミンコフスキーのハイドンだそうだ。また録画しよう(笑)。

それはともかく、『神曲』といえば、ギュスターブ・ドレの挿絵入り抄訳本が10数年ぶりに新装で出ている。『ドレの神曲』(谷口江里也訳、宝島社)。一種のバンドデシネとしても読める渋い本。本の雰囲気として、だいぶ昔に出ていた寺山修司訳の『ラインの黄金』とか思い出す。ちなみに、訳者のあとがきによると、ドレの挿絵本『神曲 – 地獄編』が初めて刊行されたのは1861年だそうだ。

さらに『神曲』といえば、これまた「インスパイアド」(?)だというアドベンチャーゲーム(というのだろうか)も2月に出ている。『ダンテズ・インフェルノ』。なにやら大鎌持って地獄の番人たちをなぎ倒していくというもの。なんのこっちゃ。年齢認証があるのは、ホラー系ゲームだからってことでしょうかね。うーん、ま、個人的にゲームはやならいので、別にいいんですが……。それにしてもこう『神曲』が重なると、なにやらお祭りという感じにも思えてくる(笑)。

年末はレヴィ=ストロースで

レヴィ=ストロース死去のニュースとほぼ時を同じくして出た渡辺公三『闘うレヴィ=ストロース』(平凡社新書、2009)を読了。前半はこれまであまりきちんと触れられてこなかった(というか寡聞にしてそういう参考書を知らないもんで)若き日の左翼活動家時代のレヴィ=ストロースをクローズアップした評伝。学生の闘士から人類学への接近というテーマはなかなかに興味深いものがあり、読み応えも十分。後半はその学問的な深まりをフルスピードで追っていくという印象。親族の基本構造から後の神話論理への流れがとてもわかりやすく整理されている。うん、改めて未読の著書とか読みたくなった(あるいは再読でもいいのだけれど)。入門書のいわば鑑っすね。

だからというわけでもなかったのだけれど、長く積ん読だった『見る、聴く、読む』(“Regarder Écouter Lire”, Plon, 1993を引っ張り出して読んでいるところ。すでに邦訳もあるけれど、とりあえず原文で。まだ半分ほどで、年越し本の一つになるのは間違いないけれど、すでにとても面白い。とくに音楽関係の論は個人的にも興味深く、「ラモーの和声理論は構造分析の先駆けだ」(7章冒頭)とか言われると、もうそれだけでシビれてしまう感じ(笑)。ラモーを扱った7章から9章には、いろいろと興味をそそる記述がある。たとえばラモーのオペラ「カストールとポリュックス」について、18世紀の聴衆が(今の聴衆とは違って)、3つの音でもって転調する大胆な音運びを、作曲家の意図を汲む形でちゃんと理解していただろうという話とか。うーん、レヴィ=ストロースも「よりドラマチックだ」と高く評価し、スコアの一部が同書に再録されている1754年版の「カストールとポリュックス」(初演版は1737年)はぜひ聴かなくては(笑)。

漢籍的教養……

当たり前だけれど、もうすっかり年末モード。この数年は年末に(年末以外にも時折やるけれど)2時間くらいかけて焼き豚風の煮豚を作っているけれど、今年もうまい具合にできた(笑)。ま、それはともかく。

年末読書ということで、最近出たばかりの『西田幾多郎歌集』(上田薫編、岩波文庫)を読む。西田幾多郎の創った短歌、俳句、漢詩、訳詩、さらに短いエッセイ、そして親族らの手記からなるなかなか興味深い一冊。特に長男の死を契機に増えたとされる短歌の数々は、いわゆる喪の仕事として切々たるものがある。少し前に道元の短歌についての入門本を読んだけれど、そこでの歌というものは、リファレンスの照応関係が織りなす万華鏡のようなものという感触だった。西田幾多郎の短歌はもっと近代的なものではあるだろうけれど、やはり詩作全体を支えているのは豊かな漢籍的教養。今ではすっかり失われている(と思われる)ような質の教養だ。それは同時に哲学的探求をも下支えしているのかもしれない、なんてことを考えると、あの難解な文章の数々もまた違って見えてきそうな気がする。一方、親族の手記から伝わってくるいかにも明治時代的な父親像というのも鮮烈だ。学問への取り組みは老いてなお常に若々しく、定年後にラテン語やギリシア語に本格的に打ち込んだ、なんてエピソードも見られる。

