この間のユイスマンス本でもちらっと出てきたラカン(もっとも同書の著者は、どちらかというとクリステヴァの精神分析学に造詣が深いようだったが)。さすがに昨今は、文学においても作家・作品研究に精神分析的解釈をただちに・安易に持ち込むようなことはなされなくなっているようだが、個人的にはラカンについての知識も90年代始めの藤田博史『精神病の構造』『性倒錯の構造』『幻覚の構造』(これらは実に見事なまとめだったように記憶している)あたりでストップしているので、少しアップデートしようと思い、松本卓也『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』(青土社、2015)を眺めてみた。神経症と精神病を区分けする鑑別診断についての見解を軸に、ラカンの思想的変遷・深化を経時的に追っている。これもまた同様に見事なまとめになっているほか、この「経時的に」思想の地誌を描いてみせているところが、ある意味新しいように思えた。これまでラカンの思想の要約といえば、年代的なものを取っ払ってというか、あまり重視せずに、図式を取りそろえて解説してみる、みたいなものが多かったように思うからだ。
で、末尾部分になかなか重要な指摘があった。従来(と言ってもだいぶ以前だが)は一般に、ラカンを始めとする精神分析のどこか家族主義的な図式(父の名による抑圧の構図とか)を批判し乗り越えるものとして、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』が対置されることが多かったわけだけれど、この経年的ラカン思想の変遷からは、70年代に入ってラカン自身がそうした図式の外に出ることを志向し、まさに『アンチ・オイディプス』的な方向性を打ち出していたことがわかるのだという。個人的にこれは新鮮な指摘だった(単にその方面に疎いだけではあるのだけれど)。鑑別診断そのものの区別が薄らぎ、同書の表題にもあるような「人はみな妄想する」といったことが言われるようになるという(これは高弟ミレールによる表現だというが)。
その晩年のセミネールでジョイスの文学作品を症例的に読みながら、ラカンはアリストテレスに言及しているという点も面白い。アリストテレス論理学で問題になっている三段論法が、類もしくは普遍についての命題であるのに対して、たとえばソクラテスの個別の死というものはそうした命題に乗りきるものではないことを指摘し、普遍から逃れる「特異的・単独的なもの」を重視するべきだとラカンは説いているのだという(p.372)。治療という行為によって患者の個別性にいやおうなしに対応せざるをえない臨床の現場の人の感覚なのだろうなという感じではあるが、同書によると、こうした観点はデリダとも響き合うのだという。デリダは『法の力』において、裁判官が普遍的な法に従っているだけでは、単にアルゴリズムで事例を処理しているだけで、「正義」と呼べるものがないとし、真に「正義」がありうるためには、アルゴリズムに還元できない「不可能なもの」に関わらなくてはならない、といったことを述べているのだという。それは「他者が、つねに他なるものである特異性=単独性として到来する」可能性を維持するものでなくてはならない、というのだ(p.420)。臨床的な哲学という観点が、改めて浮かび上がってくる。