言語において失われるもの

エコラリアス

まだちょうど半分くらいのところまでしか読んでいないが、これはすでにして名著の予感。ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス——言語の忘却について』(関口涼子訳、みすず書房、2018)。副題にあるとおり、言語の諸相において忘却されるものについての試論。忘却されるものというか、要は言語において失われるものについての検討というところ。それはたとえば言語取得に際しての幼児の喃語に見られる異質な発音だったりするだろう(1章)。けれどもその痕跡の一部はオノマトペや感嘆詞・間投詞に残存もしくは復活する(2章)。音素もときに消滅すること(4章)は、たとえばフランス語の無音のeや、hで表される各国語の帯気音の衰退(5章)に託されて語られている。言語に生死の概念を当てはめるという伝統についても検討されていて、どうやらそれがイタリア・ルネサンスに遡ることも紹介されている(7章)。「言語の死」といった生物学的メタファーはすぐに頻繁に使われるようになったというが、その後それが理論化されることはほとんどなかったとされ、20世紀になってようやく研究が現れ始めたという。それにしても、言語話者がいなくなることをもって言語の死と断定することも実は難しく、話者の生前にすでに使われなくなっていたり、話者の消滅後もなんらかのかたちで存続したりすることもあるようで、言語の死亡診断書は簡単には書けない、ということを著者は訴えている。うーむ、慧眼。

また、ヘブライ語の話は前半部分の大きなウエートを占めている。ヘブライ語のアレフの記号が歴史的に発音できないものになっている話(3章)のほか、音声を失った古ヘブライ語にアラビア語の韻律を適用した話(6章)、近代のヘブライ語の成立について(10章)など、様々な話が取り上げられている。イスラエル建国時のヘブライ語の復興について、一部の言語学者たちはそれを「ヘブライ語のヴェールを纏ったヨーロッパ語」だと評価し、ポール・ウィスクラーという学者にいたっては、それがイディッシュ語(高地ドイツ語の一つ)の継承にほかならないとさえ述べているという。興味深いことに、同書の著者はそのウィスクラーの論が、基層を一つ想定してそこに別様の層が重なるという基層理論の公理を無批判的に採用しているとして、その理論そのものに疑義を差し挟む可能性を示唆している。これまた慧眼。

雑感——動物行動学の陥穽?

洞察の起源: 動物からヒトへ、状況を理解し、他者を読む力はいかに進化したか

まだまだ暑いが、夏休み気分はとりあえず脱した感じの今日この頃、リチャード・W・バーン『洞察の起源: 動物からヒトへ、状況を理解し、他者を読む力はいかに進化したか』(小山高正ほか訳、新曜社、2018)を眺めている。タイトルに惹かれて哲学書かと思って購入したら、動物行動学系の本だった(笑)。洞察という状況理解の能力が、動物からヒトへとどう進化したかを推察する書で、それはそれなりにエピソードも豊富で楽しくはあるのだが(ヒトの眼が視線追従できやすいかたちに配置されている話とか)、動物行動学からの議論を読むといつも気になることがある。それはつまり、現存する動物たちの行動に関する推察を、人間の過去へと投射するというそのやり方だ。そうした投射にはつい違和感を覚えてしまう。もちろんそうした投射は、進化の議論などを通じて理論上はそれなりに正当化されうるものではあるのだろうけれど、それにしても扱う題材として現存するいきものが、人間の過去にあてがわれ(幻想の過去に位置付けられ)、そうして人間のある種の優位性は問われないままとなる、という点が問題として残る。この図式、なんとかならんものなのか、というのがいつもついて回る感じだ。これに囚われ始めると、どうも肝心の本の中味になかなか浸りきれなくなってしまう。というわけで、同書についてもまだ半分くらいのところをウロウロしている。

