ブロックリー「6世紀の外交官としての医者たち」(R.C.Blockeley, Doctors as Diplomats in the Sixth Century AD, Florilegium, 1980)という小論を眺める。ローマ世界では総じてそれほど地位の高くなかった医者は、4世紀以降、外交特使として派遣される例がたびたび見られたという。帝国末期の宮廷付きの医者たちは「アルキアトリ・サクリ・パラーティ(archiatri sacri palatii)」と呼ばれ、行政官として高い地位を享受していた。たとえば神学者ナジアンゾスのグレゴリオスの弟、カエサリウスなどもそういう一人で、後に属州ビティニアの財務官になっている。6世紀ごろの東ローマ帝国では、ホスロー1世のササン朝ペルシアとの和平交渉などにおいて、そうした医者たちが特使として派遣されて大いに貢献したという(ステファノス、シリア出身のウラニウス、ザカリアスなど)。ホスローの宮廷ではギリシア・ローマの伝統的な技法、とりわけ医学が重宝がられ、やがてギリシアの文献がパーレヴィ語に訳されてたりして、後の一部のアラブ世界での翻訳の基礎となったともいう……。
個人的には、ちらっと出てくるナジアンゾスのカエサリウスが気にかかる。けれど、ざっと見にはネット上にあまり詳しい説明はないみたい。詳しいのはwikipedia (en)のエントリだったりするけれど、それによると、コンスタンティウス2世とユリアヌスの宮廷付きの医師を歴任したものの、ユリアヌスの異教の復興に際してその宮廷を去り、ウァレンス帝の時代にビティニアの財務官(quaestor)になっているわけか。で、ニカエアの大地震の後に兄グレゴリオスの勧めで洗礼を受けるも、地震後の疫病で命を落とし、兄が葬儀を行ったという。兄が記した弔辞がその生涯についての主要な典拠となり(弟をキリスト教的禁欲のモデルとして讃えているという)、これがもとで弟も後に列聖されるのだとか。