「神は存在ではない」- エックハルト

これまたエックハルト研究だが、山崎達也『哲学と神学のハルモニア』(知泉書館、2013)を眺めているところ。まだ前半のみだけれど、個人的にはいろいろ興味深い指摘があって思わず食らいついてしまいそうかも(笑)。こちらはエックハルトのドイツ語説教ではなくラテン語著作をもとに、その思想的立場(主に知性論)を描き出そうというもの。トマスとの対比という観点ではなく、むしろフライベルクのディートリヒを間に挟むことによって、アルベルトゥス・マグヌスからトマス、そしてディートリヒ、エックハルトへと続く流れの中で、何がどう対置されていくのかが見取り図的にわかりやくすなるという寸法のようだ。なるほど。トマスは知性認識の原因を対象の側(可能知性の形相としての可知的スペキエス)に見出そうとするのに対し、ディートリヒは対象を構成することがすなわち認識だとして、知性の側に原因を求める。この差異は神を認識する場合についても当てはめられているようで、トマスは神からの「光」が見る者の知性に注ぎ込まれる必要を説くのに対して、ディートリヒにおいては、そうした認識の源泉は可能知性の内奥(可能知性の形相としての能動知性)にあるとされる。可能知性はかくして能動知性と、ひいては神と一体になる、という次第だ。で、エックハルトはというと、これをもう一度反転させるかのように再び対象の側に認識の原因を見る。けれどもトマスとは違い、エックハルトは対象とスペキエスの関係を、神的な父と子の関係からのアナロギアとして考えるのだという(スペキエスは可能知性の形相ではないとされる)。魂の中に神の子が誕生する、というのだ(!)。

さらに、神においては存在と知性認識は同一だとするトマスの議論では、存在が知性を包摂する関係になっているのに対して、エックハルトにおいては知性こそが存在を包摂する関係になっているのだという。存在には被造物の本質的規定がもとから宿っているのに対して、知性は「造られたものではない」。したがって被造物の本質的規定を神はもたないがゆえに、「神は存在ではない」とエックハルトは言い放つ(!)。なんだか放縦な言いざまのようにも見えるが、もちろんこれはそうした論拠があってのこと。とはいえ、一方でエックハルトには「存在は神である」という命題もあるという。その場合の「存在」は、被造物の本質的規定としての存在ではなく、神の本質そのもの、つまり知性認識により存在を基礎づける存在なのだという。著者はこれが「すべての事物の存在の原因としての「存在の純粋性」」を言うのだとし、両者が矛盾ではないかとする従来の研究を一蹴している。

否定神学と合理性

ラルフ・ノーマン「アベラールの遺産:なぜ神学は、理解を求める信仰ではないのか」(Ralph Norman, Abelard’s Legacy: Why Theology is not Faith Seeking Understanding, Australian eJournal of Theology, 10, 2007)という論考を眺めてみた。ちょっと意外なのだけれど、「神学(テオロギア)」という言葉は、たとえばアンセルムス(11世紀)などにおいては一度も正面切って使われていないのだという。西欧においてその言葉が用いられるのは、事実上12世紀のフランスで活躍したアベラールからだったというが、とはいえその用語は、一般に言われるような「信仰を通じて理解を求める上での学知」というような意味合いではまったくなかったという。うーん、アベラールから?そうだったっけ(もちろん、アリストテレスが『形而上学』においてテオロギケーを用いているとかは、さしあたり脇に置いておく)。とりあえず著者の議論を追っておくと、アベラールはそれを神の本性をめぐる論考のタイトルに用い、さらにキリスト教教義の様々な面に関する問題(議論)の意味でも用いているという。要するにそれは教義の正当性を示すために用いられる理性的議論のことで、アベラールの『然りと否』が示すように、それまで問われることのなかった、教父の権威にもとづくキリスト教世界の世界観への批判的攻撃を意味していた。で、論文著者は、この権威への疑念こそがスコラ学の方法論の鍵であり、しかもそれは一二世紀の否定神学を強化することにもなった、と見ている。

クレルヴォーのベルナールなどはアベラールを合理主義者として批判しているわけだけれど、当のアベラールは、ディオニュシオスの否定神学の影響を受けて、神の神秘性について鋭い感性を保っていたらしい。その上で、神学というものは、有限の人間理性が神をめぐる教義の議論に貢献しようとする試み以上のものではないと考えていたという。信仰とは突き詰めれば不確かな「推定」にほかならず、あいまいかつ矛盾する信仰の表出の数々に対して、どの立場が最も真実でありえそうかを評価するのが神学の役割なのだ……と。そうした考え方は見るからに否定神学とフィットし、かくして様々な伝統的教えは互いに相対化されることになる。大学などでの神学の拡がりを煽ったのはまさにそうした方法とスタンスがあればこそだった……。論文著者の括りでは、後のトマス・アクィナスもまたそうした流れの申し子とされる。アベラールの合理的懐疑の精神を受け継ぐ形で、またその否定神学的なスタンスも踏襲する形で、論理的整合性を神学の分野にまで広げていたのだ、と。

