再びヘンリクス研。ヘントのヘンリクスは「実在的存在(esse existentiae)と「認識的存在(esse cognitum)」のほかに、「本質的存在(esse esentiae)」を区別しているというのだけれど、この表現のせいか、ここにあらぬ誤解があったのではないか、というリチャード・クロスの論文をざっと眺めてみた(プリント版をちゃんと読んだわけではなく、怪しげで読みにくいOCRのテキスト(?)を文字通り眺めただけ(苦笑)。これ、著作権的に難あり?)。モノは「ヘントのヘンリクスによる非在の可能態の現実性−再考」という結構新しい論文(Richard Cross, Henry of Ghent on the Reality of Non-Existing Possibles – Revisited, in Archiv für Geschichte der Philosophie, Vol. 92(2), 2010)。ここで誤解だとされているのは、ヘンリクスが本質的存在という概念でもって、知性的な理解の中だけに存在する事物と、外界に実際に存在する事物との中間にあたる、第三の存在(神の知性に存在し、実在にはいたっていないもの)を想定しているという解釈だ。たとえばジョン・F・ウィップルの81年の論文などは、ヘンリクスの第9自由討論の最初の2つの問いを用いて、この解釈を練り上げている。ヘンリクスは、神は事物の形相因でも作用因でもあるとして、前者が本質的存在、後者が実在的存在を導くとしている。被造物は神の知性において「対象として」思い描かれるので、いわば神とのある種の関係性をもっている。で、そこには可能性として思い描かれながらもいまだ実在として個別化してはいないものも含まれる。ここから、神の知性における事物のあり方を本質的存在と称するなら、そうした非在の可能態も、ある種の「外在する可能態」としての地位にあるという解釈が成り立つ。これはまさに非在物も含めた第三の存在様式ではないか、と。
マイケル・マックヴォー「中世の外科教育」(Michael Mc Vaugh, Surgical Education in the Middle Ages, DYNAMIS, Acta Hisp. Med. Sci. Hist. Illus. 2000, 20, 283-304)を読む。外科治療は中世においては相当に軽んじられていたとされるけれど、実はちょっと違うのではないか、医学と外科治療との溝は従来考えられているほど深くないのではないか、という論文。なかなか勉強になる。13世紀までは、外科治療は徒弟制度としてのみ伝えられていたというが(ボローニャのウゴ・ダ・ルッカのように一族の間で伝承されていた場合もある)、14世紀以降、それまでの徒弟制度のみならず、大学のカリキュラムの中でも教えられるようになったのだという(とくにイタリアで)。外科についても理論書の数々が書かれ(古くは12世紀のルッジェロ、13世紀初頭のロランドなど)、とくにガレノスやアヴィセンナがベースになっていて、大学の学科として教えるに相応しいと認識されるようになっていったらしい。医学と外科の区別も徐々に弱まっていったというわけだ。ただ、そうはいっても外科の学問的地位は低いとみなされ続けていたようで、さらにたとえばパリなどでは、13世紀後半から医学部が外科治療に制約を設けて医者による手術を禁じており、14世紀になってその姿勢はいっそう強固なものになり、外科医はまったく別個の職業となっていたという。パリの医学部が優れた外科医にスカラーとしての身分を与えるのは15世紀を待たなくてはならない……。
論文の冒頭と末尾には、14世紀の高名な外科医、ギ・ド・ショーリアックが取り上げられている。ギ自身はボローニャとモンペリエで学び、医学と外科の修士となっていて、主著の『目録または大外科治療』(Inventarium sive Chirurgia Magna)では、外科医も大学で学ぶのが理想だと述べているらしい。フランスにおいて大学で外科を学ぶ方途が閉ざされていた当時に同書は書かれているといい(1363年)、確かになにやらちぐはぐな感じがするのだけれど、論文著者によれば、南仏での教育や、アヴィニョンの教皇の侍医にまでなったそのキャリアそのものが、アカデミックな外科医という理想をあえて語らせ、やがてはその著書がパリの医学部にまで影響を及ぼすことにもなるのだ、と……。
プロクロスの『ティマイオス注解』をいったん脇において、このところ『パルメニデス注解』を眺めている。こちらは怪しい出版物ではなく(笑)、Oxford Classical Texts版(Procli in Platonis Parmenidem Commentaria”, ed. Carlos Steel, 2007-2009)。三巻本なのだけれど、『ティマイオス注解』同様、冒頭を見て、思うところあっていきなり第三巻へ(笑)。『パルメニデス』の個々の文章に対してコメントが記されていくわけなのだけれど、重複・反復が多くやや冗長な感じも。ま、もっともそれは『プラトン神学』を始め、プロクロスのテキストの特徴でもあるようなのだけれど……。「絶対的」な一者の超絶さと、そこから派生した純粋ではない一者性が織りなす下層の世界との対比が、これでもかといわんばかりに強烈に繰り返される。もちろん、たとえばここから、プロクロス独自の思想の断片を他の著作と比較しながら抽出するような読みを進めていけば、それはそれで面白い作業にはなるはずなのだけれど……一方でちょっとそれはキツそうだし、個人的にはさしあたり着手できそうにない(苦笑)。でもそんな中、『ティマイオス注解』についての、おそらくは類似した問題意識での読解が論文としてネットに出ていることを知った。で、今はこれを興味深く眺めているところ。結構長い論文なので、まだ冒頭の一章を見ただけだけれど、個人的には期待大だ。
マリエ・マルティン『プロクロスによる自然 — プロクロス『ティマイオス注解』における自然哲学およびその方法』というもの(Marije Martijn, Proclus on Nature – Philosophy of nature and its methods in Proclus’ Commentary on Plato’s Timaeus, Philosophia antiqua 121 (Leiden/Boston: Brill, 2010))。序に「プロクロスは悪文の書き手だが(中略)、そのざらついた不親切な文面は、内部からしか見えない多大な濃密さの一面にすぎないことがわかった」とある。こちらは内部に深く潜ったわけではないけれど、なにやら諸手を挙げて賛成したい気分になる(笑)。内容的には、これまでギリシアの科学思想のなれの果てとか、所詮は神学にすぎないとされてきたプロクロスの自然学を、生成の世界と知解対象領域の、つまりは現実世界と認識との「連続性」のもとに改めて再評価しようというものらしい。プロクロスにあっては下層世界も研究対象としての価値があり、上位の世界とパラレルなものとして想定されているということを、ティマイオス注解を通じて検証しようということのよう。まさに個人的にも憧れる感じの研究という印象で、この先の具体的な議論が楽しみ。