ダニエル・アラスのラファエロ小論

ダニエル・アラスの著書から『ラファエロのヴィジョン』(Daniel Arasse, Les Visions de Raphaël, Liana Levi, 2003)を読んでいるところ。ラファエロの絵画から《アレクサンドリアの聖カタリナ》(1508年)、《聖チェチリア》(1513〜14年ごろ)、《エゼキエルの幻視》(1518年)、《キリストの変容》(1520年)を取り上げて、その作画に反映されている宗教思想的背景にアプローチするというのがその主旨。ちょっとこれ、ユベルマンのフラ・アンジェリコ論を彷彿とさせるかも。そちらは当然ながらドミニコ会、とりわけトマスの思想を絵画のディテールに読み込んでいくという話だったわけだけれど、アラスがラファエロの絵画に見出すのは、とくに新プラトン主義、あるいはフィチーノ(と後にはピコ)の思想の反照だ。たとえば《聖チェチリア》では、至福直観の新プラトン主義的な扱いというテーマと同時に、音楽をめぐる新プラトン主義的解釈が問題となっている。聖セシリアはちょうどラファエロの絵画が成立した少し前くらいから音楽の守護聖人として扱われるようになったといい、ラファエロは当時のそうした「新しい」連想をもとに、新プラトン主義的な音楽の三態(器楽の音楽、内的な音楽、宇宙的音楽)を描こうとしたのだろうという。足元に散らばった楽器たちは器楽的音楽(地上的なもの)の放棄を示し、セシリアが手にするオルガンは内的音楽(魂的なもの、あるいは理性)を表し、さらにそのはるか上方に窓が開いたように描かれる天界は、天使たちの声楽による宇宙的音楽(至福直観)を示している。

至福直観のテーマ、つまり地上界と天界との邂逅というテーマでたどるならば、《聖カタリナ》では天上界はそのものとしては描かれず、天上界のヴィジョンが内面化されている。《聖チェチリア》では明確な断絶をともなって両世界が描かれる。これが《エゼキエル》になると、天上界のヴィジョンは地上界にいわば「闖入」してくるかのようになり、それまで観想的で静謐だったそうしたヴィジョンは、ある種暴力的、動的になり、両世界の均衡という人文的・新プラトン主義的ヴィジョンではなくなる。作画の中でも天上界の比率は大きくなり、《変容》では両者の対比(超越的な天上界、喧騒的な地上界)が強く前面に出される。わずか10年ほどでのこの思想的変化(深化?)。その源をアラスは、宗教改革・反宗教改革に沸いた当時の宗教界の不穏な空気に求めている。そしてそれはフィチーノとピコとの静・動の対比ともパラレルなのではないか……と(ラファエロにとって両者はまさに同時代的な存在だったという……)。そうした解釈がほかの作品にも当てはまるのか、敷衍できるのかは不明だが、ちょうど上野でラファエロ展もやっていることだし、そのあたりをぜひ確かめに行こう(笑)。

ラファエロ《聖チェチリア》
ラファエロ《聖チェチリア》

神学から数学へ(14世紀)

ついこの間入手したばかりの本だけれど、ジョエル・ビアール&ジャン・スレレット編『神学から数学へーー14世紀の無限論』(De la théologie aux mathématiques – L’infini au XIVe siècle, dir. Joël Biard et Jean Celeyrette, Les Belles Lettres, 2005)は内容的になかなか豪勢な一冊。14世紀の論者たち(ドゥンス・スコトゥス、ヴォデハム、ブラッドワーディン、オートレクール、リミニのグレゴリウス、オレーム、ビュリダン、ジャン・ド・リパ)が無限について論じた文献の仏訳アンソロジー。それぞれの抄録には研究者による解説もついていて、全体の布置を見通す上でとても有益に思える。まだとりあえずジョエル・ビアールによる序文をざっと見ただけなのだけれど、これまた全体的な流れを整理した、とても参考になる考察。というわけでちょっとメモしておこう。

