占星術や魔術に関わった中世の思想家たちは、多かれ少なかれ教会による異端の嫌疑をかけられてきたとされる。極端なケースでは火刑になったりもするが、わずかな処罰で難を逃れる場合もあったりもする。そうした違いはどういったあたりから生じているのだろうか、というのは常々気になってきた問題だ。とはいえ予想としては、個別事例が多岐にわたり、一般化するようなことは難しそうな感触もあった。実際のところはどうなのか……。で、まさしくそうした問題に取り組んだ論考が、先日紹介されていた。ジェームズ・ハンナム「チェッコ・ダスコリと中世自然学者たちの教会による懲罰」(James Hannam, Cecco D’Ascoli and Church Discipline of Natural Philosophers in the Middle Ages, University of London: Master of the Arts in Historical Research at Birkbeck College, 2003)という論文がそれ。チェッコ・ダスコリ(1269 – 1327)は占星術師として名を馳せた人物。異端の嫌疑で火刑に処せられている。この極端なケースを中心として、同論考は異端の糾弾における温度差はどのあたりから生じているのかを考察していく。前半は個人的にちょっとまどろっこしい(でも、よくまとまっている感じではある)。中世の大学の成立から、自然学と教会の関係性(今や教会が自然学の探求を抑制していたという単純な構図は失効している、といった話)、パリなどの禁令、自然学の発展の略史の話などが長々と続く。そしてようやく、異端的な見識についての取締まりの話になっていく。
2002年1月-3月の『レ・ゼチュード・フィロゾフィック』(特集「17世紀のドゥンス・スコトゥス−−1. 対象とその形而上学」)(Les Etudes philosophiques (Janvier-Mars 2002), tome I : Duns Scot au XVIIe siècle, PUF)をざっと読む。17世紀のスコトゥス主義について取り上げた論集の第一部。ここでいうスコトゥス主義というのは、スコトゥス思想の直接的な継承というよりも、いわばその後の様々なフィルターを経た上で形成された一つの勢力圏ということ。掲載順番とは違うけれど、まずはジャコブ・シュムッツ「精妙派の遺産−−古典期スコトゥス主義の地図作成」(Jacob Schmutz, L’héritage des Subtils, Cartographie du scotisme de l’âge classique)が、17世紀当時のスコトゥス主義の隆盛とその全体的布置のイメージを与えてくれる。スコトゥス主義が生き延びたのは、一つには15世紀に教会の正式な機関において尊厳を得たことや、フランシスコ会派の教育の制度化がさらに進んだことなどが関係しているという。さらには印刷術の恩恵もあって、スコトゥス主義は17世紀にいたるまで、トマス主義や唯名論などの勢力圏と競合しながら(ときには他の思想圏と混合されたりもして)一つの影響圏を形作っていたのだ、と。17世紀当時もまた数多くの論争があって、そうした論争の先鋒となっていた人物にバルトロメオ・マストリがいた。で、この人物は同誌の掲載論文の半ば主役的存在になっていて、ポール・リヒャルト・ブルム「自然新学としての形而上学:バルトロメオ・マストリ」(Paul-Richard Blum, La métaphysique comme théologie naturelle : Bartolomeo Mastri)ではタイトル通り考察の中心に置かれている。
再びシュミュッツ論文からだが、スコトゥス主義がはっきりと見て取れる議論の一つに、例の「対象的概念」「形相的概念」の区別があり(スコトゥスが展開しペトルス・アウレオリが精緻化した「対象的存在」「認識的存在」の区別が大元だという)、この区別の変遷を追うのがもう一つの掲載論文、マルコ・フォルリヴェシ「形相的概念と対象的概念の区別:スアレス、パスクアリゴ、マストリ」(Marco Forlivesi, La distinction entre concept formel et concept objectif : Suárez, Pasqualigo, Mastri)だ。前半では、そうした区別の先駆的な例が見られる論者たちを(スコトゥスやアウレオ以外にもいろいろ)、テキストの当該箇所とともに列挙し整理していて、深く分析しているわけではないものの、見取り図としてはとても有用に思える。後半はスアレスのほか、ザッカリア・パスクアリゴ(17世紀ヴェローナの神学者で、マストリとも論争した)、マストリ(およびマストリの共著者でもあったボナヴェントゥラ・ベルート)などを取り上げ、やはりその概念の区別についてまとめている。導入としては有益だけれど、いずれの論考もどこかまだ表面をなぞっている感が強く、あまりピンと来ない。個人的にはマストリなどはまだ直接の関心があるわけではないけれど、近世スコラについてもそのうち、さらに深みのある論考をぜひ読んでみたいところではある。
サミュエル・コーン「ルネサンス期のモノへの執着:遺書・遺言書における物質文化」(Samuel Cohn, Jr., Renaissance attachment to things: material culture in last wills and testaments, Economic History Review, University of Glasgow, 2012)をざっと読む。おもにルネサンス初期のイタリア都市部における市民らの資産・財産への執着を、当時人々の間で一般化していたという遺言書から浮かび上がらせようという興味深い論考。財産目録が一部の富裕層にしか見られないのに対して、遺言書はより一般的で、残っている史料としての数も多く、それでいてあまり分析が進んでいないのだそうで、まさに宝の山なのだとか。で、そこから同論考で示されるのは、ペスト禍(1348年の流行よりも、むしろ1362年の二回目の流行以降)を境に遺産に関する行動パターンが変化したということ。それ以前には死に際して寄進などを行うのが一般的だった状況がペスト禍を期に一転し、続く世代に対して将来の遺産管理をどうするのか事細かく指示するようになったという。資産は処分したりせずに、手元に置いておくものとなった。どうやらそれは、ペスト禍に際して否応なしに死というものに直面した人々が、自分の家族に記憶を長く伝え留めようとするようになった、ということらしい。そうした行動の変化はほかに葬儀の習慣などにも現れ、私的な小礼拝堂を作ることが盛んになされるようになったりもし、また臨終に際してみずからの姿を絵画に残し、それを墓石に飾るといったことも行われるようになったという。全体として、遺書を残す者とその家族の記憶を留めるための美術品や建築がブームとなったらしい。つまりは美術品の使い方、あるいは見方が変わったということ。同論考では取り上げられていないものの、美術制作の技法などに影響はなかったのかしら、と改めて思う(以前読んだ古い論考では、シエナの絵画を例に、そうした影響はさほどなかったということだったのだけれど……うーん、そのあたりはどうなのか……)。また経済的な観点からすれば、寄進(それは商人などの間に、一種の罪滅ぼし的に広まっていた)が富の流動性を高めたのに対して、ペスト後のそうした動きはそれと反対の動きをもたらすことにもなったようだ。低迷した業種とかも出てきたはず。とはいえ論文著者によれば、ルネサンス期の経済はすでにして複雑だというから、そうした影響関係の特定はやはり難しい問題となるようだ。