史的な「根っこ」?

歴史研究の一つの枝分かれとして、現状の諸条件の歴史的根っこを、統計などの方法を駆使して探るという研究が注目されているのだという。イタリアでは中世の自由都市だった地域は個人間のつながりが深いとか、元のハプスブルク帝国だった圏内では今でも贈収賄が少ないとか、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が歴史的に共存してきたインドの港湾部では、国内の騒乱においても比較的暴力の度合いが薄いなどなど、時はほんまかいなと思えるようなものもあったりするみたいだが、そうした動向に沿った研究を読んでみた。フォイクトレンダー&フォス「永続する迫害ーーナチスドイツの反ユダヤ主義的暴力における中世の起源」(Nico Voigtländer & Hans-Joachim Voth, Persecution Perpetuated: The Medieval Origins of Anti-Semitic Violence in Nazi Germany, The Quarterly Journal of Economics, 2012)。黒死病がヨーロッパに拡がった1348年から50年にかけて、井戸に毒を入れたとしてユダヤ人が虐殺されるといった事件が相次ぎ、教皇のほかモンペリエ大学やパリ大学の医学部が毒の疑念を晴らそうと声明を出したものの、虐殺は多くの都市で行われたという。そうした都市と、1920年代以降に反ユダヤ主義的暴力がとりわけ高まった場所、あるいはナチスの支持率が高まった場所とが、高い確率で一致しているということを統計学の手法で証明しようというのが同論考(ちなみに、上のいろいろな議論も同論考に動向として紹介されているもの)。

統計学の手法そのものの細かな検証は個人的にはできないので、そうした事実性も厳密には判断できないのだけれど、一応これを受け入れるなら、その説明として立てられている仮説などはとても興味深い。それによると、そうした過去との一致が見られる場所では人口の流動性が低く、また流動性が高い地域では反ユダヤ主義はそれほど強くなっていないとされ、流動性の低さが民族差別(反ユダヤ主義はより広い民族差別の一例と評される)を温存する一つの要因になっているのではないかという。また、同じようにハンザ同盟の加盟都市など、対外貿易が盛んだった場所でも反ユダヤ主義は総じて見られないともいう。「貿易が文明化を促す」としたモンテスキューの議論は部分的には正しいのかもしれない、と同論文は述べている。なるほど、このあたりはなかなか示唆的かも。

ニコラ・プッサン《アシドトのペスト》(1631、ルーヴル美術館所蔵)

中世の「甘美さ」とは……

名著『記憶術と書物』(別宮貞德ほか訳、工作舎)の著者メアリー・カラザースによる、「甘美さ」と題されたちょっと面白い論文(Mary Carruthers, Sweetness, Speculum, vol.81, 2006)を読む。中世の詩や散文でよく見かける「甘美な」(dulcis、suavis)という言葉が、実際にはどういう意味を含んでいたのかを、各種の文献から浮かび上がらせるという趣向。もちろん一義的には味覚を表す言葉なわけだけれども、比喩的に快をもたらす諸芸の効果などを表すのにも用いられる。その拡がりを検証しようというわけだ。まず重要なこととして指摘されているのが、それらの語が意味する美的判断は、必ずしも道徳的判断を伴ってはいないという点。中世にあっては、感覚的な受容は道徳的判断とは切り離されていて、さらにその感覚的受容には正・反の両方の判断が込められていることも稀ではないという。クレルヴォーのベルナールによる『雅歌』についての説教に、神の名を「油」に喩える一節があり、それが美味(suavis)であるという。著者によればその一説では、suavisには甘さだけでなく塩味をも含まれることが見て取れ、さらにはアリストテレス的な感覚論(味覚と臭覚を感じるには湿度がなくてはならない)も暗示される。さらには正反対のものを投与して治癒させる(乾きと苦みを油の湿度と美味で和らげる)という当時の医学思想をも読み取ることができる。また、アダムとエヴァの楽園追放の場面で誘惑者が甘美さを説くように、suavisには善ばかりか悪の意味合いや、説得という意味合いもある。