アリストテレスは、実体はすべて有限なものとしてあり、無限は可能性としてしか存在しないとしていたわけだけれど、この「否定的・欠如的」な無限概念は13世紀の神学者たちにも受け継がれていく。彼らはとくに1240年代から、至福直観(無限の存在を有限の知性が捉えることが前提とされる)の文脈で「無限」についての議論を盛んに行うようになる。否定的・欠如的な無限概念を肯定的な属性として捉えるようになるのは、ゲントのヘンリクスが嚆矢だといい、続くドゥンス・スコトゥスが精緻化し、かくして「現実態としての(in actu)無限」が神の属性として認められるようになる。量的な観点からではなく、有(存在者)の観点から見た様態としての無限。広大さの無限と権能としての無限。両者の関係性の議論は、たとえばはるか後のジョルダーノ・ブルーノあたりまで綿々と連なっていく。

前にちらっと触れたけれど、14世紀の議論では「無限」の意味を共義的に(syncategorematic)に取るか、自立的に(categorematic)に取るかという区別が立てられていた。この区別は実はプリスキアヌスの文法学にまで遡るのだそうだが、無限の概念にこれを当てはめた事例としてシャーウッドのウィリアム(13世紀)が挙げられている。「実体は無限である」という場合に、それをそのままの意味に取るなら自立的意味だし、それが述語との関係で意味が変わるとするなら(実体の数が無限・実体そのものが無限etc)共義的意味、というわけだが、この共義的意味での無限概念の解釈は、ソフィスマタの議論(ビュリダンなど)と絡んで論理学的な問題になり、こうして数学的アプローチを呼び込むことになる(リミニのグレゴリウスなど)。ここでの主戦場はオックスフォード。当時問題とされたうち代表的なものは、無限同士の比較は可能か、無限に何かを付加したらそれはより大きな無限になるのか、といったもの。無限を実体的に捉える立場からすると(ハークレイのヘンリーなど)、無限同士が不均等でありうるという議論が出てくる。これは「全体は部分よりも大きい」という、それまで自明視されていたテーゼが必ずしも真ではないという話を導く(ニコル・オレームなど)。さらに、世界は起点はあってもその先は無限であるという、とくに13世紀にフランシスコ会派が擁護し一般化した神学的テーゼも、連続体の構成の問題という形で再考される。前にチラ見したように、連続体が不可分の粒子のようなものから成るという論(ハークレイ、チャットンなど)と、それに対する反論(ヴォデハム、ブラッドワーディンなど)とが入り乱れ、さらに主戦場もパリへと拡大し、いよいよ乱戦模様がいっそう色濃くなっていく……のかな?うーむ、このあたりの錯綜具合いは少し丹念に追ってみたいところ。メルマガのほうでやることにしようかしら……。

中国から西方へ

空き時間読書で中野美代子『三蔵法師』(中公文庫、1999-2007)を読む。。もとは1986年刊。三蔵法師こと玄奘は、史実としては7世紀の人物だが、伝説化された人物像では、まさにフィクションの王道というべきか、実在する百年前あるいは百年後の時代に登場したりするのだそうだ(ちなみに『西遊記』そのものの成立は16世紀)。で、同書は伝説や物語に描かれた像ではなく、実像のほうを追った一冊。もちろん実像を追うといっても、その端々に伝説・伝承のたぐいが偉人のエピソードとして微妙に入り交じっているわけなのだが……。当然ながら、その西方への旅が丹念に再構成されているあたりはまさに読みどころ。北側のルートから今のアフガニスタン北部へ至り、そこから南下してインドに入り、インド全域をほぼ一周して再びほぼもとのルートで戻っているのだという。なかなか壮絶な行程であることが窺える。また、博覧強記の著者だけに、本筋に関連する様々な言及がまた楽しい。福建省の開元寺にあるというレリーフの玄奘像がインド人を思わせる顔つきで、それが工事に関わっていたインド人僧侶らの手になるのではないかという話とか、19世紀にヒトホーフェンにより命名された「シルクロード(Seidenstrassen)」が外来語嫌いの中国ですら定着している話とか、ウイグル文字が横書きのソグド文字を縦書きにして成立し、さらにはるか後にはそれがモンゴル文字、満州文字にまで連なっていくといった話とか、西方に紙が伝わるきっかけとなったタラスの戦いの話とか(玄奘もタラスを通っているのか……)、まだまだ盛りだくさんだ。また、帰国後を追った第四章も、玄奘を還俗させて外交顧問にしようとした当時の君主、太宗との確執などが描かれていて興味深い。太宗は国土の拡張政策を目していて、諸国の情報は喉から手がでるほど欲しかったのだろうなあ、と。

