パルメニデスの「一」

Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library)プロクロスによる『「パルメニデス」注解』の対訳本がフランスのLes Belles Lettresから分冊で刊行されている。そのうちこれを見ていきたいなあと思いつつ、とりあえずその準備として何年かぶりにプラトンの『パルメニデス』を読んでいる。以前はLes Belles Lettresの希仏対訳本で読んだのだけれど、今回はLoeb版(Cratylus. Parmenides. Greater Hippias. Lesser Hippias (Loeb Classical Library))。『パルメニデス』は他の対話篇でソクラテスが担う役どころをパルメニデスが担い、若きソクラテスは聴き手に回っていたり、語りの構造も複雑だったりして、変わり種であるところが個人的には割と好きな一篇なのだけれど、基本的に論じられている「一」と「多」の問題については、相変わらずよくわからないところなどもあって、きっかけがあればたまに読み返したい作品でもある。「一」には部分・全体の区別もないし、他のものの参与もなければ、類似・非類似の区別もない。運動・静止の区別もなく、時間や空間に与ることもない。それらは「多」であって、いずれも「ない」のであって、在るのはただ「一」のみなのだ……といった話が延々と示されていくわけなのだけれど、では一方で、現象としてのそれらの「多」の「存在」はどう考えればよいのかという点は、やはりあまりよくわからずじまいだ。

今回はそのあたりの問題について、参考となる論文も合わせて見てみた。岡崎文明「プラトンの『パルメニデス編』における「第一の仮定」」(彦根論叢, 287・288: 57-77, 1994)PDFはこちら)。それによれば、このパルメニデス編の議論を追っていくと、なんともパラドクサルながら、結局「一」はいかようにも存在しないということになるし、「一」は一というあり方ではないことにもなる、という(!)。確かにテキストにそういう箇所があって(141e12)、ここは結構びっくりする箇所でもある。で、同論文はそこから、それらの諸特徴を否定された「一」は「あらぬもの・非存在者」ということになる、としている。パルメニデスが語っている「一」は否定的な「一」であり、かくしてその超絶的な「一」は、「物体」「魂」「知性」ではないことが示されるのだ、と。で、それら「物体」「魂」「知性」はあくまで「存在するもの」「一であるもの」であり、肯定された「一」として、書き手であるプラトンの探求の対象になっていくのだという。なるほど、一定の決着として腑に落ちる解釈ではあるなあ。

復活の肉体論 (2)

トマスが人間本性ということで魂と肉体のセットを重んじていたことはわかったけれど、すると疑問になってくるのが、ではキリスト教において復活するとされる肉体にはどんな役割があるというのか、という点。で、これを扱った別の論文を見てみた。ジョン・メデンドープ「完全なる安息を見出す:復活の肉体に関するトマス・アクィナスの論」(John Medendorp, Finding Perfect Rest: Thomas Aquinas on the Resurrected Body, 2013)というもの。これはずばり上の問いを考察していて、復活した肉体がトマスの議論ではどのように扱われているか詳述している。トマスにおいては魂は肉体の形相(単一形相)であるとされ、これによって肉体が滅んだ後の魂の存続も容易に説明される。けれども、では「当人」(人格としての)は肉体が朽ちた後もどのように存続しうるのか。死にいたって肉体は滅ぶ以上、それは復活後も連続したものとはならない、とトマスは言う。その当人の人格は不死の魂においてこそ温存されるのだ、と。形相としての魂が復活において再び質料と結合すれば(質料そのものが破壊されるのではないので)、その当人そのものも修復されることになるというのだ。

