ソールズベリーのジョンと「子どもの哲学」

またまたMedievalist.netで紹介されていた論文から、久々に哲学もの。しかもちょっと変わり種を読む。ウェンディ・タージョン「ソールズベリーのジョン:教育における哲学についての議論」というもの(Wendy C. Turgeon, ‘John of Salisbury: An Argument for Philosophy within Education’ in “ANALYTIC TEACHING” Vol. 18 No.2 (1999))。米国でも教育再編の議論は当然あるようで、よくある教養主義かメソッド重視かという対立軸とは別に、低年齢層からの哲学教育の導入などの議論もあるらしい。「生徒と教師が一体となって、対話を通じて経験の問題的なアスペクトを探っていく」ことを理想とするという教育理念なのだけれど、この理念のいわば「考古学」として、なんといきなり12世紀のソールズベリーのジョンの考え方を見ておこうというわけだ。当時も修道院の付属学校から大学の設立へと教育制度が大きく変わる中、古典的教養などよりも実学志向というか、即戦的な学問を手軽に身につけようという学生の志向が早くも芽生えていたらしい(ま、全部が全部そうだったとは思えないけれど)。面白いのは、ドナトゥスの『ウェルギリウスの生涯』で、ウェルギリウスの詩人としての偉大さがわからなかったとして引き合いに出されるコルニフィキウスなる人物の名前が、深く理解せず浅学で形ばかりの人を揶揄するために使われていたという話。また、法学や哲学を学ぶならパリへ行け、文法や古典教養を身につけるならオルレアンやシャルトルだ、といった言い方までされていたのだとか。

そうした学生たちの安易なカリキュラムの要請に対して、ソールズベリーのジョンは『メタロギコン』において、いわば教育の再編・改革を提唱している、と著者は言う。「コルニフィキウス主義者」の動きを批判し、古典的教養と、さらには論理学による思考の鍛錬とを説いているという。これがまさに、現代の教育事情の文脈ともパラレルだという次第。哲学的思考を教育に取り入れ、賢慮の探求に邁進することを説いたという意味で、ジョンは教育改革のいわばはるか上流の先駆者だということになるのだとか。うーん、ジョンの括り方などは多少とも大雑把ではあるのだけれど、たぶん教育改革への熱意でもって書かれた論文で、その筋には何らかの意味のあるものなのかもしれない。いつの世も同じような動きはあり、同じような批判は出、そして綿々と繰り返されていく……なにやらそんなことを想う蒸し暑い夏の夜……(笑)。

↓wikipedia(fr)より、シャルトルにあるジョンを讃える石板

明滅論……

時折ぼちぼちと読んでいるジャン=リュック・マリオン。今回は2010年刊行の『見るために信ず』(Jean-Luc Marion, “Le croire pour le voir”, Éditions Parole et Silence – Communio, 2010)という新旧取り混ぜての論集からいくつかを拾い読みしているところ。とくに最後のほうに収録されている「贈与の認識」(La Reconnaissance du Don)などは、おそらく未読の別の著作『与えられていること』(”Étant donné”)とも密接に関連しているものと推測されるけれど、いずれにしても「現れ」そのものの「非現性」といった、マリオンの著作に反復されている主要な問題系がここでもヴィヴィッドに息づいている(笑)。才能とか運とか、いずれも「付与される・与えられている」ものとして人が認識するものは、実はまったく目にできない。そんなときに人は果たして本当にその「与えられたもの」にアクセスできるのか、というのが根本的な問い。贈与は「自動配置」(auto-position)されるといわれ、そのため贈与のプロセス自体は目にできず、贈与の起源であるとかその偶然性、贈り主が見えなくなってしまう。贈与は、それが贈与であった痕跡すら破壊しながら完遂される。けれども、それをあえて遡及していくことがとりもなおさず現象学の課題だというわけだ。最低限の透明性しかない贈与を通じて、贈り主の側からの贈与を認識するというプログラム。見え隠れ、明滅のいわば反転を試みること。それが神学的なパースペクティブに繋がっているあたりは、マリオンおなじみの一種のマニフェスト(それ自体がいわば隠れたものを見せることなのだけれど)という感じがする。「不可視の聖人」(Le saint invisible)という別の論文でも、聖人の聖性そのものが見えないということがどういう構造(神学的?)をなしているのかが論じられる。

