ゾシモス 第一書 15-17

15. これらのことを述べているのはヘブライ人と、ヘルメスの聖なる書のみである。ヘルメスの書には、輝かしい人間とその導き手である神の子、土くれのアダムとその導き手である模倣者、すなわち冒涜すべく、みずからが神の子であると偽りの言葉を言う者について記されている。

16. ギリシア人たちは、土くれのアダムをエピメテウスと呼ぶ。彼はその知性、つまりその兄から、神の贈り物を受け取るなと忠告する。同じように過ちを犯し、考えを変え、幸福な場所を求めたプロメテウスは、あらゆることを解釈し、知的な耳をもつ者たちに対してあらゆる助言を行うのである。だが、肉体の耳しかもたない者たちは、運命によって操られ、それ以外をまったく受け入れず、また認めない。

17. 時宜に適った者たちは、その技術以外のことを語らない。『炉について』という大著を嘲り、次のように語る詩人をも理解できない。「だが、神々は人間に一度に与えることはいっさいなかった」云々。神々は人間の活動を顧みもしないし、見てもいない。なぜなら人間たちは、一つの技術に様々なかたちで精通し、一つの技術を様々なかたちで実行するからだ。その性向や星の配置などによってである。それらによって一つの技術が多様化され、ある者は競合する技術者、ある者は単なる技術者、またある者はさらに下の、進歩のない悪しき技術者となる。

– 仏訳の注によると、16節の二つめの文の主語はプロメテウスと取っているが、歴史的に異論もあったらしい。ここでは素直に仏訳の考え方に従っておく。
– 17節の最初の部分は、染色に成功した人々のこと、とされている。

空疎なものの空恐ろしさ

明治の表象空間前回のエントリでも触れたけれど、ハイエクは保守というものは本来、内実がない空疎なものだとして一線を画そうとしていたという話だったが、そうした空疎なものは、逆にそこに様々なものが備給されて、いかようにも利用されうるという怖さがある。これも年越し本として読んでいる(まだ半分)、松浦寿輝『明治の表象空間』(新潮社、2014)は、まさに明治時代のそうした空疎な表象の数々を、その成立から分析していて大変興味深い。ちなみにこれは電子本で読んでいる。序章からして、扱われるのは「国体」なるものの空疎さの指摘だ。「外部からの脅威に反応して華々しく立ち騒ぐ過敏なシニフィアン(中略)は、その内包するシニフィエに関するかぎり甚だしく貧弱で、ほとんど無に等しいとさえ言ってもよい」(序章、5.7%)という。ところがそれは、「明治から昭和にかけての日本人の意識を呪術的に拘束してきた」(同、5.8%)。国体は意味のインフレを起こして、「どのような文脈、どのような主張にも奉仕されうるように」(同、5.9%)なっていく。このことを的確に見抜いていたのが北一輝だった、という話が続く。

その後、本論では警察制度、戸籍、刑法などの諸概念が続いていく。そしてこの空疎さについての議論が、天皇が用いる一人称「朕」の特殊性などの話、さらにはその教育勅語の話において再度取り上げられていく。起草者たちは勅語を「現実とは無縁の「空言」であり、またそうでなければならぬ」と考えていたといい、「ただし、「顕教」としての天皇の権威が保たれることこそ明治政府のイデオロギー的基盤である以上、いかなる場合であれその「空」は「至尊」のオーラをたなびかせた言説として組織されなくてはならない」(29章、49.7%)というのだ。「徳目自体は(中略)五倫の徳程度」と、空疎なものだった教育勅語は、一方でそれらの徳目が「「皇祖皇宗」の建立した「深厚い」なる始原の徳の上に基礎づけられることによって初めて存立」するとされ、つまりは「普遍性を特異性に読み替えるというこのトリック」によって、「(中略)特異性の顕現を逆にいよいよ際立たせることに」なったという(以上、30章、51.2%)。まさにそこから、戦前期の教育勅語の意味論的な簒奪なども生じていく……ということか。

中道の政治?

