「conscience」と聞くと、仏語だと「意識」と「良心」の両方の意味が残っている一方で、英語ではもっぱら後者の意味になるわけだけど(意識のほうはconsciousとかconsciousnessが一般的か)、ラテン語のconscientiaは両方の意味を保っている。で、史的に見れば、どうやら哲学的な議論が意識の問題と倫理学の問題とに分かれていくのは中世を境にしてのことで、ちょうどラテン語のconscientiaが両義的であるように、「良心」という当時のスタンダードテーマはそれらの狭間に位置していたらしい。このことを取り上げているのが、ティモシー・C・ポッツ『中世哲学における良心』(Timothy C. Potts, Conscience in Medieval Philosophy, Cambridge University Press, 1980)という一冊(とはいえ、全体は未見なのだけれど)。ロンバルドゥスとヒエロニムス、尚書院長フィリップ、ボナヴェントゥラ、アクィナスなどの良心論を、論考と翻訳で紹介するというもの。そのうちロンバルドゥスとヒエロニムスを扱った最初の一章がPDFで公開されている。なにやらラフスケッチのような論考だけれども、ちょっと示唆的な部分もあるので、いちおうメモを(笑)。
先日、DVDで映画『アレクサンドリア』(原題はagora。アレハンドロ・アメナーバル監督作品、2009年)を観た。4世紀末ごろにアレクサンドリアで活躍した女性哲学者・数学者・天文学者ヒュパティアを主人公にした歴史もの。それほど長尺でもなく、割とストレートな展開で最後の虐殺エピソードにまでいたる。セット(一部はCGかしら?)がなかなか見事。図書館とか、実際にありそうな感じ。こういうのを観ると、どこまでが考証に基づいているのかやはり気になる(笑)。で、以前ヒュパティアを扱った論考がどこぞで紹介されていたことを思い出し、ちょっと目を通してみた。ブライアン・ホワイトフィールド「推論の美:アレクサンドリアのヒュパティア再考」というもの(Bryan J. Whitefield, The Beauty of Reasoning: A Reexamination of Hypatia of Alexandra, The Mathematic Educator Vol.6, 1, 1995)(PDFはこちら)。従来、ヒュパティアは強硬派の総主教キュリロスによって異教のために殉死し、かくしてアレクサンドリアの異教的な伝統は根絶やしにされたと言われてきたというのだけれど、この話は史実にそぐわないと著者は言い、史料をもとに、より正確なヒュパティア像を描き出そうとする。まず、そうした史実の歪曲がどう織りなされてきたかを取り上げている。歪曲はアテネのダマスキオス(異教側)によるキュリオス批判から始まっているといい、それは後に18世紀のエドワード・ギボンやジョン・トランド、19世紀のチャールズ・キングズレーの小説作品を経て、20世紀のカール・セーガンにまで受け継がれるという。
週末にちょっと用事で田舎に行っていた。で、今回の旅のお供にしたのが5世紀以後の逸名著者による『プラトン哲学序論』(Prolégomènes à la Philosophie de Platon, trad. J. Trouillard, Les Belles Lettres, 2003)。昔はオリュンピオドロスの著作ではないかといわれていたもののようだけれど、この希仏対訳版の序文では、アレクサンドリア学派でのプラトンについての講義録らしいとされ、著者はプロクロス以後の教師ではないかという。講義録だけあって、全体的に平坦な観じで書かれていて読みやすい(笑)。まだざっと本文の半分程度しか見ていないのだけれど、とりあえず中身はというと、まずは第一部。プラトンの神々しい生涯(というか学問の研鑽の遍歴)がまとめられ、次いでその教義の紹介を兼ねて、諸学派に対してプラトンが何ゆえに秀でているかを述べている。続いて第二部になると、「書」をめぐる話、対話についての説明を経て、対話の細かな諸特徴へと話が進んでいく。書くことが基本的には神の模倣だったという話がこのあたりの主軸。文字は魂の入っていない悪しき書だけれど、弟子は魂の入った優れた書だ、とするプラトンは、神の栄光に与るべく、あえて最小限の悪も辞さず、一部は書として伝え、それ以外は別の形、すなわち弟子の養育によって伝えたのだ、と。なぜ対話かという点も、同じように神の模倣とされる。異質な存在が共生する世界を写し取れるのが対話なのだ、というわけだ。しかも悲喜劇などの文芸作品とは違い、登場するキャラクターが善悪のように分かれて固定したりせず、各人が対話を通じて正しい思惟へと導かれるよう変化していくのだ、と。うーむ、そういえばプラトンの模倣論で、なにか重要な論考があったようにも思うのだけれど、なんだっけなあと思いつつ更けゆくおだやかな秋の夜……(>昨晩)。
