東西交流とモンゴル帝国

ポール・D・ブエル「ペルシアその他西欧の医学的知識はいかに東へ、また中国の医学的知識はいかに西へ移動したか−−ラシッド・アルディーンその他の役割についての概観」(Paul D. Buell, How did Persian and Other Western Medical Knowledge Move East, and Chinese West? A Look at the Role of Rashīd al-Dīn and Others, Asian Medicine, vol.3, 2007)(PDFはこちら)。モンゴルを中心とした14世紀の知の移動についての論考。グローバルな視点で描きだそうとする記述のどこかしら壮大な感じがなんとも圧巻。寡聞にして知らなかったのだけれど、13世紀末から14世紀初頭にかけて、東方の知を西側に伝えた仲介役として、ペルシアの医師だったラシッド・アルディーン・ハマダニ(1247〜1317)という人物がいたのだそうだ。でもこの論考は、そのラシッド・アルディーンについてというよりも、逆に西洋の知は東にどう伝わっていったのかという、いまだあまり潤沢に検証されているとは言いがたいらしい問題にスポットを当てて、モンゴルが果たした役割について概要を示してみせるという主旨の一本。モンゴル帝国は多文化・多言語に開かれていて、イランやアラブ世界の様々な知や文化的事象(軍事・行政から技術、医学などの諸学、料理にいたるまで)を東の中国へと橋渡しすることになったといい(とくに1260〜94のフビライ・ハーンの時代)、宗教も景教ことネストリウス教、中国古来の信仰、さらには王朝の宗教となるチベット仏教などが尊重された。

医学に関して、モンゴル帝国で主流だったのは伝統的な中国系以外の医学(チベット系、そしてなによりもアラブ・イスラム系の医学)だったという。すでにイスラム世界の医学は唐の時代から入っていて、中国系の医学と一体化していたといい、また制度化も進んでいたようで、元の時代にはウイグル系の医師のほか、ペルシアやシリア系の医師なども少数派ながら帝国内で活動していたとされている。論考は「ムスリム医学処方」を意味する『回回藥方』(Huibui yaofang)という書を紹介している。断片的に残るその写本は、ガレノス(者里奴西)やイブン・シーナーの『医学典範』からの引用や言い換えが盛り込まれているのだそうだ。中国においてそうした文献は大変珍しいものなのだとか。もとになっている文献的ソースはペルシアのものが主だろうという(当時はペルシア語が一種の公用語になっていた)。いずれにしても、そうした書の成立についてはさらに多大な検証が必要だとされている。上のラシッド・アルディーンやその周囲の活動が、中国におけるイスラム系医療の制度化に貢献した可能性もあるかもしれないといい、またその『回回藥方』に準じたというか、パラレルな関係にある標準テキストは中東でも西洋にも見られるといい(どれも扱う素材や分野が類似しているらしい)、同時代のグローバルな文化の伝播・交流という壮大な研究領域が開かれていることを末尾で窺わせてもいる。うーむ、このあたりはまったく知らない分野でもあり、おぼろげながら二重・三重の意味で広大な大陸が眼前に拡がっていく思いだ(笑)。

ネパールの14世紀の画家アラニコ(アニジェ)によるフビライ・ハーンの肖像画。台北の国立故宮博物院所蔵
ネパールの13世紀の画家アニコ(またはアニジェ)によるフビライ・ハーンの肖像画。台北の国立故宮博物院所蔵