「存在・カテゴリー・アナロギア」カテゴリーアーカイブ

プロティノス論

岡野利津子『プロティノスの認識論–一なるものからの分化・展開』(知泉書館、2008)を一通り。プロティノスのヌース(知性)からの発出論を中心に、手堅くまとめた一冊。確かにその知性論は、一見(表層的になぞるだけなら)わりとすんなりわかった気にさせられるのだけれど、読み込むといろいろと難しい(苦笑)。その意味では、こうした整理はやはりありがたく、プロティノスを読むときの参考書として有益だ。けれども個人的には、最新の研究動向の紹介とかをもっと入れてほしかったなあと思う。一部の章は博論をまとめたものといい、先行研究への言及が少しだけある。おそらくはそうした先行研究のまとめみたいなところはばっさりカットしてあるのだろうけれど……。うん、プロティノスに続いて、プロクロスあたりの発出論とかもきちんと整理したものがあるといいなあ、と改めて思う。

偽ディオニュシオスとトマス

メルマガの方でちょっと触れたのだけれど、トマスの場合には、新プラトン主義的な発出論を取り込んでいるとはいえ、どうもそれはアヴィセンナなどの逐次的構造の発出論とは違って、いっぺんに発出する、みたいな感じになっているとの指摘がある(『神秘と学知』長倉久子訳注、創文社、1996)。で、そのトマスのソースが気になったのだけれど、何気に目を通したフラン・オローク『偽ディオニュシオスとトマスの形而上学』(Fran O’Rourke, “Pseudo-Dionysius and the Metaphysics of Aquinas”, University of Notre-Dame Press, 1992-2005)に、どうやらそれが偽ディオニュシオス・アレオパギテースであるらしいことが記されている。そっか、やっぱりなという感じ。これまたメルマガに以前書いたけれど、偽ディオニュシオスとトマスの関係性はあんまり研究が多くない印象。その意味ではこれは貴重な一冊。最初の掴みこそいまいちだけれど、論が進むほどに引き込まれる感じ。偽ディオニュシオスのテキストを発出論として読むという視点は、うかつにもスルーしていた……(反省)。アヴィセンナ的な発出論はそれなりに構造として精緻化されていると思うのだけれど、偽ディオニュシオスあたりはもっと素朴というか直接的というか。そのあたりを取り込んで、アリストテレスなどとすり合わせているのがトマス、ということになりそうだ。

*↓深まりゆく晩秋の都内某公園その2

言葉からのアプローチ

前に『アナロギアの考案』(”Inventio analogiae”)が面白かったジャン=フランソワ・クルティーヌを、久々に読んでいるところ。『存在の諸カテゴリー』(J.-F. Courtine, “Les catégories de l’être – Études de philosophie ancienne et médiéval”, PUF, 2003)。『アナロギア……』に先立つ論集。ここでもまた、οὐσίαの意味論的変遷とか、「存在のアナロギア」が導かれる前提条件としてのネオプラトニストの注解とか、言語的アプローチから哲学的な意味を引き出すという方法論が見事に冴えわたる。ウーシアに関してはボエティウスの翻訳と、さらに先立つクィンティリアヌス、アウグスティヌスの場合の意味の変遷が問題になっているし、「存在のアナロギア」説では、アップストリームに位置する初期注解者たちの偏向が問われる。アフロディシアスのアレクサンドロスやアスクレピオスらは、συνώνυμοςとὁμώνυμοςの関係性の解釈の中で、プラトンを批判するというアリストテレスの意向を文字通り反転させてしまうのだという。このあたり、なかなかに味わい深い分析が展開する。

で、とりわけ興味深いのが、アリストテレスのカテゴリー論の受容でのヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの立ち位置。10のカテゴリーに対して神はどこに位置づけられるのかという中世的な問題に、エウリゲナは否定神学的な立場からむしろそのカテゴリーの組み替えを提唱し、しかもそれに際して、これまた長い思想的伝統のある「場所と時間」の特異性をはっきりと打ち出していくのだという。そういえば、先々月記したヴァジリウ『透明なるもの』でも、エリウゲナがディオニュシオス・アレオパギテスをベースに、真にアリストテレス思想的な知覚論を展開していたとされていたのだっけね。うーん、エリウゲナは気になるなあ。ちゃんと読んでみようか。