以前『現代思想』誌で取り上げられていたクアンタン・メイヤスーの議論に触れたことがあったけれど(こちらのエントリ)、その著書を改めて読み始めているところ。『有限性の後で−−必然と偶然についての試論』(Quentin Meillassoux, Après la finitude, essai sur la nécessité de la contingence, Seuil, 2006)。さしあたりその核心部分と思われる4章「ヒュームの問題」を見てみた。これはとても刺激的な議論ではある。「未来にわたって同一の原因から同一の結果が必ず得られる保証はどこにあるのか」というヒューム的な問題について、メイヤスーはまず、次のような指摘をする。将来にわたる法則の安定性は論理では確定できないのではないかというヒュームの懐疑的回答(これには、いかにして人は法則の必然性を信じるようになるのかという問題が付随し、ヒュームはそれを習慣に帰している)や、カントによる間接的な証明法(反する仮定−−ここでなら「原因論的必然性がない」−−が、不条理−−「あらゆる表象が破壊されてしまい、いかなる客観も、いかなる主観も持続的ではなくなってしまう」−−にいたることを示して証明とする、反証的な方途)は、原因がもつ必然性そのものは不問に付し、単にそれが論証できるかどうかだけを問うている、という共通性がある。それに対してメイヤスーは、原因の必然性そのものを否定する「思弁的」立場を提示する。それはつまり、あらゆる必然性を斥け、純粋に偶然からのみ成る世界観にほかならない。なかなかに過激な極北的世界観でもある(通俗的な感覚にとことん反するという意味で)。でもそうすると、物理法則などが一定の安定性を示している現実はどう考えればよいのか、という問題が浮上する。それにどう答えるのか。
このところ読んでいたアフロディシアスのアレクサンドロス(3世紀初頭)の『混合と生長について』(Alexandre D’Aphrodise: Sur la Mixtion et la Croissance (De Mixtione), trad. Jocelyn Groissard, Les Belles Lettres, 2013)。希仏対訳本で、とりあえず冒頭の解説序文のうち内容に関する部分と、本文を読了した。これもなかなか興味深いテキスト。というわけで、とりあえずのメモ。混合・混成について、まずはストア派などの諸義論を取り上げ、それらの問題点を挙げては反駁を加え、次いでアリストテレスこそがそうした問題への解決をもたらすとしてその義論を紹介し、最後には混合から派生する事例として生き物(とくに人間)の生長の問題を扱っている。解説序文によれば、こうした「問題提示→ストア派反駁→アリストテレス称揚」というパターンでの展開は、『運命について』など複数の著作で多用されているといい、それはアレクサンドロスが逍遙学派の教師としての役割を担っていたからではないか、としている。内容面ではまず、ストア派などのドクソグラフィが目を惹く。ストア派はデモクリトスやエピクロスの議論を引き継ぐ形で、細かな粒子のレベルにおいてはあらゆるものが混合するとの世界観を示す。そこでは粒子が並列されるというわけなのだけれど、クリュシッポスにいたると、モノが一体性を保つためにプネウマが物体と結びつくという立場が示される。一方のアレクサンドロスは、基本的にアリストテレスの混合の考え方をそのまま提示しているように見え、アリストテレスに準拠したストア派批判が展開する。混合は実体同士によってなされる以外になく、混合する物体が相互に働きかけ、また受容することができなくてはならず、物質的な共通性と正反対の質を有していなくてはならない。また、混合する同士は変成を受けて新たな質を獲得するが、ポテンシャルにもとの要素の質も保持している。同序文によると、アレクサンドロスはアリストテレスのもとのテキストにある曖昧な部分(たとえばそのポテンシャルの具体的な意味など)を、少なからず明確化しようと努めているという。そのあたりに、アレクサンドロスの独自性が見え隠れするというわけだ。