ラルフ・ノーマン「アベラールの遺産:なぜ神学は、理解を求める信仰ではないのか」(Ralph Norman, Abelard’s Legacy: Why Theology is not Faith Seeking Understanding, Australian eJournal of Theology, 10, 2007)という論考を眺めてみた。ちょっと意外なのだけれど、「神学(テオロギア)」という言葉は、たとえばアンセルムス(11世紀)などにおいては一度も正面切って使われていないのだという。西欧においてその言葉が用いられるのは、事実上12世紀のフランスで活躍したアベラールからだったというが、とはいえその用語は、一般に言われるような「信仰を通じて理解を求める上での学知」というような意味合いではまったくなかったという。うーん、アベラールから?そうだったっけ(もちろん、アリストテレスが『形而上学』においてテオロギケーを用いているとかは、さしあたり脇に置いておく)。とりあえず著者の議論を追っておくと、アベラールはそれを神の本性をめぐる論考のタイトルに用い、さらにキリスト教教義の様々な面に関する問題(議論)の意味でも用いているという。要するにそれは教義の正当性を示すために用いられる理性的議論のことで、アベラールの『然りと否』が示すように、それまで問われることのなかった、教父の権威にもとづくキリスト教世界の世界観への批判的攻撃を意味していた。で、論文著者は、この権威への疑念こそがスコラ学の方法論の鍵であり、しかもそれは一二世紀の否定神学を強化することにもなった、と見ている。
結構久々だが、エックハルトについての研究を読んでいるところ。まずはサミュエル・ボーディネット「エックハルトの精神の清貧論」(Samuel Baudinette, Meister Eckhart on Poverty of Spirit, 2013)。エックハルトがドイツ語の説教で用いる「清貧」についての考察なのだけれど、そこでの「清貧」とは神を直接識ることを意味し、トマス・アクィナスなどが霊的完徳に向けた第一歩として世俗的な所有の放棄を強調するのとは対照的に、「何も欲しがらない、何も知らない、何ももたない」ことを柱とした、まさしく無私の思想だということを説いている。エックハルトはそれを「内的な清貧」として取り上げているという。意志さえをも捨てるかのような清貧。一見これは一種の静寂主義に見えるのだが、エックハルトはなにも観想的生活のために諸々の営みを放棄せよと言っているのではないという。人はその内的な清貧を行動へと移しかえ、また活動を内的な清貧へと移しかえなくてはならないと説いているのだという。そこにこそ、内的な清貧状態の自由があるのだという。静寂主義が反転するかのような行動主義というのが、エックハルトの思想的特異点だというわけだ。
「唯名論者オッカムはスコトゥスの実在論を批判した」という通念的な理解は、実際に少しでも両者のもとのテキストに触れてみるとひどく単純化したものであることがわかる。どちらも微妙な違和感が伴うからだ。そうした違和感を少しでも整理しようという論考が、JT・パーシュ『普遍と個体化をめぐるスコトゥスとオッカム』(JT Paasch, Scotus and Ockham on Universals and Individuation, Academia.edu)。普遍をめぐる理論には(1)極論的実在論(プラトン的に外部世界に普遍が存在するという立場)、(2)内在論的実在論(個の中に要素として普遍が存在するという立場)、(3)トロープ理論(同類の特性が個のそれぞれに存在するだけだという立場)、(4)唯名論(普遍は一般概念にすぎないと見なす立場)に分かれると論文著者は言う。これをもとにスコトゥスとオッカムがどこに位置するのかを探ろうとするのだけれど、それぞれに曖昧さ・混乱があってこれはなかなか容易にはいかない。