「古代後期からビザンツへ」カテゴリーアーカイブ

雑記:ちょいと秋休み

先週は一週間ほど事実上のオフ(秋休み?)。個人的な趣味で最近始めた、アンドロイド端末をターゲットとするC#でのお遊びプログラミングに興じていた(苦笑)。いろいろ知らないことが多くて大変だが、それはそれで楽しい。ほかに『猿の惑星:聖戦紀(グレート・ウォー)』などを見たりもした。一連のシーザーをめぐるストーリーの完結編。『地獄の黙示録』へのオマージュもさることながら、オリジナルシリーズへのオマージュなどもあって、個人的にはとても楽しめた。人間たちが、どこかゼウスに追われるクロノスらティタン族に重なったりとか……。

Commento al «Cratilo» di Platone. Testo greco a fronte……なんてことを思ったのは、相変わらず少しずつ呼んでいるプロクロス『クラテュロス註解』が、ちょうどクロノス、ウラノス、ゼウスのあたりの話に及んでいるところだからか(笑)。プラトンの『クラテュロス』を受けて、神々の名前についての論が展開するのだけれど、ここでもまた新プラトン主義的スタンスに即して、プロクロスは発出論的な視点から神話の構造を説き直している。かくしてクロノス、ウラノス、ゼウスは創成に関わる三者として(けれどもどこか一体的に)扱われているようで、クロノスは「劇的なかたちでおのれの父を受け継ぎ、続く世代に引き継いだ」(111節)神と評され、ウラノス、クロノスの去勢の話を断絶として、ゼウスが別種の分割と統治の拡大を図ることになる、というまとめになっている。天上世界と地上世界、知性と理性との断絶が改めて強調されているかのようだ。

【メモ】語源分析の心得 – プロクロス『クラテュロス註解』から

Commento al «Cratilo» di Platone. Testo greco a fronteプロクロスの『クラテュロス註解』からメモ。第85節には、語源分析を行おうとする人の心得が列挙されている。それをさらにまとめるとこんな感じ。そういう人が知っておくべき・修得しておくべきなのは、(1) 方言による違い、(2) 詩人別の用法、(3) 名前が単一か組み合わせかの区別、(4) 名前の適切な説明づけ、(5) 用法における違い、(6) 発話が被る変化(短縮、省略、反復、音節の癒合など)、(7) 個別の文字、(8) 両義性、同音異義語など。これらいずれかの知識を欠いていると、誤った解釈に陥るとされる。総じて批判的な判断ができなくてはならないとされ、その後には名前の実例がいくつか挙げられたりもしている。プラトンは「アガメムノン」が「ἄγαν(過度に)」からではなく「 ἀγαστὸν(称賛すべき)」から派生していると述べていたりするが(395a8)、文法家たちは質料(ここでは素材としての言葉を意味していると思われる)面に拘り形相(それが表すものの存在)を見ないがゆえに、逆の解釈を示してしまう、とプロクロスはコメントする(第91節)。

余談ながら、第96節に「ἄνθος τοῦ νοῦ(知性の花)」という表現が出てくる。伊語訳注によれば、これはもとは『カルデア神託』からのもので、崇高なる知性、神の領域に触れるほどに高まった知性の状態を言うのだそうだ。この本文の箇所では、「知性の花」のみが、その言葉が示唆する、言い得ず知りえない神的な実体に触れることができるのであって、ソクラテスが分析する神の名は、あくまでその像にすぎないことが語られている。また、この底本冒頭の解説によれば、この表現はもっと先の第113節にも登場し、人間には「知性の花」を介して、また人間の本質のより真正な部分を通じて、神的な現実に接する可能性があるとされてもいるのだという。プロクロスは『クラテュロス』の神名の分析に、そうした内奥に向かうとっかかりのようなものを見いだしていることが改めてわかる。

プロクロスの『クラテュロス註解』

Commento al «Cratilo» di Platone. Testo greco a fronte夏前に『クラテュロス』を読んだが(こちらこちらを参照)、それとの関連でプロクロスによる『クラテュロス註解』も見始めた。イタリアはボンピアーニ社から出ている希伊対訳版(Commento al «Cratilo» di Platone. Testo greco a fronte, a cura di MIchele Abbate, Bompiani, 2017)。まだざっと全体の三分の一に眼を通しただけだけれど、いつものプロクロス節(新プラトン主義的・発出論的な物言いが、様々に変奏されて繰り返される)がここでも堪能できる。『クラテュロス』は言葉が社会的な約束によるものなのか、それとも事物の本質を普遍的に表すものなのかという問題をめぐる対話篇。前半三分の二を占めるヘルモゲネスとの対話では、社会的な約束によるとするヘルモゲネスの説をソクラテスが粉砕する。後半になると一転して、本質主義的な物言いをするクラテュロスを批判する。両成敗的な展開を見せるテキストだけに、プロクロスがどのようにアプローチしていくのかが注目される。