最善説明にいたる推論

Pythonで動かして学ぶ! あたらしい機械学習の教科書

少し前から機械学習の入門書・参考書をいくつか眺めているのだが(たとえばこちらなど →伊藤真『Pythonで動かして学ぶ! あたらしい機械学習の教科書』(翔泳社、2018))、その基礎となるのは、ばらつきのあるデータからある程度の予測を可能にするモデルということになる。いわゆる回帰分析というやつだが、一番単純な形式としては直線モデルがあり、たとえば平均二乗誤差(直線とデータ天の差の二乗を平均したもの)が用いられるが、その場合のモデルとなる方程式の係数がどんな数値なら平均二乗誤差が最小になるかを算出するために、勾配法などの計算が必要になる。ごくごく基本的な考え方だ。平均二乗誤差は決してゼロにはならないが、ある程度までその最小値を予測することはできる、と。

「蓋然性」の探求――古代の推論術から確率論の誕生まで

さて、こうした考え方にも当然長い歴史があるだろう、というわけで、先に挙げたフランクリン『「蓋然性」の探求――古代の推論術から確率論の誕生まででは紀元前150年ごろのヒッパルコスをそうした「最善説明にいたる推理」の嚆矢として挙げている(第6章)。ヒッパルコスは当時の天文データをもとに、それにフィットするよう離心円と周転円から成るモデルを作り上げ(直線ではなく、円をモデルとしているというが、それはそちらのほうが天文学の常識だったからだという)、後にプトレマイオスがそれを改良することになる。また、そのはるか後代の14世紀、ニコル・オレームは、そうしたデータと理論との対応の問題を再び取り上げてみせる。ある物理系が構造的に安定しているのならば、データをもとに理論が予測をはじき出す場合、たとえ必ずしも正確な予測にはならなくとも、その誤差がさほど大きくないのであれば、それは近似的予測として許容可能と見なしてよい、とオレームは肯定する。反対に構造安定でhなあい物理系(カオスの系)では、もとより予測ができない。フランス語にカオスという単語を導入したのはオレームだったという話もあるようだ。

いずれにしても、このように回帰分析ひとつ取ってみても、そこには過去からの連綿たる知的な営みの歴史があることがわかる。そのあたりが、フランクリンの著書の面白さでもあるし、もしかすると目前のどこか味気ない数式などに取り組むような場合でも、別様の楽しみを招き入れることができるかもしれない。その来し方に思いを馳せるというささやかな楽しみを。

悠久の時を想う贅沢

眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く

幼少のころから夏休みというものを刷り込まれているせいか、この暑い時期というのは妙に、スケール感の大きな何かに想いを馳せたくなる(笑)。太古の生物環境というのは格好のテーマだ。というわけで、長年積ん読してあったものから、この夏はアンドリュー・パーカー『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』(渡辺政隆・今西康子訳、草思社、2006)を見てみた。これは光と視覚にまつわる生物誌・生物史という壮大な試論。まずは生物が生存戦略として身に纏う色彩の話が大きなウエートを占めている。野生動物の縞柄などが周辺環境に溶け込むと意外なほど隠蔽色になること、反射を前提とした、色素とは違う構造色の有効性など、興味深い話が並ぶ。また、生物の進化の速度は光の量と関係があるのかもしれないとの見解も。かくして同書の中心的な仮説は、光が重大な淘汰圧として働き、それへの適応こそが進化を促してきたのではないかということになる。

光を感受する器官の進化についての考察も、同書の重要な一節だ。そうした進化が意外に速いものであること(50万年程度:地球ができてからの46億年からすれば、ほんの一瞬ということに)を説いてみせている。うーん、この半端ないスケール感が小気味よい。ここから話は一気に年代を遡り、生物が一挙に爆発的に増えていくというカンブリア紀について、それを促したのが光量の変化とそれに対する対応ではないかという、同著者称するところの「光スイッチ」仮説が示される。さしあたりこの仮説の信憑性を検証することは素人にはできないが、このある意味一貫した構成の巧みさは見事というほかない。遠大な悠久の時を、ささやかな、とはいえ微に入り細を穿つ科学的視座によって想うのは、なんともこの贅沢な営みだ。