このところの諸々(2)

*ヴィンチェンツォ・ガリレイ(ガリレオの父)が著した『フロニモ』(1584)の邦訳(菊池賞訳、水戸茂雄監修、東京コレギウム、2009)が出ている。これ、対話形式の音楽論なのだけれど、リュート譜がふんだんに差し挟まれているので、本当は楽器を弾きながら少しづつ読み進めるのが理想の本。ま、なかなかそうもいかないのだけれどね(苦笑)。個人的には先にリプリント版をゲットしたので、合わせて見ていきたいと思っているところ。なかなか時間が取れないけれど。

*その監修者でもある水戸氏(リュートの師匠)は、この秋に新譜『Let’s traval around Europe by Lute Music – Part II – Baroque Era』も出している。ゴーティエやガロといったフレンチものから、バッハ、ヴァイス、バロンまで、実に精力的な選曲。逆輸入になるけれど、アマゾンでは現在在庫切れ表示になっているのがちょっと残念(これって昨年出たpart I – ルネサンス編なのか、今年のpart II – バロック編なのかわからないのも問題だよね)。

*クリント・イーストウッドの新作『グラン・トリノ』をやっと観る(レンタルDVD)。いや〜、やっぱりイーストウッド映画は良いわ〜、と改めて素直に喜ぶ(笑)。本作は『センチメンタル・アドベンチャー』などに連なる系譜の作品。でも以前のどこかあざとい(なんて言うとちょっと語弊もあるけど)設定や演出はなく、とても自然に話が進む。ちょっと前に『チェンジリング』とかも観たけれど、「過去の問題を乗り越えようとしてさらに大きな問題を抱える」みたいな構図は健在ながら、その中にたとえ皮肉なものであっても、ごく小さなものであっても、なんらかの救いが示されるというのが最近の境地なのだろうなあ、と。

音楽史の書き換え……

就寝前読書から。石井宏『反音楽史』(新潮社、2004)を読了。18世紀から19世紀を中心に、音楽史のいわゆるビッグネームがいかに「ドイツ史観」に染まったものにすぎないかを示し、同時代的な実像はどうだったのかを切々と説いた一冊。西欧では長らく「音楽の本場はイタリア」とされていたのに、ドイツの音楽史家たちがその事実を黙殺・抹殺してきた流れがあるという。その礎を築いたのは、ロマン派系のドイツ人たちで、たとえばシューマンたちはロッシーニとかをかなり低く評価していた。ソナタ形式なども、本来はイタリアで成立したもの(オペラのアリア形式を器楽に取り込んだ)というが、いつの間にかそれがドイツ人の発明として「簒奪」されてしまうという。そんなわけで、たとえばヴィヴァルディが再発見されたのは20世紀になってからにすぎず、しかもそれをなしたのはレコード会社だったという。18世紀当時、大バッハが無名だったという話は有名だけれど、一方で同時代的に著名人となったのはバッハの後妻の末っ子ヨハン・クリスティアン・バッハなのだそうで、イタリア留学を果たし(ドイツの音楽家が世に出るためにはイタリアで箔を付けないといけなかったという)、ロンドンで名声を得ているという。今年がメモリアルイヤーだったヘンデルも、J.C.バッハに先んじて同じくイタリア留学を果たし、同じくロンドンで出世する。やはりメモリアルイヤーのハイドンは、そうした留学経験がなく、ハンガリー貴族のもとで50年あまりを過ごし、やっとのことで国際的評価を得る。けれどもそこに大量に寄せられた注文は、音楽会用序曲(シンフォニー:会場のざわめきを鎮めるためのもの)と弦楽四重奏曲(結局はBGM)にすぎなかった……などなど。

音楽史もまた様々なイデオロギー的影響を受けざるを得なかった、という話なわけだけれど、そうしたものとは別筋の歴史も徐々に書かれてきつつある感触もあり、同書などはそうした様々な知見をふんだんに取り込んでいる一冊ということになるのだろう。翻ってみれば、音楽史にかぎらず、中世史とか中世思想史、あるいはルネサンスや近世などについても、従来の「正史」の偏りや間隙などはこれからもやはり大いに問い直されていくのだろうなあと思う。いろいろと楽しみは尽きそうにない(笑)。