そのことにも多少関係するが、中国が同時代的にローマ帝国をどう見ていたかについて触れた論文を少し前に眺めた。クリスティナ・ホッパル「古代中国の史料によるローマ帝国」というもの(Krisztina Hoppal, The Roman Empire according to the Ancient Chinese Sources, Akademiai Kiado (Budapest), 2011)。玄奘は唐の時代だが、こちらはもっと前の時代。文献(『後漢書』、『魏略』、『晉書』、『魏書』、『宋書』)をもとに、ローマ帝国を指すとされるDaqin(大秦)に関し、その情報の精度について検証を試みている。2世紀から4世紀ごろの話になるので、当然いろいろな問題があるようで、まずもって大秦がローマ帝国そのものを指すのか、それともアンティオキア(シリア)あたりの東部のみを指しているのかが判然としないらしい(著者はどちらかというとこの後者の説を支持している)。文献によっても、また文脈によっても指しているものが違う場合もあるらしい。さらにその統治形態や住民、文化などについての情報も、中国に達した旅行者・商人などからの伝聞にもとづくものがほとんどで、情報取得のディテールや内容において正確さに乏しい。その割に大秦についての情報はなかなか複雑に記されているといい(想像的解釈?)、文化レベルが同等であるといったことが強調されているのだという。このあたり、史料そのものの説話的な意図なども勘案されなければならないように思うのだけれど、そういった点はあまり触れられていないようで、さらなる研究・検証が待たれるところか。

復習:ルネサンス期のアリストテレス主義

ちょっと古い論文(73年)だけれど、ルネサンス期のアリストテレス主義の全体的な流れを俯瞰しつつ、これから先どういう研究が必要かということを説いたマニフェストのような一本にざっと目を通してみた。シャールズ・シュミット「ルネサンス期アリストテレス主義の再評価に向けて」(Charles B. Schmitt, Towards a Reassessment of Renaissance Aristotelianism, History of Science, vol.11, 1973)。扱うのは1350年から1650年ごろまでの西欧のアリストテレス主義の流れ。これを見ると当時は、コペルニクスやガリレオの登場とともにアリストテレス主義は終わる、というような教科書的な記述に始終するのが多く、アリストテレス思想そのものはそれほど重視されていなかったらしいことがわかる。けれども実際のところその思想圏は実に多様だった、と著者はまず指摘する。たとえば同じ「パドヴァ学派」のように括られることもある15世紀初頭のヴェネチアのパウロ(パウルス・ヴェネトゥス)と16世紀半ばのヤコポ・ザバレッラとでは思想内容はまるで違う。また時代的にも、16世紀にいったん隆盛するアリストテレス主義は、後半に再びプラトン主義に押され、17世紀末になってようやくデカルト主義に席巻される。そんなわけでアリストテレス主義は簡単には消えていかないし、とはいえ常に堅牢であるわけでもない。

また、ガリレオ、ベーコン、デカルトなどの傑出した思想の先駆として、14世紀ごろの中世末期・初期近代の重要性を強調してもいる(もちろん、ただその関連づけを示すだけでは後世からのバイアスで歴史を見ることにもなる、との注意も喚起しているが)。14世紀は13世紀のアリストテレス主義の退廃期ではないし、そもそもルネサンス期のアリストテレス主義は端からニグレクトされてきた、と。そうした認識を改める時期に来ている、と著者は説く。アリストテレス主義は、文献に即した保守主義的な面と、新たな要素をたくみに取り込んでいく柔軟性とを併せ持っており、15世紀からの人文学による文献学的なアプローチやギリシア語原典の重視がその両面を物語っているという。中世の翻訳をベースにする議論が続いていた一方で、たとえばザバレッラなどに代表されるように、方法論的な議論や、あるいはシンプリキオス、フィロポノスなどの注解の取り込みなども行われるようになる。16世紀には、それまでちゃんと知られていなかった『詩学』や『修辞学』が、重視されるようになったりもする。柔軟性という点ではさらに、実験の多用や数学の自然学への応用など、アリストテレスへの批判を導くことにもなる新しい潮流すら取り込んでいく。一方で従来からのアリストテレス思想の用語や考え方は、反アリストテレスの立場を取る人々のうちにあっても、無意識的に受容されていたともいわれる。著者によれば、この保守主義と柔軟性の両面こそが、アリストテレス主義がかくも長く命脈を保った大きな要因ではないかという。著者は論考の中で、アリストテレス主義再評価の課題をいくつか示唆しているけれど、40年を経た今、そうした方向の研究は確かに進んできているだろうし、このあたりでもう一度俯瞰的な再点検を、著者のシュミット(1986年没)を継ぐ誰かにやっていただきたいと願う次第だ。

