2008年02月09日

[メモ]バルテレミーのシモンドン論

久々に近・現代もの。ジャン=ユーグ・バルテレミーのシモンドン論連作の1冊『個体化を考察する』(Jean-Hugues Barthélémy, "Penser l'individiation", L'Harmattan, 2005)を半分ほど読んだところ。ジルベール・シモンドンの個体化論を、それが伝統的な哲学の問題認識の何に対してどう革新的なのかを明らかにしようとしているもので、まとまったシモンドン論としてはほぼ最初のものといってもよいかも。基本的には歴史的文脈に置き直すという作業なのだろうけれど、たとえば基本となるシモンドンの特殊な用語法の解明という意味ではあまり参考にはならないかも。で、同書で強調されるのは哲学伝統との断絶だ。たとえば、「質料形相論、主要な敵」と題されたその2章目は、シモンドンの個体化理論がいかに質料形相論と断絶したものかを強調しようとしている感じ。バルテレミーはシモンドンによる質料形相論批判について、個体化の原理が本来なら説明してしかるべき個体を先取りし、後づけ的なものにしかなっていないのに対して、シモンドンが行っているのは、形相と質料が項として立てられる際に排除された第三項(技術に立脚した関係性)を回復しようとする試みだ、といった話を展開する。うーん、なにかこの、断絶強調姿勢にちょっと違和感が感じられたりするのだけれど……(笑)。確かにシモンドンの『個体とその心理・生物学的生成』の最初のところでは、質料形相論の批判がまされていて、とりわけ質料と形相のいずれかに原理を認める点が批判されている。で、両者の関係性そのものに原理を見いだすべきだという話になって、そういった項の関係を支える技術的操作や、ひいてはエネルギー論にまで論が進んでいくわけだけれど、これはもとの枠をより汎用性のある概念へと開こうとしていた印象が強い。バルテレミーのように、二項を立てるために排除された第三項を求めることだとガツンと言われると、どこかこの、個人的にシモンドンのテキスト全体に感じられる連続性の相みたいな部分がかなり殺がれてしまうように思えて落ち着かない……。これもまた、断絶か連続かのいずれかに力点を置くかで違って見えてくるということの一例だけれど。

投稿者 Masaki : 23:52

2007年12月26日

時間神学

今年ももうノエルになってしまったけれど、例によってなんだかんだとそれなりに忙しかったり。そんな中、さらに刺激的な読書(笑)。入不二基義『時間は実在するか』(講談社現代新書)がそれ。以前『相対主義の極北』が鮮烈だった著者。今回も(といっても、この本は2002年の刊行だけれど)実に見事なドライブ感をもたらしてくれる。イギリスの哲学者ジョン・マクタガート(1866-1925)が1908年に発表した「時間の非実在性」という論文をベースに、その「非実在論」をかなり細かくかみ砕いて解説したのち、今度はそれに対する批判的なアプローチをかけてそれを追いつめていく。そして最後には、そのマクタガートを追い込んだ袋小路から、これまたあざやかな反転といった趣のアプローチで、時間問題への著者独自の議論を展開してみせるという、体裁は小著ながら実に「壮大な」著書だ。

(同書が描き出す)マクタガートの議論は、まさに新手の普遍論争ともいうべきもの。基本的には時間概念を形式論理学的に2つの系列に分割し、そのうちの一方はもう一方に依存するものであるのに、その依存される側の系列はそもそも矛盾を抱えざるを得ないので実在しえず、結局どちらの系も実在しえなくなってしまうという議論が展開する。著者はマクタガートの想定反論への再販論も含めてその議論を吟味しなおすのだけれど、このあたり、ほとんどフィールドをかえた唯名論vs実在論の論戦という感じだ。トマスからハイデガーにまで連綿と続く存在の議論が存在神学であるならば、これはさながら時間神学とでも言うべき議論の数々だ。そしてその行き着く先には、どちらにも決定不可能であるような地平が待ちかまえている……。

著者が第4の道として示す(つまり「神学」論争の基本的スタンスは3つあるということなのだけれど)「形而上学的」時間の議論では、関係としての時間と「無」関係としての時間という切り出しを試みている。切り出すための装置には、形式論理的に時間表象を完全に捨て切っているのかどうかといった微妙な問題があるようにも思えるし、また、否定的な「無」よりももっと根源的・断絶的な「無」といった概念を導入するあたり(どこかスコトゥスに似ている!)も、微妙な問題を孕んでいる感じがしないでもないけれど、そこから示される結論はある意味で実に壮大なもの。うーん、これはもはや「時間神学」の知の極北。

