ルネサンス・近代の文化史家ピーター・バークの講演会を先日青学で聴いた。テーマはダイグロシア。といっても、ここで言うdiglossiaは、本来の同一言語の二つの変種(高位変種と低位変種)を社会的文脈で使い分けるという意味ではなく、社会的文脈に二つの別言語が宛がわれるという拡張された概念のほう。これを初期近代の言語状況に当てはめ、フランス語・イタリア語・スペイン語・ドイツ語などがいかにヨーロッパ各地の宮廷で公式なものとして使用されていたかを説いていくというのが趣旨だった。また、そういう状況となった説明として、政治的な要因だけに限らず、文化的要因も大きいという点が強調されていた。講演ということで時間的制約もあったわけで、全体は大まかな見取り図的な話だったと思うけれど、実際の言語使用状況というのはもっともっと複雑だったんじゃないかなあという気がしないでもない。たとえばエカチェリーナ二世はドイツ生まれながら、幼少時からフランス語を話していて、啓蒙思想にも通じていたとされ、ピョートルの宮廷でフランス語が使われる一因をなしたとされるけれど(質疑応答でも出ていたように思うけれど)、宮廷の日常生活レベルでの言語使用なども含めると、フランス語自体が本来の意味でのダイグロシア化していたりして、全体としてはトリグロシア(拡張した意味で)、あるいはもっと複合的にポリグロシア化していたりしないのかしら、なんてことを思ったりする。また、バークの話は初期近代以降に限った話だったけれど、本来的な意味のダイグロシアはかなり古くからある。というか、かなり普遍的な現象のような印象を受ける。では拡張した意味でのダイグロシアはどうなのか。そちらは具体的な征服とか文化浸透とか、パワーバランス的な要素がやはり大きいのではないかしら、と。
少し前に見かけた論文に、アングロ・ノルマン語を扱ったものがあった。リチャード・イングハム「中世イングランドにおけるフランス語のステータス:目的語代名詞の用法からの論証」(Richard Ingham, The status of French in medieval England: evidence from the use of object pronoun syntax, Vox Romanica vol.65, 2006)(PDFはこちら)というもの。アングロ・ノルマン語というと、ノルマン征服の時代にイングランドに伝わったオイル語(北フランス古語)の一方言が母体となった、いわばフランス古語の変種。12世紀からイングランドの貴族階級に使われるようになり(韻文の文芸作品などが残っている)、その後も15世紀くらいまで行政語、文書語として活用されていたという(まさにダイグロシアだ)。同論文は言語学系の細かい議論が中心だが、一言で言うと、アングロ・ノルマン語での目的語をなす代名詞の構文上の位置取りが、14世紀ごろまで大陸のフランス語での変化(不定詞句で動詞の前になる)に沿って変化していることを示している。この一見些細な論証は、実はもっと大きなパースペクティブを開くものなのだという。アングロ・ノルマン語が英語の影響を受けずに独立していることが示されるし、それが14世紀ごろまで、純粋な外国語として習得されていたのではない可能性も開かれる。これはつまり、代名詞の構文上の位置は外国語として習得した場合の弱点の一つとなるのに、そういう誤りが14世紀ごろまで見られないということ。使い手は大陸のネイティブに近い言語運用能力を持っていた、ということになる。1362年に裁判が正式に英語でなされることが決まったのが転機となってアングロ・ノルマン語は衰退し、15世紀になると、不完全な第二言語に見られるミスが散見されるようになるのだという。うーむ、ダイグロシアの微細な変遷が垣間見える一例として興味深い。