クザーヌスによるアンセルムス

ミネソタ大学のジャスパー・ホプキンズというと、アンセルムスとニコウラス・クザーヌスの専門家ということで、その筋では有名なのだそうだ。サイトもあって、論文などをダウンロードできる。で、当然ながらというべきか、両者の関連についての論文もある。というわけで、その「ニコラウス・クザーヌスの、カンタベリーのアンセルムスとの知的関係」(Jasper Hopkins, ‘Nicholas of Cusa’s intellectual relationship to Anselm of Canterbury’, in “Cusanus – the legacy of learned ignorance”, ed. Peter J. Casarella, The Catholic University of America Press, 2006)(PDFはこちら)を読んでみる。なにやらいきなり冒頭の「煽り」が奮っている(笑)。クザーヌスを単純にカントの、またひいてはドイツ観念論の先駆的存在とみるカッシーラーその他の論調にクギを刺し、そういう誇張された解釈に走らず、より実直な影響関係を考えるほうがよいと強調する。クザーヌスの基本的教義(無限と有限の不均衡、学識ある無知、対立物の一致)の検討は、ライムンドゥス・ルルスやエックハルトあたりから始めるのがよい……みたいな。そういう中で、同論考では、意外にクザーヌスの中で言及も少なからずあるらしいカンタベリーのアンセルムスを取り上げている。

で、その中身だけれども、クザーヌスのアンセルムスへの言及は、アンセルムスの言そのままではなく、クザーヌス自身の議論の中に組み入れる形で拡張されているのだという。同論文はそのことを、教義別にまとめて示している。当然ながら扱われているのは神学的な議論だけれど、結果的にその言及箇所を追うことで両者の差異が際立ってくるという仕掛け。たとえば例の「アプリオリな神の存在証明」も、クザーヌスの手にかかると、「それ以上良いものがなにもありえないもの」とは「可能性そのもの」であり、それは「それ以上に大きいものがありないもの」すなわち神と同義であり、結果的に可能性そのものこそが神のことにほかならない、という話に「拡張」(というか変換)されているという。三位一体絡みでは、アンセルムスが神を「アナロギア的に」愛としているのに対して、クザーヌスは「メタフォリカルに」愛だとしているのだという。見かけとはだいぶ異なり、クザーヌスの基本的教義は、アンセルムスのスコラ学とはかくも大きく隔たっていて、クザーヌスはアンセルムスの議論を自家薬籠中のものと、独自の教義体系を作っているのだ、と……。論考の末尾では、クザーヌスでポイントとなるのは「信仰と矛盾しない分量の不可知論」の特定ではないかとして、そのラインからカントとの繋がりを見直す可能性を示唆している。うーむ、なにやら模範的というか、とても教育的な論文構成かも(笑)。

wikipedia(en)から、クエスの施療院にある絵画に描かれたクザーヌス