16、17世紀のスコトゥス主義

ロジャー・アリュー『スコラ学者たちの中のデカルト』(Roger Ariew, Descartes among the Scholastics, Brill, 2011)を読み始めている。著者の個人論集で、デカルトとスコラ学の関係を多面的に扱った論考が居並んでいる。これはなかなか興味深い。そのうちの第二章が、スコトゥス派の話に当てられている。エティエンヌ・ジルソンの功罪の一つは、デカルトの時代についてトマス派を持ち上げ、スコトゥス派を顧みなかったことだとされる。著者によると、その理由の一つは、当時のローマでトマス派が支配的だったことを受けて、他の地域もそれに従ったに違いないとジルソンが推測したことにあるという。さらに、ちょうどジルソンが生きた一九世紀末から二〇世紀初めにかけてトマス主義が隆盛を極めたことで、結果的にその影響によってジルソンにおいてもトマス主義偏重が強められたのではないか、ともいう。実際には、16、17世紀のパリ大学などにおいてはむしろスコトゥス思想が一般的になっていて、トマス主義を重んじる傾向にあったイエズス会とは様々な点で(文化的、政治的に)対立していたという。イエズス会のコレージュ開設をパリ大学側が阻止しようとしたりしていたのだとか(1595年、1604年、そして1616年以降)。ちなみに、デカルトは当初イエズス会での教育を受けていたわけだけれども、その思想はむしろスコトゥス主義と親和的な要素を多々もっているとされる。

この論考では、当時のトマス派とスコトゥス派との対立的論点を、その主要な論者たちを通じて整理してみせている。まずイエズス会内部でも、たとえば事物と形式的概念との間に第三の現実を認める(14世紀のサン=プルサンのドゥランドゥスの議論)かどうかといった問題において、反対派のスアレスと擁護派のガブリエル・バスケスの対立があったという。同様の議論はパリ大学でも、アブラ・ド・ラコニスやエウスタキウスがドゥランドゥス説を支持していた。ほかにも存在の類比か一義性か、人間の形相は単一か複数か、第一形相は純粋に可能態か形相から独立しうるかなどなど、お馴染みのトマスvsスコトゥスの構図で出てくる諸問題が取り上げられているけれど、どうやらトマス派ではアントワーヌ・グーダン、スコトゥス派ではアブラ・ド・ラコニスやエウスタキウス、スキピオン・デュプレクスあたりがとりわけ重要な人物のように描き出されている。ふむふむ、いずれも要チェックだ(笑)。