投稿者 Masaki : 00:05

2007年11月23日

存在--類比か一義性か

『中世思想研究』49号に書評が掲載されていた(著者本人の寄稿もある)宮本久雄『存在の季節--ハヤトロギア(ヘブライ的存在論)の誕生』(知泉書館、2002)を取り寄せてみた。ここで言われているヘブライ的存在論は、静的な西欧の伝統的存在論に対して、生成・変転を取り込んだ存在論という位置づけのようだ。なるほど前者は西欧的な「枠組み」を生むのに対して、後者は開放をもたらすというあたり、この間のアヴェロエスとアヴィセンナの対照性などにも通じる話ではあるし、あるいはドゥルーズの「差異と反復」で出てきた差異/反復と表象/再現前化の議論にも通底するような論点でもあるし。けれども、著者の宮本氏は神秘神学の方向性には批判的なようだし、ドゥルーズと重ね合わせるとさらに大きなズレがある。ドゥルーズが存在の類比の考え方を再現前化の側に位置づけ、スコトゥスの一義性議論のほうに反復の契機を見ているのに対し、同著者は逆の立場で論じていたり。一義性を考えてしまうと、存在が定立的なものになり、生成の契機が出てこないということになる、というわけだ。全体的な議論の組み立てが違うからだけれど、これはなかなかに興味深い対立点かもしれない。また、同著者は生成・変転の存在論という観点から「語り」を重視し、それを存在論的に開くことを探求しようとしている感じだけれど、これもまた、たとえば語りが抱え込んでいる外部、その限界を考察しようとするという意味で通底していると思われる、アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの--アルシーヴと証人』(上村忠男、廣石正和訳、月曜社)などともある意味で真っ向からぶつかり合うように思える。表面的な対立?うーん、そうかもしれないけれど、それにしても著者の宮本氏が触れているアウシュヴィッツの超克の問題などが絡んでくるだけに、この対立はとても重要なものであるような気もする。

こうなってくると、ハヤトロギアと命名されたヘブライ的な存在論そのものの、構造的な析出が問題になってくるのかも。おそらくそれはまだ端緒にあるにすぎないのだろうけれど、同書ではとりあえず旧約聖書のエピソードに解釈論的なアプローチが加えられるにとどまっていて、こうなるとヘブライの思想伝統まで取り込んだ本格的な議論が期待される……。トーラーの長い解釈伝統とか、マイモニデスなどの「形而上学的」思想とか、ナハマニデス以降のカバラ主義とかいろいろあって、とても一枚岩ではない「ヘブライ思想」は、なるほど生成・変転の存在論から読み直すこともできそうな予感はする(かな?)。

投稿者 Masaki : 20:19

2007年04月16日

「退屈」の哲学とビュリダンのロバ

ラース・スヴェンセン『退屈の小さな哲学』(鳥取絹子訳、集英社新書)を読む。人が下手をすると日常的に直面する、退屈という現象について考察をめぐらしたもの。退屈、なんていうと哲学の対象にならないように思われるかもしれないけれど、実はこれ、実存の片鱗に触れるというとても重要な側面を持っている。なにしろそれは、「意味」が見いだせない状態に陥ることだからだ。神(意味を担保する存在)なき時代の人間は、こうして意味の空虚さに直面せざるをえず、何人もそのことを避けて通れはしない……とまあ、もとよりすっきりとした処方箋が示されるわけではないのだけれど、「退屈」をよりよく直視するための姿勢を養おう、というのが同書の趣旨だ。問題提起の第一部と、退屈の歴史(中世的なacédie(懈怠)概念に少しばかり触れている)の第二部が個人的には面白い。スヴェンセンは70年生まれの若いノルウェーの哲学者。邦訳は仏訳版からの重訳とか。

