悪態の裏側

小説や映画などにはときに、現実世界でならゆっくりと進行するような変化・変質が、なんらかの極限状態によって、過激なかたちで描かれることがあります。最近アマプラで観た『悪い夏』(城定秀夫監督、2025)にも、そんなシーンがありました。
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とある市役所で生活保護の申請を受け付ける職員が主人公で、自身はごく普通の職務上の対応をしているのですが、あるときヤクザがらみの脅し・ゆすりの一件に関与させられてしまい、一種の極限状態に追い込まれ、申請者にとんでもない暴言を吐いてしまいます。このシーン、半ば妄想的に描かれるので、どこからどこまでが実際に言い放った言葉なのかわからないのですが、かなり壮絶で印象的なシーンです。

映画自体は扱うテーマのわりには平坦な印象です。日本の住宅事情もあって、狭い部屋に大人たちが6人も7人も押し合いへし合いするというのが、すでにして画面設計上の難点になっていたりとか。でもその追い込まれて暴言を吐くというあたりは、誇張されたものではあっても、どこかリアリズムを感じさせますね。人が悪態をつく背景には、たとえ小さなものであろうと、なんらかの軋轢(とその積み重ね)があることが窺えます。

この作品を観て、個人的にまっさきに浮かんだのは、アーレントのアイヒマン解釈をめぐる論集『<悪の凡庸さ>を問い直す』(田野大輔・小野寺拓也編、大月書店、2023)でした。
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これによると、アイヒマンが組織の単なる歯車のような、凡庸な役人だったなどという見解はとうの昔に否定されているのだそうで、出世欲や功名心によって突き動かされて自覚的に職務を遂行していたというのが一般的解釈とされています。ユダヤ人をとくに憎んでいたわけではなくとも(その反ユダヤ主義は抽象的なイデオロギーにすぎなかったとされます)、「妬みや物欲、昇進への期待などといったさまざまな動機に突き動かされて、暴徒の群れに加わることになった」、「命じられた以上の成果を達成させていく有能かつ野心的な男の姿」が、そこにはあったというのですね。

しかしながらアーレントは、そこに思考の欠如を見出します。それは「全体主義の運動を批判的に捉える能力」の欠如のことで、後にはそれが「自身の独断主義のせい」だと言われたりもしていた、と。つまりは、「期待された役割を過剰に取り込みながら、昂揚感を追求したふるまい」にひたすら惑溺してしまい、それ以外が考えられないという思考の構えによるものだった、というのですね。

おそらくアイヒマンは長い時間をかけて、組織の中での自身の姿勢を練り上げていったのでしょう。その端緒を仮にぎゅっと圧縮・凝縮するなら、もしかすると上記の映画が描いた、主人公の妄想的で極端な文言に重なるのかもしれない、と思ったりしました。