「古代後期からビザンツへ」カテゴリーアーカイブ

プロクロス『パルメニデス注解』第五巻から

Proclus, Commentaire Sur Le Parmenide De Platon. Tome V: Livre V (Collection Des Universites De France Serie Grecque)これまた間が空いてしまったが、プロクロスの『パルメニデス注解』第五巻(最終巻)(Proclus, Commentaire sur le Parménide de Platon. Tome V: Livre V (Collection des Universités de France, Serie grecque), édé, C. Luna et A.-P. Segonds, Les Belles Lettres, 2014)にざっと眼を通した。もとの『パルメニデス』がそうであるように、これはイデアの認識へと高まるための方法論を論じた部分。ちょうどプロティノスのディアレクティケー論を見ているところだけに、その密接な関連性などが如実に感じられて実に興味深い。とくにその最初の部分には、多が一者に由来するという考え方や、形相がなければ事物の論拠もなくなり、すると現実を知る拠り所となるディアレクティケーの方法もなくなるといった、メルマガのほうで読み始めているクザーヌスに繋がっていくような文言も見いだせる。ここでのディアレクティケーは、プロティノスのものとは異なり、アリストテレスの論理学的な「弁証法」を取り込んだ一種の折衷案的なものとして描かれているように思われる。プロクロスはこう記す。「ディアレクティケーは、みずからも端的な直観(ἐπιβολὴ)を用いて、第一のもの(形相)を観想し、また定義・分割する際にはその像を見る」(V 986,21 – 26)。原理を思い描き、その像をもとに事物の定義を果たすのが、ディアレクティケーだというわけだ。

原理への遡りがプロティノス的なディアレクティケーだとすれば、これは類似のアプローチをとるアリストテレス的・論理学的なアプローチとしてのディアレクティケーということになる。その少し先には、「論理学的な方法(試す、産み出す、議論する、定義する、論証する、分割する、統合する、分析する)は、心的な像に適合する」(V 987, 25 – 28)とある。この後もディアレクティケーの働きの話が続く。プロティノスの場合と同様に、プロクロスはパルメニデスの教育方法を、選抜された若者に対するものとして、いわばエリート主義的に解釈している。また、教育法はそのままディアレクティケーの実践と重なり、具体的な論理学的命題の数々(肯定・否定にもとづく分割・分岐による24通りの様式)が示される。第五巻の要所をなしているのはまさにこのあたり。その後は、註解元のテキストにおけるソクラテスの逡巡を受けて、ディアレクティケーの力、高みへと至るその方途が再度論じられ、ディアレクティケーのプロティノス的な面が再度強調されていく。

プロティノスのディアレクティケー論 – 2

Traite 20 Qu'est-ce Que La Dialectique? (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)少し間が空いてしまったけれど、ジャン=バティスト・グリナによるプロティノスの第20論文のコメンタリーを見ていくことにしよう。第20論文はまず、「赴くべき場所に至るためにの技術、方法、実践とはどのようなものがあるか」と問い、次に「上に向かって行ける者とはどのような人であるべきか」と問うて、「すべてを、もしくはプラトンの言う最も多くを見た者である」と答え、「哲学者、音楽愛好家、恋する者」だと述べている。これについてグリナは、この三者への言及がプラトンの『パイドロス』248dからの引用であることを示し、その上で、その言及箇所はディアレクティケーと直接に関係はないことを指摘している。その「どのような人であるか」という問いは、実は『国家』における、数学とディアレクティケーの教育を与えるべき人とはどのような人であるか、という問いに着想を得ているのだといい、そこで『パイドロス』を引き合いに出しているのは、おそらくプロティノスがここである種の体系化を図ろうとしたことの現れだろうと論じている。

哲学者・音楽愛好家・恋する者の三者のうち、とくに後者二者は、感覚的なもの(聴覚的・視覚的)への嗜好からその先の知的なものへの美へと高まらなくてはならず、そこにおいて数学を学ばなくてはならないとされる。哲学者は、すでに感覚的なものと知的なものとの分離を心得てはいるものの、ディアレクティケーに至るための予備的な学知が必要とされる。ではこれら三者は、生得的にかくある者なのか、それとも後天的にそのような者になるのだろうか?グリナによると『パイドロス』では、どちらかといえばそれらの者が、生得的に限定されていると見なしているフシがあるという。ゆえに想起が重要だとされる。一方で『国家』ではむしろ修得の側面(とくに数学教育)が強調される。この、想起を重視するという立場は、中期プラトン主義(アルキノオスなど)に顕著だといい、プロティノスもそれに従っているということらしい。

