「フィロポノス研」カテゴリーアーカイブ

フィロポノスのアストロラーベ論

Traite De L'astrolabe (Collection Des Universites De France)昨年フランスで出たヨアンネス・フィロポノス『アストロラーベ論』の希仏対訳本(Jean Philopon, Traite De L’astrolabe (Collection Des Universites De France), trad. Claude Jarry, Les Belles Lettres, Paris, 2015)を見始めているところ。最初にいきなりギリシア語テキストから入ろうとしたのだけれど、冒頭はアストロラーベの基本的な構造の話なので、やはりなんらかの参考書を見ないとすっきり頭に入ってこない。アストロラーベを構成するメーター、ティンパン、クライメータなんていう基本用語ぐらいは、事前にwikipediaあたりで押さえておくべきだったか、と(苦笑)。というか、印象としてはこの文書、全編アストロラーベの解説になっている感じだ。文書の正式なタイトルも「ヨアンネス・フィロポノスによる、アストロラーベの使い方とその上に記されている記号がそれぞれ何を意味するかについて」となっている。なるほど、これはいかにもマニュアルっぽい。そう思って本文に先立つ解説(校注・訳者でもある天文学者のクロード・ジャリ)を見ると、この文献の位置づけはやはり、教育的な配慮のもとに書かれたものである可能性があるらしい。というのも、その成立時期が、フィロポノスが師匠のアンモニオスを継いでアレクサンドリアで教鞭を執った時期であるという憶測も成り立つからだ(証拠がないので確定は困難な模様だが)。その場合、同書は520年から540年ごろの著作だろうという。フィロポノスは530年ごろに、哲学から神学へと大きく方向転換したとされ、著作も一変したといわれるので、その前の著作ということになるのだろうか。いずれにしても、自然学を含む哲学の様々な領域に詳しかったとされるフィロポノスは、天文学にも並々ならぬ関心を寄せていたらしく、とりわけプトレマイオスの『アルマゲスト』に親しんでいたという。このアストロラーベ論と同じ時期の著作には、『ニコマコス算術註解』というものもあるようで、そちらもまたぜひ覗いてみたいところではある。

『世界の永続性について』13章

フィロポノスの『世界の永続性について』(Johanness Philoponos, De aeternitate mundi / Über die Ewigkeit der Welt V, Clemens Scholten(ubs), Brepols, 2011)13章は、それまでのどちらかというと形而上学的な話から、自然学的な話へとシフトしている。これもまた長い一章なので大きくポイントだけを整理しておくと、まず、注解のもとになっているプロクロスの文章のポイントはこんな感じ。天空の運動は円運動だが、それが自然の運動であるならば、元素のレベルでそうした運動をなすはずで、よって天空は四元素とは別の元素から成る。生成と消滅が対をなす元素の動きであるなら、別元素の天空は生成も消滅もしないものと考えられる。部分が生成も消滅もしないなら全体もそうであり、したがって天空は生成も消滅もしない……。これに対してフィロポノスは、天空は四元素とは別の元素(アリストテレスにもとづく第五元素)から成るのではなく、プラトンにもとづき、やはり四元素から成るとの基本的立場を示している。その上で、円運動は四元素の自然な動きではないとし、それは外部の力(霊魂の力)によって引き起こされているのだとしている。

天空もやはり同じ元素でできた生成・消滅可能なものだということになる。元素は生成・消滅がありえ(流転する)、それからなる世界の一部(たとえば動物とか)も生成・消滅がありえ、ひいてはコスモスという全体も生成・消滅がありうる……。こうしてフィロポノスは、『ティマイオス』などのテキストを引き合いに出しながら、天空を特徴付けるのはより細やかで純粋な火、燃焼性というよりも生命を育む火であって、それが天空を満たしているという説を示し、プラトンのそうした学説を後継者たちが歪曲したとして批判してみせる。批判対象となっているプロクロスには当然手厳しいものの(アリストテレス的な第五元素へと日和った(?)と見る)、前にも出てきたけれど、ポルピュリオスについてはここでもまた、プラトンに忠実だとして高い評価を与えている。

『世界の永続性について』11章

フィロポノス『世界の永続性について』(Johannes Philoponos, De aeternitate mundi, vierter teilband, Brepols, 2011)はやっと11章まで。これも長い章だけれど、質料について述べている重要な箇所。注解のもとになっているプロクロスのテキストはこんな感じだ。質料は何らかの生成を受けるものである以上、質料は生成のためにあり、生成とともにある。つまりは質料は常に形相のもとにあるわけだが、質料そのものを考えれば、それはすべてのものの生成にとっての質料となる。質料そのものには別の質料などないのだから、それは生成したものではなく、また滅することもない。したがって質料のもとにある形相も、それが織りなす世界も永続する……。

フィロポノスはまず、物体が三つの次元に規定されていることを示し、その三つの次元はいわば性質をもたない物体、物体のよりどころとなる物体(物体性)であり、基体としての無定形の質料(非物体)より後に来て、四元素よりも先んじる(論理的に)ものと考える。無定形の質料はもとより変化しないものだけれど、その質料を基体として四元素が相互に変化し流転する(水から空気へ、空気から水へなどなど)とするなら、質料が三次元の規定を受けているからこそ性質を帯びるということになる。物体となっていなければそもそも性質を帯びることなどできないからだ。さらに、たとえば体積・容量の変化(水から空気の変化では、容積が膨らむとされる)では三次元の規定そのものが変化することから、その規定には生成・消滅がありうることになる。質料そのものを取り出せばそれは永続的だとしても、物体としての規定を受けた質料(形相と結びついた質料)には、かくして生成・消滅がありうる(ゆえに物体は、世界は永続するのではない、となるわけだが)。で、この話、実に様々な角度から検討されている。上の四元素との絡みや体積・容量の話のほかにも、質料が形相を受け取る場合の制約条件、分割可能性や個体、現実態と可能態などなど、繰り返し議論が続いていく。いずれにしてもフィロポノスの場合、この質料の次元的規定は生成の原理、アルケーとして描かれているようだ。西欧中世でもペトルス・ヨハネス・オリヴィなど、質料の次元的規定を考えている論者はいるけれど、フィロポノスのはかなり網羅的でかつ徹底している印象(?)。