余談ながら第一部の終わりのところで、現代人の置かれた状況が、ビュリダンのロバのたとえ話に重ねられている。ビュリダンのロバというのは、質・量との同じ二つの干し草をロバから等距離においておくと、そのロバは選択ができずに餓死するだろうというパラドクスのこと。ビュリダンの言葉とされているものの、現存する著作には見られないものだという。なるほど、これもまた、オッカムの剃刀に並ぶ幻の一句というわけか。ビュリダンは一般に心理学的決定論の立場を取っているとされ、その文脈で引かれた例ということになっているらしいのだけれど、ビュリダンの理論(理性がよりよいと認めない限り選択はできない、というもの)を詭弁として斥ける(現実に反するとして)ために、後世にひねり出された一句とも言われる。ビュリダンには『ソフィスマタ』(詭弁)という著書もあり、しかも8章の自己言及命題の論究で挙げられている命題には、ロバに言及したものもあって、そう見ると確かになんだか皮肉な感じがしなくもない(笑)。

投稿者 Masaki : 21:03

2007年03月01日

ドリーシュ

ハンス・ドリーシュ『生気論の歴史と理論』(米本昌平訳、書籍工房早山)を通読。実はこれ、個人的に編集サイドを通じて仏語の問い合わせを受けた「お手伝い本」。そんなわけで、第一部の歴史編は昨年原書のコピーを読ませていただいたのだけれど、やはりというべきか、本当に面白いのは実は第二部の理論編だった(やや晦渋ではあるのだけれど、第二部の後半をなす「個体性の問題」がわかりやすい)。歴史編でもアリストテレスが批判的に取り上げられて、それから近代以降へと邁進するのだけれど、理論編もおなじように、アリストテレス思想の「組み替え」がキーをなしている。とくに重要なタームとなるのが「エンテレキー」。可能な変化の進行を留保したり解除したりするもの、ということで、訳者の解説はこれを情報論的な力学と見ている。アリストテレスの「ἐντελέχεια」は本来、形相と質料とが結びついた「発現態」「完成状態」を意味する用語。『霊魂論(魂について)』の有名な箇所(412b4〜6)で魂の最初の定義として言及されている(「あらゆる魂に共通するものを挙げるとしたら、それは自然の秩序だった身体の第一の発現態ということだろう」)。けれども後世には、むしろ「完成」という作用の面が強調され(中世盛期にすでにそういう感じになっていくようだ)、「形相の働き」という意味合いが強くなるようだ(このあたり、またもアヴェロエス思想の継承者らの議論が絡んで面白い問題なのだけれど、今はさしあたり置いておこう)。で、ドリーシュのエンテレキー概念も、秩序付けの内的な力学という意味を携え、どうやらその系列にしっかりと連なっている。というか、連続性の相で見るなら、秩序一元論といった全体性の思想などもふくめ、ドリーシュの議論はまさに中世の思想的な流れを汲んでいる感じだ。もちろんその議論には、近代以降の大きな変換もまた取り込まれているわけだけれど。

それにしても先のパースといい、20世紀初頭にいたるまで、度重なる変形を被りつつも古代から中世へと受け継がてきた思想潮流は、やはりそれなりに思想的な命脈を保っていたことがうかがい知れる。そしてまた、21世紀の新たな思想的流れが、今度はそのパースやドリーシュの読み替え・変形でもって進んでいくとしたら、とても刺激的なことなんではないかな、と。

投稿者 Masaki : 22:51

2007年02月10日

スピノザとマイモニデス

スピノザによるマイモニデス批判に関する論考を目当てに、スピノザ協会年報『スピノザーナ』(学樹書院)というのを買ってみる。手嶋勲矢「スピノザのマイモニデス批判--中世ユダヤのメタファー解釈との関わりで」というのがその論考。スピノザの『神学政治論』7章の最後のほうで引用されるマイモニデスの一節(世界の永遠性を認めない理由)は、『迷える者への道案内』2巻25章からのもので、世界の永遠性が論証できないことと、それが信仰の基盤を揺るがすことが挙げられている箇所。マイモニデスはそこで、神の身体性の否定(一見それも聖書に反するように見えるからだけれど)の議論と対比しながら、世界の永遠性の議論を排除している。スピノザはこれを、論証という形で聖書の内部以外に根拠をもとめる点で批判し、聖書は聖書の内部で解釈されるべきだというようなことを主張する……。

で、上の論文は、マイモニデスの聖書解釈が当時のユダヤ教の伝統的解釈(比喩的解釈と字義的解釈を明確に分ける立場)と微妙に一線を画し、字義的解釈と比喩的解釈とを共存させるものだとし、その上で、スピノザの批判がいささか的はずれであることを示唆し、スピノザがマイモニデス以上に字義的解釈にこだわっている様を明らかにしている。なるほど、ここでのマイモニデス像は、哲学と宗教とを分離しようとするといった「近代的」な像(アリストテレス思想との関連という文脈で一部の研究者たちから提出されたものだという)とはだいぶ趣きが異なる。うん、このあたり、とても参考になるところだ。