『薔薇物語』から、アベラールとエロイーズを描いた挿絵
『薔薇物語』から、アベラールとエロイーズを描いた挿絵

エックハルトの「行動主義」

結構久々だが、エックハルトについての研究を読んでいるところ。まずはサミュエル・ボーディネット「エックハルトの精神の清貧論」(Samuel Baudinette, Meister Eckhart on Poverty of Spirit, 2013)。エックハルトがドイツ語の説教で用いる「清貧」についての考察なのだけれど、そこでの「清貧」とは神を直接識ることを意味し、トマス・アクィナスなどが霊的完徳に向けた第一歩として世俗的な所有の放棄を強調するのとは対照的に、「何も欲しがらない、何も知らない、何ももたない」ことを柱とした、まさしく無私の思想だということを説いている。エックハルトはそれを「内的な清貧」として取り上げているという。意志さえをも捨てるかのような清貧。一見これは一種の静寂主義に見えるのだが、エックハルトはなにも観想的生活のために諸々の営みを放棄せよと言っているのではないという。人はその内的な清貧を行動へと移しかえ、また活動を内的な清貧へと移しかえなくてはならないと説いているのだという。そこにこそ、内的な清貧状態の自由があるのだという。静寂主義が反転するかのような行動主義というのが、エックハルトの思想的特異点だというわけだ。

トマスとの比較・対照でエックハルトを見るというスタンスは、これまた読みかけの松田美佳『マイスター・エックハルトの生の教説』(行路社、2010)でも共有されているスタンスだ。そちらでも倫理の問題を扱った箇所で、静寂主義に見えるエックハルトの倫理に、実は具体的な行動の必要性が付随していることが示されている。そこから聖書のマルタとマリアの逸話についての話(これについてはかなり前のアーティクルで触れているが)についての解釈も出てくる。エックハルトは通例的な解釈とは逆に、立ち振る舞うマルタを高く評価する。トマスは活動的生(マルタ)よりも観想的生(マリア)を上位に置くというが、それでもなお必要時には活動的生が優先され、場合によっては観想的生を一時離れるほうが功績になる場合もあると留保を付けているという。エックハルトの議論がトマスと切り結ぶ関係というのは、このようになかなか微妙で味わいがある(気がする)。

復習:スコトゥスとオッカム

「唯名論者オッカムはスコトゥスの実在論を批判した」という通念的な理解は、実際に少しでも両者のもとのテキストに触れてみるとひどく単純化したものであることがわかる。どちらも微妙な違和感が伴うからだ。そうした違和感を少しでも整理しようという論考が、JT・パーシュ『普遍と個体化をめぐるスコトゥスとオッカム』(JT Paasch, Scotus and Ockham on Universals and Individuation, Academia.edu)。普遍をめぐる理論には(1)極論的実在論(プラトン的に外部世界に普遍が存在するという立場)、(2)内在論的実在論(個の中に要素として普遍が存在するという立場)、(3)トロープ理論(同類の特性が個のそれぞれに存在するだけだという立場)、(4)唯名論(普遍は一般概念にすぎないと見なす立場)に分かれると論文著者は言う。これをもとにスコトゥスとオッカムがどこに位置するのかを探ろうとするのだけれど、それぞれに曖昧さ・混乱があってこれはなかなか容易にはいかない。

スコトゥスは(2)の立場に立つ形で、個が「共通本性」と「このもの性」から成ると考える、とされる。しかしながら、まずもって共通本性の考え方が曖昧で、共通本性が個に宿る際にそれが個別化されるのかどうかが微妙にわからない。もしそうだとするとそれはトロープ論になってしまうが、スコトゥスはそれは打ち消しているようだ。一方では本性は普遍ではないという言い方もしているらしく、結局本性は個別でも普遍でもない、ということに(?)。それではスコトゥスは(2)でも(3)でもないことになってしまう(もとより(1)ではない)。またこのもの性についても曖昧さが残り、それが本性とどう関係を結ぶのかがはっきりとはわからない。本性とこのもの性は「形相的に区別される」というのだけれど(ここに三位一体論が絡んでくる)、このあたりはオッカムの批判を呼ぶことにもなる……。

オッカムはバリバリの唯名論と思われがちだが、論文著者はむしろ(3)寄りではないかと考えている。オッカムが批判するのは(2)の立場で、その反論はどれも厳密にはいささか弱いようだ。スコトゥスの形相的区分に対するオッカムの批判も、著者によると論理学的な考察としてベストなものではない。オッカムが(3)のトロープ理論的だというのは、個が同じ種に属するとされるのはいかにしてかという問題に腐心しているからで、普遍を純粋に概念と見なすというドライな立場を取ってはいない。とはいえその説明づけの義論はやはり曖昧なままだというのだが……。こうして見ると、それぞれの論者の議論を丹念に追うのはなかなか難しいことと、けれどもそうした作業が必須であることが改めて鮮明になってくる。普遍論争の周辺はテーマとしてなかなかに手強い。そういえば唯名論の嚆矢とされるアベラールにしてからが、あの『ロギカ・イングレディエンティブス』を別にすれば、なにやら読みようによっては実在論っぽい言及箇所も散見されていたように思うし……(?)。