カラザースはこれらをもとに、「甘み」が関わる領域として「知識」「説得術」「医学」の三つを挙げ、それぞれの意味論的な関連を検討していく。個人的に興味深かったのは、最初の「知識」についての話で出てきた聖書の訳語の話題。ギリシア語やヘブライ語の聖書が「善良な」を意味する語を用いている場面で、ウルガタ聖書はそれを「甘い、甘美な」と訳し、意味を拡大してしまっているのだという。ギリシア語のχρηστόςにdulcisやsuavisの訳を宛てているのは、古い訳者たちのほかヒエロニムスもいるのだそうだが、ヒエロニムスはいったんそう訳す一方で、文献的考察を加えて「χρηστόςは良いという意味に取るのがよいだろう」とコメントしているという。さらにアウグスティヌスは、「suavitasは悪しきものにも使われる」と指摘し、より強い調子で同様の批判を行っているのだとか。実際、中世に伝えられていた『詩編』(33.9)には、「神は甘美なのだから、味わい、見よ」とするテキストと、「神は善良なのだから、味わい、見よ」とするテキストがあるという。また、これは「説得術」の関連で出てくるのだけれど、suavisとdulcisの修辞学的違いとして、dulcisは修辞的な「味わい」を指す(クィンテリアヌス)のに対して、suavisは凛とした説得力(修辞の目的たる)を指す(キケロ)のだという話も面白い。

中世の黒人観

ピーター・ビラー「中世科学の中の黒人:その意味とは何か」(Peter Biller, The Black in Medieval Science: What Significance?, Proceedings of the Fifth Annual Gilder Lehman Center International Conference at Yale University, 2003)(PDFはこちら)という論考を眺める。これは西欧中世人の黒人観を多面的に描き出そうという研究のいわば中間報告。中世の文献や絵画などにおいて、黒人への言及・黒人の表象などは数としてもそんなに多くはないようで、研究は大変なようだが、それでも同論文からはすでにしてこの研究分野の面白さが随所に感じられ、個人的にはちょっと評価が高い(笑)。西欧において黒人が劣勢と見られるようになるのはいつごろからなのかがまずもって気になるところ。一般通念的には古代からの奴隷制度と黒人との関係が思い浮かぶところだけれど、中世初期においてはそもそも黒人は数が少なく、基本的に古代からのヨーロッパの奴隷というのは敗戦国の住民たちが主だったといい(これについては別の論文が参考になる:Cory Mckay, The Disapperance of Ancient SlaveryPDFはこちら)、必ずしも黒人ではなく、奴隷としての黒人が本格化するのはやはり初期近代以後ということらしい。

とはいえ、黒人そのものがいなかったわけではなく、とくにイスラム文化とも接する南欧一帯にはそこそこ見られたらしい。中世盛期にギリシアやアラブの学問が流入するとともに、たとえば自然学関連の文献にも、「エチオピア人」として肌の黒い人種を指す記述が見られるようになる。また、医学生の学ぶテキストに肌の色についての記述や説明がなされていたりした。アヴィセンナの『医学典範』などがそうで、暑い気候のせいで身体の潤いを失われるといった説明がなされていた。肌の色が白と黒に大別されるということが、こうしてまずは少数の学生たち(医学部、自由学芸部)の意識に刻まれていく。学生たちは都市部に散り、さらに13世紀には托鉢修道会の説教を通じて、そうした「違い」の見識が拡がっていく。すると次第に、西欧人の身体のほうが格上だという話が加えられていくようにもなる。フランシスコ会のバルトロマエウス・アングリクスの『ものの属性について』や、ドミニコ会のヴァンサン・ド・ボーヴェ『大鏡』などがそうで、さらにはアルベルトゥス・マグヌスの『場所の本性について』、ヴィラノヴァのアルノー(アルナルドゥス)『医学の鏡』など、そうした肌の色を正面から扱う著書も出てくる。この後者などは、14世紀初頭のモンペリエの医学思想において、黒人のイメージが降格していることを示しているという。