投稿者 Masaki : 23:48

2007年01月30日

ストア派の問題圏

昨年秋からのジル・ドゥルーズ本のミニ刊行ラッシュ(?)。『アンチ・オイディプス』の新訳、『シネマ2』の刊行に続き、個人的には一番注目だったのが『意味の論理学』(小泉義之訳、河出文庫)。まずは下巻の付録から読み始める(笑)。とくに「ルクレティウスとシミュラクル」では、ストア派と決定的に違う(「原因関係を同じ仕方で割ってはいない」)エピクロスの体系が、いかに流出の理論を導き、シミュラークルの世界を導くかが言及されている。で、ここから翻って上巻を中心に随所に散りばめられたストア派をめぐる話を追っていく……。昨夏のブレイエ本の議論を蹈襲する形で、話は展開する。原因と非物質的結果、そしてその結果から遡及される準・原因ともとの原因との間に断絶がある、と認めると、今度は準・原因が織りなす関係性を問題にしなくてはならなくなる。ストア派はかくして「運命」(まさに準・原因の関係性だ)を肯定するし、占星術を理論的装置とすることになる、と。で、ドゥルーズはまさにその本来の原因と準・原因との差異に注目して、そこからシミュラークルを、肯定的分離を引き出してみせる……とまあ、こういうわけだが、うーん、これはまた実に悩ましい解釈だ。このところ読んでいたアプロディシアスのアレクサンドロス『運命論』が批判していたのは、まさにその「必然から独立した運命」なるものだったわけだけれど(逍遙学派からすれば、必然(微細で周到な因果関係)と自由(因果関係の認識の限定性、外部)との間の中庸こそが真実であって、運命なるものを仮構するのはそもそも無意味なのだ)、このあたりもまた、事物と概念と意味との微妙な割り方という筋立てで読み取っていくこともできるかも、なんて。

投稿者 Masaki : 18:36

2007年01月22日

博物学的

ユイスマンスの『大伽藍』(1898年作)から第10章と第14章を訳出した『神の植物・神の動物』(野村喜和夫訳、八坂書房)は、神学上の植物・動物の象徴誌の概要としてなかなか見事なもの。ページ上部に散りばめられた図像がまたいい。小説だとはいえ、主人公デュルタルやプロン神父の口を通じて語られる諸説は、19世紀末の教会の知的な雰囲気をも伝えている。たとえば、デュルタルは中世の聖人らの語る動物誌の理解になんとか理論的道筋を立てようとするし、プロン神父は、聖書に出てくるまか不思議な動物誌が、ヘブライ語からの翻訳に際して、もとのなんてことはない単語が歪曲されて伝えられた結果だといった、きわめて実証的な見方を示したりもする。いずれにしてもここには、植物誌・動物誌の列挙にとどまらない、当時の「分類への指向」のようなものが垣間見られる感じだ。

それに関連して、ちょうど、出たばかりの新書、久我勝則『知の分類史』(中公文庫ラクレ)に目を通したところなのだけれど、これ、アリストテレスから近代にいたるまでの、しかも西洋と東洋への目配せもしつつ、分類法や百科事典、図書分類の方法などを列記してみせる(主に目次だけだけれど)というもの。やや荒技な本ながら、テオフラストゥスとかディオスコリデス、ローマのウァロといったかなりマイナーなものや、中世関連でもファラービーの『科学の分類』、バルトロマエウスの『事物の属性について』、ヴァンサン・ド・ボーヴェの『大鏡』などが取り上げられていて、とても面白い作りになっている。意外にこういう分類の仕方を一挙に見せるという本はあまりなかった気がする。もちろん、その分類の力学や精神史といったものに踏み込んではいない(それは新書のレベルを超えるだろうし、同書のような軽妙な記述ではすまなくなるだろうから)けれど、それはこれからの問題設定だろう。うーん、近現代になってから分類が問題として取り上げられなくなったことも含めて、そのあたりを跡づけるというのは壮大な作業かもしれないが、分類の精神史ってやっぱり面白そうだなと改めて思う。

投稿者 Masaki : 23:18