ソシュール再び

アナグラム研究とは何だったのか


 ソシュール晩年の「アナグラム研究」については、これまでもいくつか有名どころの論考があったと思いますが、なんだかよくわからないままでした。そこでこれ。『ソシュールのアナグラム予想』(山中桂一、ひつじ書房、2022)をざっと読んでみました。

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 アナグラムというと、一般に名前などの、アルファベットの入れ替えによる言葉遊びを思い浮かべますが、ここでいうアナグラムは、古典詩の詩法において存在したかもしれない、名前などを詩句の中に分散して埋め込む技法、ということです。たとえば日本語なら、横書きの段落の行頭文字を縦に読むと、なんらかの言葉が現れる、といった言葉遊びがありますが、そのたぐいのものですね。そのようなものが伝統的な技法としてあったのではないか、というのが、ソシュールの見立てだったのでしょう。

 伝統的なルールとして確立していた証拠が、ソシュールの研究からは見いだされなかったため、この本では「アナグラム予想」と称しているようです。では、そういうものは本当にあったのでしょうか。

 結論から言うと、あったらしい、というのがこの本の立場です。ウィリアム・ベラミーという研究者が、2015年の著書などで、シェークスピアの詩句の研究を通してアナグラムの考え方を定式化してみせているのだそうで、そのためこの本は、ベラミーの研究の紹介に、とくに後半のかなりのページを割いています。ベラミーの定式化の是非については、ちょっと判断できません(門外漢なので、理解・納得していない部分も少なからずあったりします)が、ソシュールのアナグラム研究を継承する研究が近年出てきた、というのはとても面白い現象に思えます。

 なぜソシュール自身は定式化に至らなかったのでしょうか。それはソシュールが、直感的にそうしたルールに気づいていたものの、音声面(二連音など)にこだわりすぎていたため、隠された語の復号のキーを捉え損なったからだ、とされます。アナグラムはやはり、文字表記を対象とした操作なのだ、というわけですね。

 

哲学のおおもと

おおもとは反論にあり


 最近読んだマルサスにしても、マルクスにしても、それぞれの立論は誰かの議論への反駁というかたちをとっています。思想的議論の根源というのは、やはり反論にあるのかもしれないなあ、と改めて思いますね。

 思うところあって、最近またプラトンによる『ソクラテスの弁明』と『クリトン』を希語で読み直してみましたが、そこでもやはり、議論の出発点は反論にあり、という感じでした。まあ、裁判の場で糾弾されているわけですから、反論から出発するのは当然といえば当然です。メレトスとかアニュトスとか、糾弾する側への反論こそが、ソクラテス側の立論の根底をなしている感じですね。根源は単なる対話なのではありません。そうではなくて、反論・反駁なのです。ここを取り違えてはいけないと思います。思想を語るための基礎は、反論にあり、と。

 昔、霊魂論の哲学史的研究と称してメモ取りながら読んだ『パイドン』も、Loeb版の同じ巻の所収なので、そちらもまた読み返そうと思っています。哲学的思惟と宗教的信仰のあわいを、改めて味わってみたいところです。