とはいえ、プロティノスによる『パイドロス』の引用は、やや微妙なズレを生じさせているともいう。実際、『パイドロス』の該当箇所には四者が挙げられていて、プロティノスはそのうち「美を愛する者」を省いている。ブレイエなどはプロティノスのテキストでもこれを補うべしと考えているというが、現実問題として、プロティノスのテキストでは現に三者となっているのだから、それは適切ではない。ではなぜ四者のうちの一つを省いたのだろうか。グリナの解釈は次のようなものだ。『パイドン』においては、四番目にくる「恋する者」が接合的な「καὶ」(and)で繋がっているのに対し、プロティノスは三者全部を選言的な「ἣ」(or)で繋いでいる。このことから、『パイドン』のテキストでは、哲学者・美を愛する者、音楽家の三者は、どれも同じく「恋する者」でもある、と解釈できる。ところがプロティノスの場合は、音楽家→恋する者→哲学者というように、一種のヒエラルキー、漸進的関係を打ち立てようとしているように見える。この意味では、「恋する者」は三者に共通する性質とは言えず、また物質的な美だけでなく非物質的な美をも愛するという意味で、「恋する者」は「美を愛する者」に取って代わることとなったのだろう、というのである。うーむ、この解釈、ちょっと微妙な感じもしないでもないのだが……。

プロティノスのディアレクティケー論 – 1

Traite 20 Qu'est-ce Que La Dialectique? (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)ピエール・アドが始めたプロティノス『エンネアデス』の新訳プロジェクト。その一つとしてヴラン社からジャン=バティスト・グリネによる『プロティノス第20論文』の訳と註解が手軽に読める版で出ている(Jean-Baptiste Gourinet, Traité 20 : Qu’est-ce que la Dialectique? (Bibliothèque des textes philosophiques), Librairie philosophique J. Vrin, 2016)。第20論文というのは、一般に用いられているポルフュリオスの分類ではなく、執筆順での番号による20番目。これがとりわけ重要とされるのは、プロティノスがディアレクティケーや論理学について語った唯一のものだから。というわけで、この註解も少しゆっくりと眺めていこうと思うのだけれど、まずは巻頭の総論(pp.7 – 45)。これが実に面白い。とりわけ注目される内容は「なぜプロティノスはこの論を書いたのか」、「それはいかに、どのようなテーマで書かれているのか」、「後代への影響は」というあたり。

一つめの「なぜ」については、ディアレクティケーの理解が関係しているという。プラトンはそれを真の哲学と位置づけ、対話(応答)の学として、感覚的な多性を知性的な一性へと至らしめるための重要な技法と見なされていた。ところが弟子のアリストテレスによって、それは三段論法の一形態へと縮小され、論理学は哲学の「道具」として位置づけられる。その後、アフロディシアスのアレクサンドロスなどによって、ストア派の考え方を取り込んで論理学は哲学の道具ではなく「一部」だとされる。この二つの流れが伝統として存続することとなり、中期プラトン主義もこの後者のディアレクティケー理解を継承することになる。たとえばアルキノオスはディアレクティケーと論理学を区別なく用いるようになり、いずれにしてもプラトンが本来考えていたであろう感覚的なものから知性的なものへの遡及という側面はほぼ抹消されてしまう。で、プロティノスが異を唱えるのは、まさにそうした文脈、そうした理解に対してだった、というわけだ。

二点めの「いかに」については、強調されているのはプロティノスがプラトンの複数の対話篇を引用しつつ、ディアレクティケーの統一的・階層的なビジョンを体系的に練り上げていること。引用そのものも、もとの対話篇の文脈を想起させるような、示唆的・要約的な仕方でなされているとされる。で、そこから浮かび上がるフロネーシス(深慮)としてのディアレクティケー理解についても、それ自体がより一般的な役割を果たす倫理的な徳とされる点で、アリストテレス的な推論的な徳(自然的な徳を完全な徳へと変える中間的なもの)とは一線を画しているという。

三つめの後世への影響という点では、プロティノスの特徴的なスタンスとされる論理学とディアレクティケーの切り離しが、とりわけプロクロスが『パルメニデス注解』などに継承されていることが強調されている。とはいえ、プロクロスの弟子にあたるアンモニオスになると、むしろアフロディシアスのアレクサンドロス流に、ディアレクティケーは論理学もしくは三段論法の一部に取り込まれてしまっていたりするのだとか(しかもこれは意図的な選択だと、著者のグリネは考えている)。プロティノス的なディアレクティケー理解が再び取り上げられるのは、ルネサンス期のフィチーノを待たなくてはならないのだとか。個人的にもちょうど、中断していたプロクロスの『パルメニデス注解』の読み進めを再開していることもあり、プロティノス的なディアレクティケー理解の痕跡は、いたるところに感じられる気がしている。そのあたりはまた改めて取り上げたい。

プロクロス『パルメニデス注解』四巻から(再び)