でも、ならばそもそも復活においてなにゆえに肉体が必要とされるのだろうか。トマスは、魂が恒久的に肉体なしでいることは不自然で不完全な状態だと主張する。トマスのこの主張は死後の審判についても貫かれており、審判は魂のみに関わるものと、魂と肉体の両方に関わるものとで二重になっている、と考えているほどだ。死後に神とまみえること、すなわち至福直観(それには肉体は必要とされない)は完全な至福であるとされるわけだけれど、トマスはさらに「最上位の完全な至福」があると見る。どうやらその後者こそ、「栄光体」が付与される段階を言うらしい。肉体の復活は啓示の上では必要とはされないが、人間の自然本性ゆえに形而上学的に必要とされるのだ、というのがトマスの見解なのだという(同論考によれば)。もともと地上世界での肉体は、魂が最終的な目的(至福直観)へと進むことを助けるという重要な役割をもっているとされる。では復活した肉体はどういう状態にあるのかというと、魂との関係が逆転し、至福直観にいたる魂から肉体へと至福と愛とが注がれるようになるのだという。肉体はそのとき全くの安息のもとに置かれ、なんら苦役を背負うことがなくなる……と。これが論文のタイトルにある「完全なる安息」ということらしい。

トマス:復活の肉体論

トマス・アクィナス 「存在」の形而上学これまた夏読書の一環だけれど、稲垣良典『トマス・アクィナス 「存在<エッセ>」の形而上学』(春秋社、2014)にかなり大まかに目を通しているところ。うーむ、読み違えているのかもしれないが、個人的には少しこれはなにやら「躓きの石」っぽい気がしている。まずもってその立ち位置のようなものがはっきりと浮かび上がってこないからだ。「現代存在論」への異義を唱えるとして始まる同書だけれど、その「現代存在論」なるものがまずもってよく見えてこない。まさか根本的に前提が異なる分析哲学系の存在論が念頭にあるわけではないだろうし。また、「価値」(要するに「善」?)が「存在」から除外されていることを問題視したりもしているのだけれど、とはいえ単純に信仰への回帰を説いているわけでもない(もしそうであるなら、論点先取りのような話になってしまいそう……)。論じられているトマスの存在論そのものにしても、著者が高らかに宣言するほどには、トマスの生き生きとした核心部分が伝わってこないような気がする……。たとえばその存在(エッセ)論を「受肉の存在論」として受け止める必要がある、という話が何度か出てくるのだけれど、さしあたり議論がその方向に深まっていくようには見えないのだが……。

とはいえ、確かにキリスト論を中心としてトマスの神学的全体を見ていくというのはいかにも正道という印象ではある。これに関連して、ちょっと面白い問題を扱った論考を見かけた。ターナー・ネヴィット「キリストの死についてのアクィナスの議論:消滅論側の新議論」(Turner C Nevitt, Aquinas on the Death of Christ: A New Argument for Corruptionism, American Catholic Philosophical Quartely, Forthcoming)というもの。キリスト教の信仰上「人間が死んで復活するその間、その人間はどういう状態にあるのか」という問題についてトマス・アクィナスがどう考えていたかをめぐっては、中世から現代にいたるまで二つの解釈の立場があるのだという。魂は肉体を離れて存続するとされるわけだけれど、ではその人「本人」は存続していると言えるのか、それとも言えないのか。言えると考える一派を「存続派」(survivalist)、言えないと考える一派を「消滅派」(corruptionist)と称すのだとか。で、トマスの立場だが、これは微妙に曖昧らしいのだけれど、この論考はトマスが「消滅派」の側に立っているとして、トマスのテキストからそれを擁護できる箇所を挙げてまとめていくという趣向。神学的な議論なので、個人的にどちらがどうこうと言うことはできないけれど、この問題でもキリスト論からのアプローチが見られて興味深い。つまり、その問題を考える上で、キリストは復活するまでの三日間、どういう状態だったのかという問いが鍵となる、というのだ。トマスは、その間のキリストは人間であったわけではないとしているという。この論考(つまりは消滅派)によれば、トマスの人間観にあっては、肉体と魂は密接な関係性をもつ以上、魂のみとなったときに、それは厳密には「その人」ではないということになる。ただキリストの場合は例外で、その離在する魂と肉体は死後も三位一体の第二の位格に統合されたままになっているので、その意味では死後も魂と肉体は密接に繋がっている、とトマスは説くのだという。なるほど。でも存続派にはまた別の解釈・言い分があるようで、両者の歩み寄りというのは歴史上ほとんどないらしい。

