純然たる偶然世界へ:メイヤスー

Après la finitude, Essai sur la nécessité de la contingence以前『現代思想』誌で取り上げられていたクアンタン・メイヤスーの議論に触れたことがあったけれど(こちらのエントリ)、その著書を改めて読み始めているところ。『有限性の後で−−必然と偶然についての試論』(Quentin Meillassoux, Après la finitude, essai sur la nécessité de la contingence, Seuil, 2006)。さしあたりその核心部分と思われる4章「ヒュームの問題」を見てみた。これはとても刺激的な議論ではある。「未来にわたって同一の原因から同一の結果が必ず得られる保証はどこにあるのか」というヒューム的な問題について、メイヤスーはまず、次のような指摘をする。将来にわたる法則の安定性は論理では確定できないのではないかというヒュームの懐疑的回答(これには、いかにして人は法則の必然性を信じるようになるのかという問題が付随し、ヒュームはそれを習慣に帰している)や、カントによる間接的な証明法(反する仮定−−ここでなら「原因論的必然性がない」−−が、不条理−−「あらゆる表象が破壊されてしまい、いかなる客観も、いかなる主観も持続的ではなくなってしまう」−−にいたることを示して証明とする、反証的な方途)は、原因がもつ必然性そのものは不問に付し、単にそれが論証できるかどうかだけを問うている、という共通性がある。それに対してメイヤスーは、原因の必然性そのものを否定する「思弁的」立場を提示する。それはつまり、あらゆる必然性を斥け、純粋に偶然からのみ成る世界観にほかならない。なかなかに過激な極北的世界観でもある(通俗的な感覚にとことん反するという意味で)。でもそうすると、物理法則などが一定の安定性を示している現実はどう考えればよいのか、という問題が浮上する。それにどう答えるのか。

メイヤスーはそれにこんな感じで対応する。必然を想定する背後には「法則が理由なく変化しうるなら、それは理由なく頻繁に変化するはずだが、実際にはそうなっていないから」という考え方がある。つまり偶然には頻度が伴うというわけなのだけれど、ここでの頻度とは確率論的な考え方に立脚している(ジャン=ルネ・ヴェルヌの議論だそうだ)。頻度が低く確率的に高いなら、それは必然ではないかと見なされるわけだ。必然の推論はこうした確率論的な推論を内面世界にまで延長するところに生じる。これがヒュームやカントの議論の正体なのだ、と。けれどもメイヤスーは、そうした確率論的推論すら斥けうるモデルを提示しようとする。それが、カントールが無限について提唱した超限数(transfini)を着想源とする議論だという。確率論を取るということは、確率的に低いものから高いものまで、一連の可能な事例の集合がありうることになり、そうした可能な事例が序列的に居並ぶことで全体が形作られると考えることを意味する。ところが数学的には、部分の総体が全体よりも常に大きくなる、という公理系がありうるという。そうした集合は閉じられることがなく全体を構成しない。で、その場合、可能な事例はそもそも序列化できなくなり(全体に占める位置定められない)、かくして確率論的推論自体が失効してしまう。これぞまさに、確率論的な覆いを取り払い必然性を失効させた、カオス的な、それでいて逆説的ながら安定しうる世界を支える新たな公理系だ、とメイヤスーは説く。うーん、なにやら正攻法ではなく斜めから攻める印象のこの議論の展開は、カントの用いる反証とどこか同種の印象を与えもするし、やや狡猾な(というと語弊があるが)印象も与える。確かに確率論が失効すれば必然性も失効するというのはわからなくもないけれど、そのことを導くための、数学的議論に根ざした推論がどれほど妥当なのかは個人的には不明で、判断に迷うところでもある。また、安定性そのものの問題(メイヤスーは途中で、それがカオス的な複合的要因によって支えられていると述べているようだが)がなにやら途中で置き去りにされてしまっているような印象なのだけれど……(苦笑)。メイヤスーに言わせれば、これぞまさにオッカムの剃刀が適用されて撤廃される神話ということらしいのだが……。