ザバレッラの肖像
ザバレッラの肖像

科学革命と中国

ネット中継された先日のアントニオ・ネグリ来日講演会で、パネラーの一人として発言した上野千鶴子氏は、チェルノブイリの事故当時「ソ連ならありうる」みたいなことを考えたと述べ、それを「テクノ・オリエンタリズム」だと喝破してみせた。なるほど、そういう視線は今私たちも、多かれ少なかれ内面的に取り込んでしまっていて、某近隣の国をはじめ、アジアのほかの各国を見る際のバイアスにもなっている。そのあたりのことはきちんと見据えないといけないと思うのだけれど、そうした中、テクノ・オリエンタリズムに関するちょっと個人的にも興味深い論考を眺めてみた。ネイサン・シヴィン「なぜ中国では科学革命は起こらなかったのか−−本当に起こらなかった?」(Nathan Sivin, Why the Scientific Revolution Did Not Take Place in China – or Didn’t It?, East Asian Science, Technology, and Medicine, 1982)(2005年の改訂版のPDFがこちらに)という論考がそれ。

これは「なぜ近代科学は西欧でしか興らなかったのか」というよくある設問を、著者曰く「裏返す」ことで、「ヨーロッパ科学の伝統についてのどのような想定が、この設問を必要以上に過大に重視するよう仕向けているのか」を考えるという、なかなかに刺激的な一本だ。著者は様々な、そして時に無根拠な「想定」がそこに潜んでいると考えている。たとえば、科学革命というものは本来的に誰もが手にしてしかるべきもの、誰もが手にしたいと願うものだったという想定が挙げられる。近代科学がその後に世界を席巻したことからもそれは証されるというわけなのだが、著者はこれに対して、他の社会が変化の中での生き残るために近代科学が重要となったからこそ、それぞれの社会がそのような科学を切望するようになったのであって、その逆ではないと述べる。逆にその想定のせいで、西欧がなぜ近代科学を必要としたのかという問題が隠れてしまうことにもなる、と。西欧は基本的に、自然の技術的搾取、技術的防衛が未熟な社会の政治的搾取において一種のヘッドスタート(他よりも有利なスタート)を切ったがゆえに、特権的な立場をだけなのにもかかわらず、その立場を支える近代技術の急速な普及をもって、それを普遍的なものと見なそうとする。そうした普遍観を著者は「希望的観測」、主観的な見方にすぎないと一蹴する。著者によると、それらの想定は推論上の誤謬によって下支えされている。主な誤謬として、所与の環境が整ってこそ科学革命の条件が整うというものや、他の社会には文化的な疎外要因があるというものを挙げ、その上で、それらを西欧の科学革命前史すら顧みない推論的誤りだと断罪している。つまり、西欧の科学史、技術史を振り返ってみるだけでも、歴史的事実にはそれらへの反証がことごとく見いだせるというわけだ。確かに、前者は原因・必然的条件と単なる前状態の記述との取り違えだし、後者はそれに続く状態の記述を疎外要因と混同している。これらの誤謬が相まって、西欧のブレークスルーが歴史の必然のように祭り上げられるようになった……。

もちろん中国にも豊かな科学技術の伝統があった……というわけで、著者が論文の序章にあたる部分で挙げているのは、北宋時代の沈括(Shen Kua:しん・かつ:11世紀)という博学で識られる人物。天文学、暦学から医学にいたる諸学に通じていたとされる。たとえばその卜占観などはきわめて合理的なものだったという。西欧的な一般通念(上の誤謬に染まった)では、中国では学問としての哲学がなく「中国の科学は体系化がなされなかった」と括られてしまいがちだというが、著者は当然体系化はあったろうといい、ただそれは学者の間でのみ伝えられていたのだろうとしている。なるほど。それにしてもこの沈括も面白そうだ。主著の『夢渓筆談』は東洋文庫で出ているそうなので、そのうちぜひ見てみよう。

wikipediaから、逸名画家による沈括の肖像(18世紀)
wikipediaから、逸名画家による沈括の肖像(18世紀)