面白いのは、それでもなお、たとえば黒人の乳母の乳のほうが白人のものより質的に優れているという話(アリストテレスの『動物誌』からのもの)が、ペトルス・ヒスパヌスやマイケル・スコット、アルベルトゥス・マグヌスを通じて紹介されていること。後者二人では独自見解も付加されていて、アルベルトゥスは、黒人女性の身体がより熱を帯びていることを説明として挙げているという。ただしこの話もすぐに降格に結びついてしまうようで、身体がより熱を帯びているという同じ理由は、黒人女性のほうが性的に活発だという話にも使われている。こちらの話はギリシアやアラブの自然学・医学の伝統にはなく、西欧中世の独自の考案らしいとされている。とはいえネタ元はももしかするとプトレマイオスの『テトラビブロス』かもしれないといい、それを参考にアルベルトゥス・マグヌスが地域ごとの性行為の違いとして、上記の著書に記した可能性があるという。

聖マウリティウスの像(3世紀のテーベの指導者)、マグデブルク大聖堂

存在神学の証明法の変遷(近世)

最近復刊したディーター・ヘンリッヒ『神の存在論的証明−−近世におけるその問題と歴史』(本間謙二ほか訳、法政大学出版局)を読んでいるところ。邦訳の初版は1986年、原著は1960年。とりあえずデカルトからヒュームにいたる存在論的証明の概要をまとめた「カント前史」にあたる第一部を眺めた。うーむ、これはある意味、神の存在証明において何が曖昧なままであったのか、何が不充足のまま残されていたのかについての変遷史、というふうに読むことができる。豊かな枝葉を切り落として、ここでは大きな見取り図だけメモとして取り出しておこう。まず中世においては、アンセルムスのアプリオリな証明(最大の存在である神には必然的に現実の存在がなくてはならないので、ゆえに神は存在する)と、トマスが行った根本原因の遡及による宇宙論的証明がとりわけ代表的とされるわけだけれど、このうちの前者をより精査する形でデカルトは、神の観念が最も完全なものであるというだけでなく(第一の論証)、現実存在がいかに最も完全なものに結びついているのかを論証しなければならないと考えたが(第二の論証:最も完全な存在者には必然的に現存在が含まれている)、それ自体を厳密に展開することはしなかった。これがその後に大きな影響をもたらす。ガッサンディは主として第一の論証のほうを誤謬推理として批判するのだけれど、その際に(デカルトと同様に)第二の論証の必要性を説き、つまりは概念から現実存在への移行が導かれない点を論難したりする。マルブランシュはデカルトを批判的に継承する形で主に第二の論証をいっそう定式化しようとし、神を純粋な現実存在として考えるのだけれど、これはどこか第一の論証へと戻っている感じでもある。スピノザもこの第二の論証から出発しつつ、やはり第一の論証のほうへ舞い戻るというか、完全性と事象性と存在はイコールであることを強調する。

その後に第二の局面が訪れる。マルブランシュやスピノザは第二の論証を重んじ、論証の出発点となる概念(完全性を構成する概念。たとえば「必然的存在者」など)を厳密に考え抜こうとしているが、これはイギリスの新プラトン主義者たち(トマス・モア、カドワース)による必然性概念などの批判的見直しに対応するためだった。そうした厳密化の姿勢をさらに強めるのがライプニッツで、現実存在が推論されるにはその存在者の可能性が証明されなくてはならないとし、ここへきて可能性の議論が前面に出される。その上で、可能にとどまるものよりも現実に存在するもののほうが高い完全性をもつとして、存在に向かう本質の衝動なるものを考える。「自己による存在者」が可能であるとされるなら、それは現実存在に不可避的に移行せざるをえないことになり、これで存在論的証明に反対するすべての人々を論難できることになる。なにしろ「可能性がないことを証明してみろ」と言い放つわけだから……。デカルトの議論の精緻化ここに窮まる、という感じでもあるのだけれど、一方でライプニッツは現実存在の最高の程度とはどんなことなのかを考察していないという。

ヴォルフになるとまた雲行きが変わる。ライプニッツのテーゼである可能性を前提とした上で、ヴォルフは、そこに現実存在が必然的に帰属することを論証すべく事象性という概念を提示する。こうしてどこか宇宙論的論証を持ち出したりして体系化するのだけれども、一方で概念的な厳密さは後退する。その弟子筋となるバウムガルテンは論証の統一性を体系化しようとし、あえて第一の論証を再検討する。その結果、第二の論証が依って立つ必然的なものという概念が、第一の論証をもってしか定義されえないことが明らかになる(!)。こんな感じであたかも円環が閉じるのかに見えるところに、いよいよカントが華々しく登場するというわけで、かくして舞台は一気に整う……のかな?続く第二部はカント。

「武人ミサ」の発祥?