アレクサンドロス「混合と成長について」

Alexandre D'Aphrodise: Sur La Mixtion Et La Croissance (De Mixtione) (Collection Des Universites De France)このところ読んでいたアフロディシアスのアレクサンドロス(3世紀初頭)の『混合と生長について』(Alexandre D’Aphrodise: Sur la Mixtion et la Croissance (De Mixtione), trad. Jocelyn Groissard, Les Belles Lettres, 2013)。希仏対訳本で、とりあえず冒頭の解説序文のうち内容に関する部分と、本文を読了した。これもなかなか興味深いテキスト。というわけで、とりあえずのメモ。混合・混成について、まずはストア派などの諸義論を取り上げ、それらの問題点を挙げては反駁を加え、次いでアリストテレスこそがそうした問題への解決をもたらすとしてその義論を紹介し、最後には混合から派生する事例として生き物(とくに人間)の生長の問題を扱っている。解説序文によれば、こうした「問題提示→ストア派反駁→アリストテレス称揚」というパターンでの展開は、『運命について』など複数の著作で多用されているといい、それはアレクサンドロスが逍遙学派の教師としての役割を担っていたからではないか、としている。内容面ではまず、ストア派などのドクソグラフィが目を惹く。ストア派はデモクリトスやエピクロスの議論を引き継ぐ形で、細かな粒子のレベルにおいてはあらゆるものが混合するとの世界観を示す。そこでは粒子が並列されるというわけなのだけれど、クリュシッポスにいたると、モノが一体性を保つためにプネウマが物体と結びつくという立場が示される。一方のアレクサンドロスは、基本的にアリストテレスの混合の考え方をそのまま提示しているように見え、アリストテレスに準拠したストア派批判が展開する。混合は実体同士によってなされる以外になく、混合する物体が相互に働きかけ、また受容することができなくてはならず、物質的な共通性と正反対の質を有していなくてはならない。また、混合する同士は変成を受けて新たな質を獲得するが、ポテンシャルにもとの要素の質も保持している。同序文によると、アレクサンドロスはアリストテレスのもとのテキストにある曖昧な部分(たとえばそのポテンシャルの具体的な意味など)を、少なからず明確化しようと努めているという。そのあたりに、アレクサンドロスの独自性が見え隠れするというわけだ。

アエネイス註解、ダンテ、ブラバンのシゲルス

ラテン中世の精神風景柏木英彦『ラテン中世の精神風景』(知泉書館、2014)を読む。小著ながら、12世紀から13世紀のいわゆる中世盛期について、自由学芸、古典の受容例、イスラム思想(アヴェロエスなど)、スペインの翻訳事情などを通して、「精神風景」を切りとって見せようというもの。豊かな学識を背景に、ほとんどラフスケッチ的・まとめ的に当時の知の運動を描いている。言及される個々の事象は多岐にわたるが、どれも骨子が示されているだけなので、その肉付けは読む側に委ねられているということか。というか、その意味で様々なヒントが得られそうな一冊。

個人的にとりわけ興味深いのは、一二世紀の逸名著者(偽ベルナルドゥス・シルヴェストリス)による『アエネイス註釈』をめぐる第二章。この註釈書は、ウェルギリウスの『アエネイス』前半(六巻まで)を人間の成長の六段階に見立てている(ソールズベリーのジョンなどがそう考えていたが、厳密には間違いだとされる)など、全編、倫理的寓意に重きを置いた解釈を示したものだという。で、とくに問題となるのがその第六巻の冥府巡りの解釈。オルフェウスの冥府めぐりが引き合いに出されるわけだけれど、ここで『アエネイス註解』は、オルフェウスが叡智と言語能力を身につけている賢者、対する妻エウリュディケは善への本性的欲望を表すとし、振り向くことの禁忌は此岸的なものへの執着を断つことと解釈しているというのだ。ウェルギリウスのもとのテキストでは、オルフェウスは賢者とはされていない。振り返りの禁忌はボエティウスの『哲学の慰め』第三巻の末尾にもあり、これがキリスト教の教化的解釈の枠組みをなしているというのだけれど、そこでのオルフェウス像もやはりあくまで此岸に執着する人物で、賢者ではない。オルフェウスを賢者とし、エウリュディケを本性的欲望に比する源泉はどこにあるのか。どうやらコンシュのギヨームによる『「哲学の慰め」註解』などに同じ解釈があり、そこに、フルゲンティウスの解釈だというが、オルフェウスとエウリュディケを学芸(アルス)に関連づけた言明があるのだという。ほかにオーセルのレミギウス『「フィロロギアとメルクリウスの結婚」註釈』にも、そうしたアルスに精通した人物像としての解釈があるのだそうで、これらが全体的に意味をずらしながら(学芸に秀でた者→賢者といった具合に)、12世紀にオルフェウスとエウリュディケの位置が逆転したのだろう、という。このオルフェウス賢人解釈は後のダンテ『神曲』にまで及んでいて、オルフェウスはリンボにほかの異教の学者、芸術家たちとともにさりげなく住まわされている(地獄編、第四歌)。なるほど。

神曲 天国篇 (講談社学術文庫)柏木氏の同書では『神曲』がらみでもう一つ、アヴェロエス主義者として異端視された13世紀のブラバンのシゲルスが天国編(第一〇歌)に置かれていることについて、研究者の間で議論の的になったことにも触れている。先頃出て、訳文の流麗さと解説の秀逸さで話題になった原基晶訳『神曲 天国篇 (講談社学術文庫)の、その各歌解説を見てみると、これが議論を呼んだのは近代になってからだといい、独立運動(イタリア称賛のダンテが持ち上げられる)と新トマス主義の流行(ダンテもトマスの教義に依拠しているとされた)といった状況が背景にあったとされている。シゲルスは離在的知性説を放棄したことで評価され、トマスの思想との共通点ゆえに天国に置かれることになった、というのが同書での解釈だが、うーむ、このあたりはどうなのか。それで最終決着がつくというふうにはちょっと思えなかったりもするのだが……。