オレームの個体化・再生論

前回取り上げた論集『アリストテレス『生成照明論』に関する注解の伝統』からもう一本。今度は14世紀のニコル・オレームをめぐる論考。ステファノ・カロティ「「生成は誘発されうるが、遅くはできない」−−ニコル・オレーム『生成消滅論の諸問題』における原因の秩序と自然の必然」(Stefano Caroti, “Generatio potest auferri, non differi.” – Causal Order and Natural Necessity in Nicole Oresme’s Questiones super De generatione et corruptione, pp.183 – 205)。オレームと、その同門のインヘンのマルシリウスやザクセンのアルベルトなどの「原因の連鎖」論を中心に見ていくという趣向ではあるのだけれど、どうしてもそこに、師匠であったビュリダンの話が絡んでくる。一言で言うなら、オレームは自然の存在をすべて固定された原因論的秩序に位置づけようとし、スコトゥスの論理的可能性の概念をもとに、時間の中での個体化(自然の潜在性が時間の中で性質を発露していく)を、外的な要因の導入を避け、また完全な決定論に陥らないよう注意を払いながら理論化していくという話なのだが、この個体化問題はもとはビュリダンの議論が下敷きになっているらしいのだけれど、ビュリダンの場合は13世紀の個体化問題を振り返ることに重点を置いているようで、生成消滅論の前面にその問題を注ぎ入れて扱ったのはオレームの功績らしい。ビュリダンの示唆を受けて、オレームが解決策を構築しているというかたちだ。個体化問題と生成消滅論とを接合させて論じるというのは、確かに興味深いところではある。さらにそれが時間絡みとなるとなおさらだ。同論考によれば、オレームは、同一の存在が異なる時間に産出されることはありない、つまりは生成の遅れはありえず、「自然の(本来の)」瞬間に生成さるのではなければ、その存在は決して実在できない、と主張し、後にアルベルトやマルシリウスもそれを踏襲していくようだ。彼らはまた、消滅した事物が数的に同一であるようなかたちで再生できることを完全否定する(もちろんこの場合、神の全能性は別問題になる)。

デモクリトスの不可分論再考

少し前に取り上げた『生成消滅論』注解の略史を含む論集本体を手に入れた。ティッセン&ブラークハウス編『アリストテレス『生成消滅論』への注解の伝統』(Thijssen & Braakhuis, The Commentary Tradition on Aristotle’s De generatione et corruptione, Brepols, 1999)。その収録論文に少し面白いものがあるので、早速メモっておく(ざっと見ただけなので、多少ズレているところもあるかもしれないが)。今回取り上げるのはジョン・マードック「『生成消滅論』第一巻第二章での、デモクリトスの反・無限分割論についてのアリストテレスの見解」(John E. Murdoch, Aristotle on Democritus’s Argument Against Infinite Divisibility in De generatione et corruptione, Book I, Chapter 2, pp.87 – 102)。一般に、デモクリトスはその原子論的なスタンスから、アリストテレス的な無限分割論(たとえば線分は、点にいたるまで分割できるだけでなく、際限なく分割できるとする)に反する立場とされている。けれどもこのデモクリトスの議論は、アリストテレスが同書で報告している文章がもとになっていて、どこまでフェアな見方なのか微妙でもある。中世の注解を経て以降はなおさらだ。論考はこのあたりの状況を再考しようとしている。

現代的な見地からは、アリストテレスが報告しているのは確かにデモクリトスの教説だろうとのことだが、一方でアリストテレスによる「舞台演出」もまた施されているのだろうという。おそらくはそうした部分に、後世の注解が様々な道具立てを設定し、アリストテレスの擁護とデモクリトスの糾弾をある意味「過剰に」施していくことになるのだろう。たとえば、デモクリトスの考え方は「ありえない」とされた論点の一つに、「物体は面から構成されている」(おがくずなどを念頭に置いた教説らしい)という考え方があるという。中世盛期以降、デモクリトスに帰されているというが、実はこれ、デモクリトスにもアリストテレスにも証拠となるパッセージが存在しないのだとか。この説をデモクリトスのものとして含めたのはアルベルトゥス・マグヌスが最初らしいといい、次いでエギディウス・ロマヌス(13世紀末から14世紀初め)がそれを自身の信奉者の間に広めていくことになり、さらにはヴェネツィアのパウルス(14世紀末から15世紀初頭)やジャン・ビュリダンなどが改めて取り上げていくのだという。