久々に音楽史がらみの論文を眺める。「ナポリの武人ミサ、ブルゴーニュと金羊毛騎士団:ロム・アルメの伝統の起源」というもの(Brandylee Dawson-Marsh, The Naples L’homme armé masses, Burgundy and the Order of the Golden Fleece: The origins of the L’homme armé tradition, Rice University, 2004)。よく知られているように、ルネサンス期の声楽曲に「武人ミサ(masse l’homme armé)」というのがあり、デュファイやオケゲム、ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナなど様々な作曲家がその名の曲を残している。これはその「ロム・アルメ」という世俗のメロディーをミサ曲際の定旋律として用いるという一つの「お約束」(というか伝統)があったからで、1450年ごろから1500年くらいまで、そうしたミサ曲が盛んに作られていた。で、この論考は、表題にもなっているナポリの国立図書館所蔵の写本をもとに、そうした伝統の発祥について問い直そうというもの。

武人ミサの旋律がどのあたりから発祥したかという点については、これまでも様々な議論があった。1523年にはピエトロ・アーロン(音楽家)が、その旋律はアントワーヌ・ビュノワに帰属すると記しているというが、どうやらビュノワの旋律が最も古いというわけではないようで、「ロム・アルメ」の旋律を使ったミサ曲そのものでいえば、最も古いものの作曲家はデュファイ(あるいはヨハネス・レジス)だという。けれども、当然というべきか、おそらくそれ以前の最初期のものもあったろうと考えられているようだ。論文著者は、最初期の武人ミサは15世紀中頃、ブルゴーニュの宮廷に関係していたであろう同地域の作曲家(一人か複数かは不明)によるものだったとの説を支持している。

で、その説の論拠の一つとして、武人ミサの成立をブルゴーニュ宮廷と関連づけてみせるというのが、この論考の前半の主眼となる。ブルゴーニュには、フィリップ善良公(ブルゴーニュ公)がカスティリアのイザベル・ド・ポルチュガルとの婚礼に際して設立した金羊毛騎士団があり、またその宮廷は多彩な音楽家たちが出入りしていた。両者の交流もあったろう。そのことは、たとえばデュファイの手記などから窺い知ることができるらしい。一方で、騎士の馬上試合ほかの宮廷イベント(セレモニーなど)では音楽が必要とされ、それらを介して「ロム・アルメ」の世俗的旋律が宮廷社会の中に浸透していった可能性も高い。で、こうした複合的な連関から、「武人ミサ」の伝統が成立していったのではないか、という話になるわけだ。けれどもこのあたり、論文著者も述べるように、全体が状況証拠による推測(それなりに積み重ねられていはいるのだけれど)なのがとても口惜しい。論考の後半部分では、ナポリ写本にある、ナポリ王フェランテの娘ベアトリーチェ(ハンガリー王に嫁いだ)に宛てたエピグラムをもとに、誰が贈り手だったのかを推測したりしている。フェランテが金羊毛騎士団への加入を果たしていることや、考えられる写本の贈り手としてシャルル剛胆公(ブルゴーニュ公)の名前が挙げられることなど(これも仮説)、ここでもナポリとブルゴーニュの関連性が取り沙汰されている。さらに論考は、紋章の解釈、ナポリ写本の武人ミサにおける歌詞の分析(ブルゴーニュが準備していた十字軍への言及?)などが続く。うーん、どこからか一つぐらい確たる証拠が出てこないかしらねえ?

ナポリ王フェランテ(フェルディナンド1世)