教会がもたらしたであろう様々な制度化と思想史との関連は、見えそうでいて案外見えてこない検証領域な気がする。というわけで、婚礼の制度化に関する論文を眺めてみる。スーザン・バイヤーズ「聖化された性:教会規則の家族的支援は、いかに婚礼の儀式を宗教的儀式に変えたか」(Suzanne Byers, Sanctified Sex: How Familial Support of the Rule of the Church Turned the Marriage Ceremony into a Religious Rite, University of Colorado, 2008)というもの。婚礼の規制が教会権力の支配下に収まる過程をなしたのが12世紀から13世紀にかけて。宗教的シンボリズムを婚礼の儀式に注ぎ入れ、正式とされない婚礼を結んだ者を破門にするなどして、教会は伝統的な家族の慣習を宗教儀礼に変化させることに成功した、と。それは12世紀末、イノケンティウス三世がフィリップ二世オーギュストの離婚を認めなかったことに象徴される教会権力の増大にまでいたる。クレティアン・ド・トロワなどの文学作品に見られる理想の結婚像から、神学義論での性交渉や婚礼の扱い、説教史料の研究など数々の先行研究の議論など、取り上げている話題は多岐にわたっている。けれども、だからといって教会が婚礼をどう制度化していったかについては、やはりさほど見通しが立った感じにならないところが悩ましい(笑)。
これにも関連するが、もう一つ、ジョン・F・デデック「婚前交渉:ペトルス・ロンバルドゥスからサン=プルサンのデュランまで」(John F. Dedek, Premarital Sex: The Theological Argument from Peter Lombard to Durand, Theological Studies, vol.41, no.4, 1980)(PDFはこちら)という論文も見てみた。ちょっとキワもの的なタイトルだけれど、中身はなかなかしっかりしていて、1152年から1327年までの実に44人の神学者たちの「姦淫罪」をめぐる神学的議論(なぜそれが罪とされるかという問題)を簡潔にまとめあげた一種の労作(?)。それによると、トマス以前の論者たち(ペトルス・ロンバルドゥスやトゥルネーのシモン、パリのギヨーム、ヘイルズのアレクサンダー、クレモナのロラン、アルベルトゥス・マグヌスなどなど)はみな、若干の例外を除いて(オーセールのギヨーム、尚書院長フィリップ、サン=シェールのユーグ、ボナヴェントゥラなど)十戒の一つに姦淫の戒めを引き合いに出しているだけで、姦淫がその実定法のみならず自然法に抵触するという本格的な議論はしていないという。子どもの誕生と教育という観点で姦淫が自然法に抵触する(bonum prolisという議論)と本格的に論じるのは、トマス・アクィナスになってからで(実はその前に逸名著者がいるらしいけれど)、以後、その弟子筋や周辺の論者(ハニバルドゥスのハニバルド、タレンテーズのピエール、ストラスブールのユーグ・リプラン、ミドルトンのリチャード、ドゥンス・スコトゥス、ラ・パリュのピエール、ジョン・ベイコントロープ、シュテルガッセンのヨハネス、サン=プルサンのデュラン)は多少簡略化した形であれ、あるいはいくぶんの温度差はあれ、そのbonum prolisの議論を引き継いでいくという。うん、なかなか面白い配置。でもこれって、トマス中心史観?(笑)
スティーブン・L・ブロック「無神論は合理的でありうるか−−トマス・アクィナス読解」(Stephen L. Brock, Can Atheism be Rational? A Reading of Thomas Aquinas, Acta Philosophica, vol. 11 (2002))という論文。中世と無神論というのはなかなか結びつかない部分だけれど、著者は中世が現代人の無神論についてなにも教えをなすことがないというのは間違いだとし、この論考では『神学大全』『対異教徒大全』から関係するリファレンスを読み解いこうと試みる。その中には、たとえば人間の魂に内在する神認識の問題なども含まれていて、そのあたりがまとめとしてなかなか興味深い。トマスの場合には、神の存在は「おのずと」知られる真理なのだといい、その認識はごく自然に(本性的に)なされると考えられている。つまりそうした真理の認識能力が人間の魂に内在していて、それは聖霊によってもたらされる恩寵だとされる(これはフランシスコ会系の照明説その他の議論も基本的には同じだ)。その一方で、当然ながら人間が獲得する知識(認識)には論証のプロセスを経るものもあるわけだけれど、トマスの議論ではその両者は矛盾するのではなくむしろ相補的だとされる。誰にでも備わった認識能力と、論証的にそれを追認・確認する能力というわけだ。そうすると、誰もが神を認識できることになり、そこに無神論というか、否定的な見識が生じる可能性はなくなってしまう。けれども、ということは、物事にはかならず肯定的と否定的の二面性があるという原理に反してしまうのではないか、という疑問が出てくる(著者曰く)。