パングロスに抗って

すでにほぼ夏休みモード全開に近いかも(苦笑)。というわけで、思うところあって水林章『「カンディード」<戦争>を前にした青年 (理想の教室)』(みすず書房、2005)を読んでみた。いわゆる紙上の仮想講義本なのだけれど、ここではヴォルテール『カンディード』から、第三章のブルガリア軍脱走の一節だけを取り上げ、そこから作品世界の全体(この部分と全体を入れ子関係と見立てている)にまでおよぶ批評的な読みを展開してみせるという趣向。なるほど、『カンディード』の話の全体を、師のパングロスが説く善的な世界観からの離脱の物語として見ていくならば(その読みはごく正当なものだが)、冒頭近くのその「戦争」を扱った箇所も、同じような狭量な見識からの「目覚め」として読むことはできそうだ。そこでの記述は、視覚や聴覚を通じての「抽象的な」軍の賛美から、より生々しい、凄惨な描写へと一足飛びに移行していく。それはまた、ヴォルテールがライプニッツの最善説に対して示す懐疑(それはとりわけリスボンの大地震を契機として一気に吹き出すらしいのだけれど)とも容易に重ね合わせられる。さらには、作品の背景にもなっている当時の世相、あるいは移行期としての時代的変化などを読み込むこともできる……。そうした多層的な読みは、まだいろいろと浮上させることができそうだ。あるいは今なら、第五章のような嵐や地震の記述と、それでもなお「この現象の充足理由はなんだろう」と問うしかないパングロスの滑稽さを、読みの中心に据えることもできるかもしれない。

カンディード 他五篇 (岩波文庫)戦争というテーマだけに限ってみても、戦争語りが「抽象的」なレベルにとどまるのか、もっと具体的な生々しさを取り込もうとするのかによって、「戦争」の理解は大きく様相が異なってくる。そのあたりのことを前景化してみるのも興味深いかもしれない。いきおい、それは最近の国内の世情にも通底せざるをえない。集団的自衛権の議論で、多くの人が「不安」を感じるというときのその「不安」の正体の一端は、おそらくそのあたりの落差にあるのだろうと思う。為政者たちの語る「戦争」はどこか絵空事のようだが、一方で肉付けされた戦争についての想像的記憶(実体験はなくとも、画像や映像などで形作られる膨大なイメージャリーの集積だ)は、ネットの時代にあっていや増していくばかりだ。大きな落差。ところが、そうした落差に配慮することもなく、為政者たちはあえて言うなら「パングロス的な」絵空事の戦争しか語らない(というか語れない)。けれどもそれが何度も繰り返されれば、私たちはいつしか目覚める前のカンディードのようになってしまうかもしれない。だからこそ、パングロスのような妄信的な語りに盲従することには、いつも警戒していなくてはならない。最善説を捨てると宣言するときのカンディードは、最善説とは何かと聞かれてこう答える。「うまくいっていないのに、すべては善だと言い張る血迷った熱病さ」(一九章)。

伊福部音楽祭とゴジラ本

リュート属の楽器を弾く伊福部昭(パンフレットから)
リュート属の楽器を弾く伊福部昭(パンフレットから)
ちょうど老親がショートステイに行っていることもあって、この日曜、久々の息抜きに「第四回伊福部昭音楽祭」というイベントに行ってきた。なんだか一足早い夏休みモードだ。伊福部生誕100周年と、ゴジラ誕生60周年のいわば合同イベント。目玉は後半の、1954年版『ゴジラ』にオケの生演奏を付けるという出し物だけれど、むしろ個人的には前半が楽しみだった。というのも「日本狂詩曲」「シンフォニア・タプカーラ」の生演奏だったから。「日本狂詩曲」は「校訂版」の初演なのだそうで、確かにテンポ設定などがCDなどで聴くものと違っている(全体的に速くなっている)感じで、あの踊り狂う感じがいや増している。踊り狂う感じといえばむしろ「シンフォニア・タプカーラ」のほうが圧倒的というのが従来の印象だけれど、今回は「狂詩曲」のほうが爆発的だったせいか、「タプカーラ」の演奏は逆に少し抑制されているようにも思えた(笑)。とはいえ、クライマックスはやはり大いに盛り上がる。