……というか、根底には発出論の図式がある以上、そこから逸脱することはないだろうと、ある程度その予想はつく。実際、たとえば言葉による事物の定義についてのコメント一つとってみても、その産出者は「知性」(ヌース)であり、各々の固有性を構成するかたちで各々の事物が分割される、などと言われる。分割と構成はアリストテレス的なディアレクティケーの操作でもあり、かくして新プラトン主義とアリストテレス主義との折衷的なコメントも散りばめられていく。しかしながら、やはりというべきか、「事物の後に生じるディアレクティケー(プラトン的な)が崇高であるように、認識の実践後にこそ名前もまた正真なものとなる」などとも記されている。そしてまたミメーシスの原理により、名前は形相を、したがって数を模倣する。そこから導かれるスタンスは、クラテュロス的な本質主義に親和的なものとなることがわかる。実際、ヘルモゲネスに反論するソクラテスの文言と同様に、プロクロスも本質論的な立場を擁護し、慣習説・規約説に反論してみせている。さらにはプラトンのほかの対話篇からの引用をも援用していたりもする。こうしてプロクロスは、知性と名前の関係性を、原理と結果、モデルと像という関係性として改めて強調してみせる。もとの対話篇に即して、話はその後、立法者としての名づけ親、すなわちデミウルゴスのほうへと向かっていく……。

こうなると、逆に対話篇の後半(というか最後の三分の一程度)に展開するクラテュロス批判、つまり、本質論への批判をどう扱っていくのかがとても気になってくる。けれども先取りして言うならば、残念ながらどうやらプロクロスのこの註解は、ヘルモゲネスとの対話の途中(407a8-c2)で唐突に中断されてしまっている(orz)。意図的なものなのかどうか不明だが、ちょっと拍子抜けではある。けれども、架空的にありうべきクラテュロス批判の手がかりのようなものを見いだせないかと問うてみるのも悪くはないかもしれない……そう思い直し、そのあたりを含めて少しメモを取りながら読み進めることにしよう。なにか興味深いポイントがあれば、追って記そう。

プロティノスのディアレクティケー論 – 4

Traite 20 Qu'est-ce Que La Dialectique? (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)ジャン=バティスト・グリナによるプロティノスの第20論文への註解本。前半部分ではディアレクティケーをメソッドとして感性から知性へ(第一段階)、知性から究極の善へ(第二段階)と向かう候補者として、音楽愛好家、恋する者、哲学者を挙げ、それぞれについての解説を、プラトンの著作全体を参照しながら検討していた。次に後半部分(本文の四節、五節、六節)に入ると、いよいよディアレクティケーという方法論の中味についての検証となる。そもそもディアレクティケーとは何かという設問(第四節冒頭)に対して、プロティノスはまず、「それぞれの事物について、それそれが何であるか、他の事物とどう違うか、それが含まれる、あるいはそれぞれが含まれるそうした他の事物との共通項は何か、それが存在するなら、それは何か、存在するもの、存在しないものがどれだけあるのかを、理性的に(ロゴスによって)言う能力(ἕξις:ヘクシス)である」と答えている。これをめぐっていくつもの興味深い指摘がなされていく。

たとえばその「ヘクシス(訓練で身についた能力)」の問題。ディアレクティケーをヘクシスとする議論はプラトンの著作そのものにはないといい、むしろアリストテレスやストア派のほうに多数散見されるという。アリストテレスはそれを論証能力もしくは徳としての学知と定義し、ストア派は技法、学術と定義している、と。プロティノスの使うヘクシスの概念がそれらの定義と一致するかは異論もあるところらしい。グリナは少なくとも、プロティノスの本文のほかの箇所を参照しながら、それが「各種の操作をする、修得された能力」と規定できることを主張している。面白いのは、シンプリキオスが述べていることだというが、アリストテレスにおけるἕξιςとδιάθεσις(能力)の区別を、ストア派が後者をより安定的なものと取り、逆転させているという話。

プロティノスはまた、ディアレクティケーは対話であるとも述べているというが、ここにも問題があり、ディアレクティケーが拠り所とするロゴスは、あらゆる推論・言語形式(外的な発話と内的な発話を含む)を言うのか、それとも純然たる対話を指すのかが問われなくてはならない。グリナはここでも、もとのソースとなった『国家』を参照し、プロティノスの言う「ロゴス」の意味が「推論」に近いことを論証してみせている。また続く問題として、そのディアレクティケーの能力が行いうる各種の操作が取り上げられている。その操作とは、上のプロティノスの定義にあるような、「それぞれの事物とは何であるか」「他の事物とどう違うか」「存在するのなら、それは何か」「存在するもの、しないものがどれだけあるのか」という四つの点に関わるものであるとし、ディアレクティケーが分割・統合のほか、存在論的な解釈から成るということを、やはりプロティノスが参照しているであろうプラトンの著作の箇所から類推してみせている。