もう一つ、より核心的な論点もある。これも現代的見地からだが、デモクリトスの言う不可分なものは、あくまで理論上の不可分なものであって、物体的なものを分割していけば数学的な不可分なものに行き着くと述べているわけではないのだろうとされる。けれどもアリストテレスは、デモクリトスは結局、数学的な不可分なものに言及していると捉えていた。で、デモクリトスの誤謬は、分割可能なもの(理論上の可能態)と、実際に分割されたもの(現実態としての分割)とを区別していない点にある、とされるようになる。エギディウス・ロマヌス以降、まさしくそのことが、デモクリトスへの批判の要をなしていくことになるのだという(対するアリストテレスの無限分割論は、あくまで理論上の分割可能なものをめぐる議論というわけだ)。これもまた、後にビュリダンやパウルスなどが繰り返し取り上げていくことになるのだという。

「せり出す知覚」の倫理学

徳と理性: マクダウェル倫理学論文集 (双書現代倫理学)マクダウェル『徳と理性: マクダウェル倫理学論文集 (双書現代倫理学)』(大庭健監訳、勁草書房、2016)を見ているところ。ジョン・マクダウェルの倫理学に関する論文の、日本オリジナルの選集のようだけれど(?)、収録されている各論考はなかなかに晦渋。というわけで、行きつ戻りつしながらゆっくりと読み進むしかない。第一章の表題論文「徳と理性」がほぼマクダウェルの基本的なスタンスをまとめて提示しているような印象。それをメインストリームだけまとめてみよう。有徳であるとはどういうことかを問うたときに、それがある種の知であるとするなら、その知は哲学的な記述(一般化)、あるいは定式化に耐えるものなのだろうかという問題が提示されうる。すると、そうした定式化、つまりは規則の適用に対して、ウィトゲンシュタイン以来の批判が加えられることになる。そのような規則の適用は、その先においても同じように適用されることをなんら保証するものではない、と。

その非決定的な宙吊り状態(それをカヴェルは「恐れ」といい、マクダウェルは「めまい」と称している)にあってなお、その適用を信じる、確信するには何が必要となるのか。マクダウェルはそれに、当のめまいの状況に対して外在的な立場に立ってみなければならないという考えを捨てること、と答える。どうやらマクダウェルは、人はどう生きるべきかについての見解は成文化できないという原則(アリストテレス)を尊重し、そこには欲求と認識の分かちがたい全体があると考えている。で、目下の状況に応じて、そうした全体をなす知覚的オプションのうちのどれかが「せり出してくる」としている。つまり、何かが、他のすべてを「黙らせる」かたちで行為の理由をなす、というわけだ。もちろんそれは心理的・認識的に渾然一体となったものであるのだから、せり出してくるものを一般化・定式化はできないし、たとえば欲求と認識とに分解することもできない。けれどもまさにそのせり出しこそが、内的な規則の適用への信頼をもたらす当のものだ、というわけだ。なるほどこれは、徹底した唯名論的議論といえるかもしれない(それはたとえば第七章でのプラトンへの言及部分などでも確認できる)。倫理の問題が行為というよりも認識の側に集約されている点も興味深いスタンスだ。

最近の古典語参考書

ラテン語とギリシア語を同時に学ぶ古典語についても最近はあまり語学としての参考書を追っていないのだけれど、ちょっと手に取る機会があって、これはなかなかいいなあと思ったのが、小倉博行『ラテン語とギリシア語を同時に学ぶ』(白水社、2015)。西欧の古典語(ラテン語、ギリシア語)を両方囓った人ならば、誰もが一度は思い至るであろうことを、同書は具体的に実現している。つまり、早い段階から両言語を一緒に見て対照していけば、各言語の理解も深まるのではないかという仮説だ。類似する文法項目では同じような用例を挙げたり、相異点が目立つ項目ではそれぞれの特徴点を指摘したりと、とても面白い。とくに、どちらかだけでも一通り学んだという層を対象にしている感じだ(手に取ったのは第3刷なのだけれど、白水社のページにある正誤表はすでに反映されている)。欲を言えば、練習問題などもあればよかったかなと思うのだけれどね。最近の語学の参考書はどれもそうした練習問題に重点を置かない傾向があるような気がする。放送大学で始まっている講座「ラテン語の世界」しかり(テキスト:ヘルマン・ゴチェフスキ『ラテン語の世界 (放送大学教材)』、放送大学教育振興会、2016)。そのあたりは、ちょっと残念なところ。あと、これまた最近出たマイアー&シュタインタール『古代ギリシャ語語彙集 改訂版 基本語から歴史/哲学/文学/新約聖書まで』(山口義久監訳、大阪公立大学共同出版会、2016)も、最初の基本語彙のボキャビルとしてとても有益な気がした。前置詞や小辞の類のまとめとか(学習者個人で単語帳を作ったりするものだけれど)、一覧にまとめてくれているところがとても親切。ありそうでこれまでなかった一冊。