その後も読んでいたプロクロス『プラトン「パルメニデス」注解』第四巻(Proclus : Commentaire sur le Parménide de Platon. Tome IV, 1ere partie, Les Belles Lettres, 2013)。この巻もようやく一通りの読了にまで漕ぎ着けた。前回も記したように、四巻は形相(イデア)をめぐる哲学的議論の限界を強く前面に押し出し、その上で神学へのシフトを打ちだそうとしているせいか、とくに後半は、個人的にもあまり盛り上がらずに読了した印象だ。イデアは事物が参与する、分有の大元だという主張は、厳密に吟味していくなら、必ずやアポリアにぶつかる。事象の認識から得られる共通項が即イデアというわけではありえず、そもそも感覚的表象が即、知性的な理解対象となるということも考えにくい。また認識による共通項が現実の事象の原因をなしているというのもありえない。それらは結局人間知性の限界だとされ、そこから神々の知性についての理解へと進んでいかなくてはならないということになる。神の知性においては、イデアは単なる似像ではなく、実際に事象を生成するモデルでものでもあり、事象の原因にもなっているとされる。新プラトン主義的にはそちらを認識するための「高次の」シフトを提唱し、イデアと事象の間に流出論の関係(産み出されたものは、その産出元を志向する)を見て取る。さらに、そうした高次の認識に至るには、しかるべき素質や経験、熱意を持った者が、観想を通じて、神々の「光」に照らされなくてはならないのだと説く。まさに神秘主義の基本的な論理展開・認識構造ではある。

934節にイデアとは何かという点のまとめがあるので、それを挙げておこう。イデアはまず(1)非物体的であり、(2)分有する事象と同じ水準にはなく、(3)思考対象となった本質ではなく、本質そのもの、存在そのものであり、(4)範型であるのみで、似像ではなく、(5)人間にとっての認識対象ではあっても、それは直接的にそうなのではなく、ひたすら像を通じてのみの認識対象であり、さらに(6)イデアはおのれが産出したものを、因果的に知解可能なものなのである……。

一つ面白かった点を指摘していおくと、神の知性と人間知性の違いを言いつのる箇所(948節)で、プロクロスがいくつかの異論に言明している点。知解対象としてのコスモスを人間の内にあるものと捉える説とか、魂の一部が天上に残っていて、それとの連絡によって知解がなされるという説、魂が神々と同一実体をなしているという説などが挙げられている。この二つめなどは、まさに離在的知性論(中世のアヴェロエス派がテーマ化したような)を彷彿とさせる。単一知性論(とは記されていないけれど)の源流のようなものが5世紀よりも以前からあったことの証左かもしれず、なかなか興味深い。

注解と形而上学

注釈と形而上学

L'unite De La Metaphysique Selon Alexandre D'aphrodise (Textes Et Traditions)久々にアフロディシアスのアレクサンドロスについての論を眺めているところ。まだ全体の3分の1にあたる、序論と第一章を見ただけなのだが、すでにして心地よく刺激に満ちている印象。グヴェルタズ・ギヨマーク『アフロディシアスのアレクサンドロスによる形而上学の一体性』(Gweltaz Guyomarc’h, L’unité de la métaphysique selon Alexandre d’Aphrodise (Textes Et Traditions), Paris, Vrin, 2015)というのがそれ。アヴェロエス以前のアリストテレス「注釈者」として名を馳せていたアレクサンドロス(3世紀)は、実は「形而上学」を独立した学知として認めさせる上で大きな役割を担っていたのではないか、という仮説が冒頭で提起されている。その仮説の検証を楽しむ一冊、というところ。

アリストテレスの『形而上学』は古来から、一貫した著作というよりも雑多な文章の寄せ集めではないかという疑問が絶えず発せられてきた(さらには、アリストテレスが真正の著者ではないかもという疑いも消えずにいた)。けれどもそれを証す決定的な証拠もなければ、逆を証す証拠もなく、結局その問題は、そこにいかなる著述意図を読み込むかにかかっていた。で、この論考の著者は、アレクサンドロスの読みもまた、まさにそうしたものではなかったか、というのだ。解釈を施すこととは、『形而上学』になんらかの一貫性・意味を与え、それが体系的な著述であったことを示すことにほかならなかった、というわけだ。その意味で、アレクサンドロスはまさに「形而上学」なるものを「しつらえた」といえるのではないか、と。そこには背景として、諸学派(ストア派、エピクロス派、プラトン主義、逍遙学派などなど)が群雄割拠するヘレニズム後の古代世界にあって、生き残りをかけた学派同士の戦いがあり、注解には他学派の人々に対する説明・知的伝統としての伝達・学派の若者らへの教育という側面もあった。かくして全体として見れば、アリストテレスの他の著作と同様、『形而上学』についてもまた、なんらかの単純化・図式化と、議論の精緻化とが施されていかざるをえない。ひょっとして、アリストテレスの言う「第一哲学」に「メタフィジクス」という言葉を宛てたのも、アレクサンドロス(もしくはその周囲の任意の注解者)かもしれない……。このように、アレクサンドロスによる読みは歴史的文脈に位置づけられ、『形而上学』が著作として一つの全体の相のもとに成立していることが説き証されていく。論証としてはいささか弱い面も否めないものの、なかなか興味深い視座だ。続いて今度はその著作の一体性が、学問としての形而上学の一体性へ(第二章)、またその学問が対象とする存在そのものの一体性へ(第三章)と拡張・敷衍されていくことになるようだ。