後半の生演奏版『ゴジラ』は、まずもってトーキー映画に生オケという組み合わせの意外性が興味をそそった。無声映画での生演奏は結構ある(昔見た映画版『ばらの騎士』の生オケ伴奏って、たしか会場が今回と同じオペラシティのホールだったような気がする)けれども、トーキー以後のものはそんなにはないと思う。セリフや効果音はそのままに、伴奏の伊福部音楽だけを抜いて、そこに生演奏を加えるというわけなのだけれど、試みとしてはなかなか面白いものの、途中まではオケのほうに注意が行っていたものの、次第に映画そのものに見入ってしまい(オリジナル版『ゴジラ』は3月にCSチャンネルで数十年ぶりに見たものの、やはり何度見てもそれなりに作品に入り込んじゃう)、そうなると生演奏かどうかということはまったくどうでもよくなってしまう(笑)。その意味で、この試みは成功していたのかどうか……(苦笑)。ちなみに和田薫指揮、オケは東京フィルハーモニー交響楽団。

神曲 煉獄篇 (講談社学術文庫 2243)いやいや、でもこの企画そのものは大成功だったと思う。前半も後半も評論家の片山杜秀氏によるトークが入り、特に後半ではオリジナル版の主演だった宝田明氏が登場。その宝田氏、ゴジラという存在を、地獄・煉獄・天国のすべてを含み持ったような存在として、ダンテの『神曲』になぞらえていたのがとても印象的だった。ちょうど原基晶氏の新訳が続々と刊行中であるだけに(『神曲 煉獄篇 (講談社学術文庫 2243)』が出た模様)、意外なところでダンテの『神曲』が出たことに、個人的に盛り上がる(笑)。そういえば片山氏がパーソナリティを務めるFMの「クラシックの迷宮」では、4月末と5月末(伊福部昭の誕生日だ)に伊福部特集を組んでいた。「協奏風狂詩曲」「ヴァイオリン協奏曲2番」「ラウダ・コンチェルタータ」などを放送していたと思う。さらに同じくFMの5月の「吹奏楽のひびき」でも、「吉志舞」「ブーレスク風ロンド」(ゴジラ映画で自衛隊登場時に流れるあの音型のもと)などを放送していた。

ゴジラの精神史 (フィギュール彩)さて、ゴジラといえば、小野俊太郎『ゴジラの精神史 (フィギュール彩)』(彩流社、2014)もお薦めしておこう。かつて『モスラの精神史』で、その映画世界を支えていた多層的な文化リソースの数々を浮かび上がらせた同著者による、まさにベストタイミングでのゴジラ論だ。複合的な作品としてゴジラを見直すための、とても有益なガイドになっている。ゴジラ関連の著書というのは先行文献が多々あるので、著者も述べているように相当に書きにくい題材なのだろうと思うけれど(筆致にもそれが現れているように見える)、それでもいろいろと腑に落ちる話が満載だ。たとえばオリジナル版『ゴジラ』で、民間のサルベージ会社に務める主人公が沿岸警備の船に乗り込むなんて、今では考えられないようなシチュエーションだけれど、54年当時、サルベージ会社は公的機関からの委託を受けて、沈没船の撤去や港湾の浚渫に関わり、戦後復興に貢献していたことが反映しているのだという(p.41)。あるいは伊福部との関連では、たとえば上の「吉志舞」が、古代の歌謡や舞の伝統にどう連なるかなどが取り上げられている(p.136)。