ラテン語の世界 (放送大学教材) 古代ギリシャ語語彙集 改訂版 基本語から歴史/哲学/文学/新約聖書まで

日仏出版交流ミーティング

昨日だけれど、日仏出版交流ミーティングのパネル対談を観に、雨の中を飯田橋まで出かけた。国外での書籍販売の拡充を図ろうとするフランスの世界的なプログラムの一環のようで(こういうのを政府と民間とが一緒になってやるのが素晴らしいところ)、フランスからは主要な出版社から成る代表団が来日した。日本側についても、いろいろな出版社や翻訳者などに声をかけていたようだ(私のような端くれにまで!)。で、この日のパネル対談は、まず河出書房新社とスイユ、次にみすず書房とガリマールのそれぞれ代表が登壇して行われた。なるほど、河出はウエルベック『服従』、みすずはピケティ『21世紀の資本』と、それぞれ売れた本を出していることから、今回はその実績を踏まえての登壇ということなのだろう。でも、話の中味は「これから本を売るということに関して両国でどういう道を探れるか」というような建設的な方向にはいかず、どうも互いの国の出版制度のあらましをおさらいすることに始終していた感じだった。なんだか「売り込んでこられても、今は国内じゃ売れないんだよねえ」みたいな空気が微妙に支配的(苦笑)……。

ウエルベックやピケティの話は発表部分ではあまり触れられず、質疑応答で多少答えるという感じだったのだが、みすずは重訳刊行だったことが多少後ろめたいのか、アメリカで話題になったから飛びついたのではなく、フランスでの刊行当初から注目していたと、少し嘘くさい(?)弁明をしたり、重訳についても、翻訳者の意向を尊重しての決定で、時間的な判断があったのではないし、著者の了承も取ったし、フランスの文学作品の引用は原書を参照している(←ごく当たり前でしょ、それ!)とか少し苦しい言い訳。老舗が重訳刊行したというのは、多方面に影響を及ぼしそうな気がしないでもない。英語圏経由で外国の話題作が登場したときに、英訳があるんだからそれからの重訳でも構わないという風潮がさらに蔓延したりしないだろうかとか、あるいは英語圏経由での話題作しか扱わない傾向になってしまわないだろうかとか……。杞憂ならよいのだが。

でもまあ、人文系の老舗は評価の確立した本を大学の研究者に訳させるというのが従来の基本スタイルだったことを考えれば、そうも言っていられないという感じになってきたのかもしれず、それが新しい動き(新作の発掘や、若い翻訳者の起用など)を呼ぶ可能性がないとも言えない(とポジティブに考えよう!)。みずずの登壇者(こう言ってはなんだが古いタイプ)は、「プロの翻訳者」への軽微な蔑視(?)を言外に含ませつつ、人文学の衰退とか大学の問題とか、その場にいない関係者(文科省とかね)に向かって、つまりは空虚に向かって毒を吐いていたが、そんなところで溜飲を下げても仕方がないわけで、もっと未来志向な話にもっていっていただきたかったと心底思った。その意味では、現状の紹介が主だった河出の登壇者は、最近の傾向として図版を多用したビジュアル系の本が売れるというような話もしていて、多少なりとも発展的な糸口を提示していたのが興味深かった。とはいえ、そういう本からもっと活字主体の本への誘導策をどうするかといった問題が指摘されることはなかったのだが……。フランス側の登壇者の発表については割愛。

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話は変わるが、受付で配られていた資料にフランスの参加出版社の書籍セレクション(パンフ)があり、これにちょっと個人的に気になるものがあったので、メモ。Les Belles Lettresからは、Jean-Baptiste Brenet, Averroès l’inquiétant(不気味なる者、アヴェロエス)。タイトルに惹かれる(笑)。アヴェロエスとアヴェロエス主義は、西欧のラテン世界や合理主義にとっての不気味なる外部をなしてきた、みたいな話なのかな?それ、議論としては結構問題ありそうなのだが、どうなのだろう?実際に書籍を見てみないとね。CNRS Éditionsからは、G. Fumey et P. Raffard, Atlas de l’alimentation(食生活図鑑)。食物と文化的慣習の図鑑とのこと。うまそうかな(?)。Le Seuilからは、三巻本で、Dominique Pestre (éd), Histoire des sciences et des savoirs(科学と知恵の歴史)。第一巻がルネサンスから啓蒙時代、第二巻が近代とグローバル化、第三巻が現代。科学史本だが、最近の諸研究の成果がどれほど入っているのかが気になる。