その後も読んでいたプロクロス『プラトン「パルメニデス」注解』第四巻(Proclus : Commentaire sur le Parménide de Platon. Tome IV, 1ere partie, Les Belles Lettres, 2013)。この巻もようやく一通りの読了にまで漕ぎ着けた。前回も記したように、四巻は形相(イデア)をめぐる哲学的議論の限界を強く前面に押し出し、その上で神学へのシフトを打ちだそうとしているせいか、とくに後半は、個人的にもあまり盛り上がらずに読了した印象だ。イデアは事物が参与する、分有の大元だという主張は、厳密に吟味していくなら、必ずやアポリアにぶつかる。事象の認識から得られる共通項が即イデアというわけではありえず、そもそも感覚的表象が即、知性的な理解対象となるということも考えにくい。また認識による共通項が現実の事象の原因をなしているというのもありえない。それらは結局人間知性の限界だとされ、そこから神々の知性についての理解へと進んでいかなくてはならないということになる。神の知性においては、イデアは単なる似像ではなく、実際に事象を生成するモデルでものでもあり、事象の原因にもなっているとされる。新プラトン主義的にはそちらを認識するための「高次の」シフトを提唱し、イデアと事象の間に流出論の関係(産み出されたものは、その産出元を志向する)を見て取る。さらに、そうした高次の認識に至るには、しかるべき素質や経験、熱意を持った者が、観想を通じて、神々の「光」に照らされなくてはならないのだと説く。まさに神秘主義の基本的な論理展開・認識構造ではある。
934節にイデアとは何かという点のまとめがあるので、それを挙げておこう。イデアはまず(1)非物体的であり、(2)分有する事象と同じ水準にはなく、(3)思考対象となった本質ではなく、本質そのもの、存在そのものであり、(4)範型であるのみで、似像ではなく、(5)人間にとっての認識対象ではあっても、それは直接的にそうなのではなく、ひたすら像を通じてのみの認識対象であり、さらに(6)イデアはおのれが産出したものを、因果的に知解可能なものなのである……。
一つ面白かった点を指摘していおくと、神の知性と人間知性の違いを言いつのる箇所(948節)で、プロクロスがいくつかの異論に言明している点。知解対象としてのコスモスを人間の内にあるものと捉える説とか、魂の一部が天上に残っていて、それとの連絡によって知解がなされるという説、魂が神々と同一実体をなしているという説などが挙げられている。この二つめなどは、まさに離在的知性論(中世のアヴェロエス派がテーマ化したような)を彷彿とさせる。単一知性論(とは記されていないけれど)の源流のようなものが5世紀よりも以前からあったことの証左かもしれず、なかなか興味深い。