昨年からLoeb版でアリストテレス『政治学』をちびちび読んでいる。統治形態について記した第四章をほぼ終えて、全体の半分ほどにまで来たところ。この第四章はなかなか面白くて、寡頭制と民主制を両極とする軸を考えて、現実世界のさまざまな政治形態はその軸線上に位置づけられると見ている。また、寡頭制も民主制も、そのままではその政治形態の主要な構成者たち(前者なら貴族や裕福な者、後者なら一般大衆や貧しい者)の利益誘導に陥って堕落してしまうとし、理想としては両者の中間層が政治を担う体制が望ましい、としていたりする。民主制を手放しで喜ばず、そこに堕落の契機を見出して、むしろその体制を相対化しようとするところが、まさにアリストテレスの中道思想の真骨頂という感じになっている。

隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】で、これに関連して(というわけでもないが)、年越し本の一つとしてハイエク『隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】』(西山千明訳、春秋社、2013)を読んでみた。昨年、ジュンク堂がいったんやめた「自由と民主主義のための必読書50」に入っていたのに、結局フェアの再開時に外されたものの一つが同タイトルで、とても気になっていた。実際に読んでみると、社会主義的な動きの中に全体主義の芽があるとして、計画経済的なものを「集産主義」と括って一蹴している強烈な一冊。返す刀で民主主義が必ずしも理想(ハイエクの言う自由主義)を導くものではないことをも主張する。

ハイエク - 「保守」との訣別 (中公選書)これを読むための参考書として楠茂樹・楠美佐子『ハイエク – 「保守」との訣別 (中公選書)』(中央公論新社、2013)というのも眺めてみたが、ハイエクはやはり、民主主義を絶対視しておらず(そこに全体主義が結びつく可能性があるからだという)、それがハイエクにおいて最も反発を受けている主張の一つなのだという(民主主義によらない自由主義?)。民主主義を相対化しているという意味では、上のアリストテレスの路線にどこか重なるスタンスでもある。レーガン政権やサッチャー政権で盛んに参照されたことなどから、保守派の論客とされてきたハイエクだけれど、本人は保守主義というものは本来、形のないものだと喝破し、そこから一線を画しているという。ハイエクが寄りどろろとするのはあくまで自由主義であり、それは社会主義と保守主義の「中間のどこか」(同書p.206)をなすとしている。これまたすこぶるアリストテレス的だ。

ホワイトヘッドの再評価へ?

具体性の哲学 ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考明けて2016年、謹賀新年。とはいえブログの1本めは、当然というか年末の読了本から(年越し本はまた後で)。森元斎『具体性の哲学 ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』(以文社、2015)は、ホワイトヘッドの哲学を、「抱握」概念などを中心に整理・再評価しようというもの。難解なプロセス実在論の見通しをいくぶんなりとも良くしようという意図は好感できる。その一方で、ドゥルーズのホワイトヘッド論やハーマンの議論の検証や、あるいはラトゥールなどとの対照とか詩論とか、多面的なアプローチのせいかいくぶん散漫な印象も。もっとも、ホワイトヘッド自身がどこか散漫(そう言うと語弊があるけれど)かつ多義的であり、こうした多面的アプローチを唆していると言えなくもないのかも……。いずれにしても個人的には、ホワイトヘッドの全著作に見る総体・全体像へといっそう踏み込んでいってほしかった気もする。

キーワードとなっている「抱握」だが、要するに連続体から抱握という過程によって現実的存在が個体化し対象となる、という図式。いわば他の現実的存在を巻き込んで個体が成立し対象として認識されるプロセスにほかならないようなのだが、そのプロセス自体を直接認識できるわけではなく、対象が成立した後から遡及的に推論するしかないもの(ゆえにそれは一種の抽象物)とされるようだ。このあたり、なにやら第一質料から形相によって複合体が生じるというアリストテレス以来の質料形相論と重なり合うようだが、そこに時間と空間の諸条件が絡んでくるところがホワイトヘッドの真骨頂らしい。抱握概念が出来するおおもとにバークリがあったというのも興味深いところ。