『世界の永続性について』9章

フィロポノス『世界の永続性について』は分冊の4巻目(Johannes Philoponos, De aeternitate mundi, vierter teilband ubs von Clemens Scholten, Brepols, 20011)の前半まで来ている。章立てでいうと9章まで。この章はなんとなく、注解としての文章がしなやかに、闊達に伸びていくという印象があって、なにやら妙な勢いを感じさせる……。いずれにしてもまとめのメモを。注解のもとになっているプロクロスの一節は、まとめると「事物が滅するのは悪があるからであって、世界(コスモス)は善なる神の一部なのだから滅することはない。また滅するなら秩序は無秩序へと移行するのだが、世界は滅しないので、もとより秩序vs無秩序のせめぎ合いはなく、したがって無秩序から秩序への生成もない。したがって悪のないところには消滅もなければ生成もない」という感じになる。フィロポノスはこれに対し逐一反論を加えていく。まず、世界(動物とか)は可変であることからそもそも神と等しいということはないとする。次に、滅する理由とされる悪を「自然(本性)からの逸脱」と規定し、限定的存在はすべからく時間とともに自然本性から逸脱すると断じる。こうして世界の秩序と無秩序とが対置され、世界は秩序から無秩序に移行しうるし、無秩序からの秩序への以降もありうるとする。この無から有への移行は自然状態ではありえないが、存在(有)を導く神がいれば話は別だ。たとえば元素は有から有へと変化するのみだが、それが織りなす全体は無から有へと、創造神の下支えによって生成する……。このあたり、キリスト教的な無からの創造という考え方が擁護されている感じでもある。

話はここから質料形相論に行く。自然状態では質料は基体の役割をなし、生成の原理は形相がもたらす。個として成立したものが滅するとは、基体と分離し、基体へと解消することを意味し、生成はその逆で、基体から個を生じさせる。それはちょうど元素が有から有へと移り変わるのとパラレルだ。現実態と可能態との往還も同じようなもので、基体をベースとした流転の考え方に合致する。さらにはそれは時間と非時間との往還といってもよい。けれどもこれを複合体の観点から見ると、まさしく無(複合体が存在しない状態)から有(複合体が存在する状態)が生じると言うこともできる……。この9章では質料を第一の基体として捉え、その観点からすればそれ自体は生成も消滅もしないとしている。根本的な質料論が扱われるのはこの先の11章ということになる。

「世界の永続について(反プロクロス)」第6章

9月くらいから、すごく遅々たるペースながらフィロポノス(「ピロポノス」表記改め)の『世界の永続について』校注&希独対訳本の第3巻(Johannes Philoponos, De Aeternitate Mundi,Dritter Teilband, Übersetzung von Clemens Scholten, Brepols, 2011)を見ている。ブレポルス刊の同書は全5巻で、すでに2巻までは2009年に出ていた。3巻目以降は今年前半に一気に出た模様。この第3巻は原典の6章から8章までを収録している。『世界の永続について』と題されるものは、副題で反プロクロスと反アリストテレスの二つがあるけれども、こちら反プロクロスのほう。原典の5章までは諸々の議論における定義などに文句を付けている感じが強いけれど(笑)、この6章あたりからはいよいよ本格的なアンチ永続議論が展開する印象。というわけで、少しこのテキストについても折に触れてまとめメモを記しておくことにしようかと思ったりしている。

6章は主に『ティマイオス』をめぐるプロクロスの解釈を批判する。『ティマオイス』ではデミウルゴスが世界を創造したことになっているわけだけれど、プロクロスはここで、デミウルゴスが結合したもの(悪しきものを繫いで善きものにする)以外は解かれることはなく、世界はしたがってもとより解体することはなく不滅だとし、不滅ならばイコール生成を経たものではない、といった話を展開する。で、これに対しフィロポノスは、そうした解釈をとことん斥けていく。たとえば、デミウルゴスが結合を解けるのなら悪を許すことになり、するとそれはその善性に反することになってしまう、それよりは善性のゆえに解体することもあるとするほうが理に適っているとか、あるいは、もともとプラトンの教義では世界は生成されたものであり、したがって起源をもつとされいて、プロクロスの解釈とは反するとか、世界が形相と質料から構成されている以上、それは解体もありうるとか、すべて原因をもつものは時間のもとに置かれなくてはならず、一方でデミウルゴスの意志ゆえに、生成するも不滅というものも存在しうるとか……。うーむ、至極まっとうな議論ですな、これらは(笑)。

このテキスト、反駁の過程でいろいろな議論が登場し、ドクソグラフィ的な面白さもある。たとえば質料形相論と存在の付与という絡みで取り上げているポルフュリオスを高く評価していたり、プラトンを歪曲する解釈とは対照的にまっとうな解釈の例としてアフロディシアスのアレクサンドロスを取り上げていたりする。詳しく見てまとめていけばこれも面白そうなのだが、今はとりあえず先に進むことにしよう(苦笑)。