さらにまた大きな問題として取り上げられているのが、その対象についてだ。ディアレクティケーが対話であることからプロティノスは、それが「善についての対話であり、善でないものについての対話でもあり、善に従属するもの、その反対物に従属するものについての対話でもある」と述べている。しかしこの反対物をも対象にするという文言は、ベースとされる『国家』の本文への重大な変更を意味してもいる、という。つまり、イデアとしての「善」でない、それに従属するものをも対話の対象にするということは、感覚的なものをも対象にするとうことになって、それまでのディアレクティケーの定義に反するのではないか、あるいは善の反対物、すなわち悪をも扱うことになってしまうのではないか、というわけだ。けれどもプロティノスの意図はそこにはない、とグリナはコメントする。結局、あらゆる学知とは対立するもの同士についての学知なのであるから、善について問うなら善以外のもの、すなわち悪についても問わずにはいられない。だが、だからといってディアレクティケーの対象が感覚的なものにまで及ぶということにはならない。ディアレクティケーは感覚的なもののみならず、知的なものをも超越することを究極の目的としているのだからだ。また、そもそも悪は知的なものでも、感覚的なものでもない。したがって悪そのものを問うことにもならない。ディアレクティケーが仮に感覚的なものに及ぶことがあるとしても、それはあくまで偶有的・付随的なことにすぎない……。こうしてプロティノスの議論(とグリナの註解)は、次に論理学との関係性へと向かっていく。

プロティノスのディアレクティケー論 – 3

Traite 20 Qu'est-ce Que La Dialectique? (Bibliotheque Des Textes Philosophiques)ジャン=バティスト・グリナによるプロティノス『第20論文』の註解から、さらに続き。知的な美へと高まるための候補として、音楽(愛好)家、恋する者、哲学者の三者が挙げられていたわけだけれども、重要な点として、それら三者は並列関係にあるのではなく、それら自体が一種の階層構造をなしているということが挙げられる。下層から順に音楽家、恋する者、哲学者ということになる。グリナの註解は次に、この三者それぞれの性質(性分・性向)と、それぞれに与えられるべき教育についてコメントしている。たとえば音楽家は、聴覚の美、音の調和に鋭い感性をもっているとされるわけだが、より上位の観念的な美へと達するためには、感覚的なものを廃して知的な美を享受するのではなくてはならない。そのために推奨されるのが、数学を学ぶことだとされる。

この構図は基本的に、恋する者についても同じで、感覚的・肉体的なものからの離脱が説かれる。その上位という位置付けの哲学者はというと、すでにそうした感覚的なものの捨象を性分として会得しているとされるが、そこでもまた、前二者とは多少とも意味合いが異なるものの、最終的には数学を学ぶことが重要だとされる。そのあたりについてのプロティノスのテキストには、プラトンの『国家』などからの引用が散りばめられている。ディアレクティケーと「善のイデア」の認識を準備する学知の全体は、数学による準備段階で構成されるとされ、その数学は算術・計算法、幾何学、立体図法、天文学・調和の学から成るとされる(『国家』第七巻、522b-531d)。プロティノスが学知の説明で使う用語が、もとのプラトンの用語法と若干異なる部分があるとして、グリナはそのあたりを細かく見ていくのだけれど、ここでは割愛。ただ、とくに重要と思われるのは、数についての存在論的な違い。プロティノスは数を原初の存在と諸存在との中間物と位置付けている(流出論的に)が、数学の役割を知への慣れ(順応)をもたらすこととしていて、両者の間で多少とも齟齬が生じているという。一方のプラトンは、ディアレクティケーを準備するという数学の役割は、感覚的なものと形相との中間にあるとする数の存在論的な地位から、問題なく派生するとされる。このもとのプラトンの考え方は、アルキノオスを始めとする中期プラトン主義にも継承されていた……。

数学はディアレクティケーの前段階(προπαιδέια)をなし、ディアレクティケーこそが、「原理的で仮定的でない第一現実に到達」できるとされる(アルキノオス)。それは「存在についての観想」だが、数学を経ていなければ不可能だと見なされているという。グリナの指摘によると、プロティノスの数学観がそれら先達と異なっているのは、数学の中に音楽が含められていないこと、そして数学の教育的な重要性が、真理会得へと至るプロセスの一時期に限定されていることにある……。かくして、数学に続きいよいよ、哲学のディクールとしてのディアレクティケーそのものに関する議論がなされることとなる。