プロクロス「ティマイオス注解」出版スパム版

少し前から耳にしていた「出版スパム」という話。版権切れの古典などを集中砲火的に再出版するという行為らしく、中にはwikipediaの中身そのものだったなんて話も聞くけれど、たとえばErnst Diehl編のプロクロスの『ティマイオス注解』なんかもその筋(Nabu Press)から出ていて悩ましい。実はこれ、出版スパム話を知る前に1巻を購入していたのだけれど、確かに背表紙とかにも何も印字されていなかったり、再版している出版社名が表示されていなかったりと、なにやらえらく怪しすぎる(笑)。まあ、中身はDiehl版そのものの丸ごとコピーなので、その意味での問題はなさそうではあるのだけれど、こういうのはどうなのか……。PDFで落とせるならそれで十分という気もするが、今見るとGoogleはプレビューを切ってしまっているし、PDFを丸ごとダウンロードできるところが見あたらない(うーん、探し方が悪いのかしら?)。2巻以降もできれば欲しいのだが、この怪しげな本をシリーズで購入するのもちょっとためらわれる気が……。

ちなみに、冒頭の序の部分を読んだだけだけれど、本文そのものはやはりとても面白い。『ティマイオス』はピュタゴラス学派の学知がベースになっていることが強調され、さらにコスモロジー的な部分は『ティマイオス注解』、存在論(一者論)的な部分は『パルメニデス注解』に振り分けられているといった、プロクロスが考えている注解書相互の相補的な関係なども改めてわかる。

美術と医術の間

積ん読本から割と最近の小池寿子『内蔵の発見ーー西洋美術における身体とイメージ』(筑摩書房、2011)を一気読み。雑誌連載の学術系エッセイをまとめたものながら、中世後期から近代初期にかけての美術と医術との交錯を読み解くという個人的にはとても好感度の高い一冊。とりわけ、表題にも関係する解剖学・剥皮人体図の話が出てくる三章あたりから筆致が冴え渡ってくる感じがする。「愚者の石」(尿石ならぬ脳石。これが大きくなると愚かになっていくとされた)を扱った四章などは、ヒエロニムス・ボスやブリューゲルが取り上げられて、さらに話は錬金術へと移っていく。続く五章でも、子宮内を描いた図像から話は錬金術のフラスコへ。後半の各章は、肝臓をつつかれるプロメテウスから始まって、ヒポクラテスの体液説、エラシステオラトスによる心臓と愛との結びつきなど、古代ギリシアの諸説が通低音となり、その上にサレルノの瀉血治療やメランコリーの説明(コンスタンティヌス・アフリカヌス)、キリスト教文化での心臓のイメージの飛翔などの話が飛び交う。このあたり、さながら対位法的な音楽を聴いているかのような気分になってくる。図像も多数収録されていて興味深い。なるほど美術と医療とはかくも交錯するというわけか。なにやら期せずして連休にぴったりのリッチなイメージャリー本だった。

地方の書店……

親の葬儀と、さらには認知症初期という感じになっている残されたもう片親を引き取るために丸二週間ほど田舎に戻った。急な事態だったのでほとんど何ももたずに駆けつけたのだけれど、意外に葬儀にいたる段取りにおいては空き時間が結構あり、書籍の一つや二つ持参すればよかったとやや不謹慎ながらも思うことしきりだった(苦笑)。で、葬儀が終わってすぐ、市内にあるジュンク堂に駆け込んでいろいろ物色し、勢いで大学書林から出ている『ガリア戦記』第一巻(遠山一郎訳注、2009)を購入する。もちろんLoeb版の羅英対訳とかもあるけれど、羅日対訳本はとても嬉しい気がする。ラテン語の習い始めごろに一度はかじるガリア戦記だけれど、改めて読んでみるとこれがなかなか面白い。部族の駆け引きやら政治関係やらが結構艶めかしくて刺激的だ(笑)。書籍としては学習者向けの対訳本で、教材としていろいろに配慮されているのがとてもよい。昔の大学書林の対訳本とは違い、適切な長さで見開き一課という体裁になっている。どの語がどの語にかかっているかとか図示されていたりして、そのあたりも心憎い。この本のおかげで、いろいろと面倒な後半の週もなんとか乗り切ることができた……のかな?

それはともかく、ジュンク堂はいいのだけれど、一方で昔市内にあった代表的某本屋の凋落ぶりは目を覆いたくなるほどだった。というか、その本屋がある商店街自体がかなり落ちぶれている。シャッターとまではいかないものの、かつての賑わい(ほんの20数年前くらいまで?)はまったく失われてしまっていた。その当の書店も、かつては三階まであって専門書や多少の洋書などを入れていたものだったが、今や二階までしかなく(三階には英会話教室みたいなテナントが入っている)、ターゲット層も完全に中学・高校で、受験参考書やマンガが置かれているだけ。あとはほんの少しだけ、公務員試験の参考書がある程度。まったく特徴のない本屋になってしまっているのがとても悲しい。