昨年の1月ごろにユイスマンスを取り上げたが、それから一年(以上)越しで大野英士『ユイスマンスとオカルティズム』(新評論、2010)を読了した(苦笑)。オカルト思想からカトリックへと「回心」したとされるユイスマンスだが、同書はそれがいかにしてなされたのかという問題に、時代背景から作家の実人生、精神分析的解釈、作品とその草稿を読み比べなどを通じて多面的にアプローチする、実直・堅実かつ重厚な一冊だ。ユイスマンスが接した「オカルト」と、その後のカトリックへの回心を貫く一つのキーワードとして、19世紀後半に流布した「流体」概念があった、と同書の著者は見る。「流体」は固有の形態をもたない物体とされる。ユイスマンスと親交のあったブーラン元神父という異端派の教祖が説教などで用いているというが、この概念には当時のパスツールによる微生物の発見などが絡み、ある種の独特な不可視の想像領域が形成されていたらしい。流体概念にはまた、メスマーが動物磁気などと呼んでいたものなどの系譜もあって、これも遡ればパラケルススやヘルモントなどから続いているし、著者によれば、ユイスマンス以降も、それは生気論などの一種の<変奏>などを経て、催眠術などの系譜へと受け継がれ、フロイトのリビドー概念、あるいはバタイユの「異質的な現実」概念などにも残響が刻まれていくという。
これと、ユイスマンス個人の「閉鎖された空間」への嗜好とが合わさって、小説内でのカトリックへの回心の記述は、流体的・神秘主義的なもの(どこか異端的な香りもするマリア信仰)として、ある種の一貫性をもつ動きとして記されていく。そこにはユイスマンスが多用する自作からの引用・転用の数々も絡み、また改宗後はブーラン的な異端を示すような記述が削除され(発表前に聖職者に見せて意見をもらったりしているのだとか)、と同時にいっそうのディテールへの拘りが前景化していくといった別筋の動きも絡み、重層的な文学空間が醸し出されていく……。もちろん、実人生での「回心」がどうだったのかはそれらから推測するしかないわけだろうけれど、テキストレベルでのそうした回心劇が、どのような文脈・概念・間テキスト性の上に構築されていたかを詳細にたどっていくのは、それだけでも実に読み応えがある。
一応、実人生での回心のキーのようなものもないわけではないようで、たとえばユイスマンスが衝撃を受け、回心に向けて大きな影響を受けたというグリューネヴァルト(16世紀の画家)の磔刑図があるという。有名なイッセンハイムの祭壇画ではなく、グリューネヴァルトの最後の磔刑図とされるもの。著者はこれをラカン的なキリスト受難の解釈に寄せて論じている。その解釈の是非は直ちには判断できないが、ともかくも、ユイスマンスがそこでもまた神秘主義的な嗜好からマリアのほうを向いていることは注目される。