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顔役というキャラ

少し前に取り上げた『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』では、なんといってもルイス・クー演じる「顔役」が、存在感といい佇まいといい、他に圧勝していたと思うのですが、こういう、局所的な集団・コミュニティにおける顔役というキャラは、アクション系の作品に限らず、作品を締める重要な要素だという気がします。そのことを改めて感じさせたのが、少し前に配信で観た『ワン・バトル・アフター・アナザー』(ポール=トーマス・アンダーソン監督作品)での、ベニチオ・デル・トロでした。
https://www.imdb.com/title/tt30144839/

デル・トロが演じたのは、ディカプリオ演じる主人公の娘が通う、空手の道場の先生なのですが、同時にメキシコ系移民(だったかな?)を助ける、コミュニティの顔役でもありました。ディカプリオを難局から救う重要キャラでもあります。ショーン・ペン率いる機動隊が、移民らのたむろする場所に乗り込んできたときに、あたりの全員を実に手際よく逃げさせるくだりとかが、なんともカッコいいんですよねえ。

現実世界でこういう「顔役」がいたら、悪いこともいろいろしている犯罪者かもしれませんけれど、映画の中、あるいはもっと広い意味での「物語」の中では、そのあたりは捨象され、ときにはトリックスター的な性格を付されたりして、筋の運びを生き生きと展開していったりします。多くの作品において、そうしたキャラは必要とされるような気がします。物語論的に綿密に分析したことはないですが、理論的・作品構造的にもしっかりと位置づけられるはずです。

そういえば、アカデミー賞のノミネート数で、上の『ワン・バトル……』をも凌駕してしまった『罪人たち』(ライアン・クーグラー監督作品)でも、そういうキャラがいました。それはウンミ・モサク演じるシャーマン的登場人物、アニー(ブードゥーの施術者・ハーバリスト)ですね。
https://www.imdb.com/title/tt31193180/

現地のコミュニティで信頼が寄せられていることを感じさせるほか、異常な事態が吸血鬼に関係していることをいち早く見抜いたり、対策を助言したりして、筋の展開に大いに関わっています。あまり目立たない存在であっても、こういうのは作品上、とても重要だと思われます。

フィクションの枠、というもの

独特の理屈が幅を利かす田舎の情景が、作品内でなにがしかの変容を遂げるような映画を、配信で立て続けに2本ほど見ました。今どきの作品だけあって、単に二項対立的な型(都市/地方とか、世代間とかの)にすんなり収まるようなものでは当然ありません。

一つは『熊は、いない』(2022)。『人生タクシー』などで知られるイランの監督ジャファル・パナヒの作品です。
https://www.imdb.com/title/tt20205236/

イランから出られないパナヒ監督は、トルコから偽パスポートで出国しようとする男女の映画を、イラン国境近くの村からリモートで指示を出して撮影しています。ところがそのうち、その村の古くからの風習によってある男性の許嫁になっていた女性が、別の男性と一緒にいるところを、パナヒが写真に収めたのではないかとの嫌疑が持ち上がり、村を挙げての騒動に発展します。

その村の話も、トルコからの出国話も、最初はドキュメンタリーっぽいフィクションという感じなのですが、やがてジャンルが微妙かつ曖昧に溶け合ってしまうような、微妙な展開を遂げていきます。トルコ側の話の女優さん(?)が、メタフィクションであるかのように、パナヒに文句を言い出します。そのせいで、それまでのフィクションの枠が微妙に判然としなくなるような、いわば軽い宙吊りの状態にもっていかれます。この演出は興味深いですね。国境近くの村の話にも、その宙吊り感は同じように影響をもたらさずにはいません。村の情景がほんの少し、フィクションから浮き上がって見えてくるとでもいいますか……。

ちなみにこの作品完成後、パナヒ監督は当局によって本当に身柄を拘束されてしまったといいます。このところの反体制デモの中、監督がどうしているのか気になるところです。

もう一つは、『おんどりの鳴く前に』(2022)。パウル・ネゴエスク監督作品。ルーマニアの監督ですね。
https://www.imdb.com/title/tt14820500/

職務もどうでもよく、ただ家を売って果樹園を所有したいと願う田舎の警察官が主人公です。そこに新人警官が配属されてきます。折しもめずらしく村で殺人事件が起きるのですが、張り切る新人をよそに、村長や田舎の司祭らとつるんで日々をやり過ごす主人公。しかしやがて、新人警官が半殺しの目にあったり、権力者の私利私欲のために土地を負われる女性を見たりしたことで、忘れかけていた若いころの義憤に火がついていく……。

最後の10分くらいが意外なほど映画的に豊かになるという、ちょっとおもしろい作品です。それまで登場人物たちが醸していた、リアルな(現実にありそうな)狭い地域に巣食う人々の、どこかもやっとした空気感のようなものが、いきなり寓話のごとく、ある種定型的ともいうべき造形へと一気にシフトする、という感じでしょうか。フィクションの枠が「結晶化」(硬化?)する、と言ってもよいかもしれません。

フィクションの枠が揺らいだり、硬化したり。どちらも試行錯誤を重ねての、探求の成果であるように思えます。映画製作の世界も、そういうところで静かに息づいているのかもしれません。

新年は「奇想」三昧から

前回に引き続き、年末年始の「年越し本・年越し映画」から、印象に残ったもののメモを。今回はどれもある種の「奇想」(語弊を覚悟で言えば、ですが)という感じがするものばかりです。もちろん、作っている側にとっては奇想でもなんでもないのでしょうけれど。

カルロ・ロヴェッリ『すごい物理学講義』(竹内薫監訳、栗原俊秀訳、河出書房新社、2019)は、有名になった超弦理論のオルタナティブとして示された、ループ量子重力理論について、一般向けに解説・紹介したものです。こういうまったく畑違いの本を読むのはとても楽しいですね。普段まったく接しない世界なので、一種の奇想譚のように読めてしまいます(笑)。
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このループ理論というものは、時間や空間を結晶格子状の離散的なものとして捉えるのだそうで、時空にはそれ以上分割できない最小単位がある、ということになるのだとか。また、それに倣うと、宇宙開闢のビッグバンもまたビッグバウンス(伸びたり縮んだりするという)の宇宙観になり、ブラックホールにしても、中に入ったものが縮減して消滅するのではなくなる、という話です。これは面白いですね。著者も同書で繰り返し触れていますが、デモクリトスとかの原子論(!)が、回り回って形を変え、蘇ってくるかのようです。

もう一つ、こちらは小説集ですが、オラフ・ステープルドン『火炎人類』(浜口稔訳、ちくま文庫、2025)を読んでみました。なんといっても中編の表題作(1947年の作)、その発想に舌を巻きました。
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ステープルドンは、『スターメイカー』でもまさに奇想の権化という感じでしたが、こちらも同じように素晴らしいですね。語り手の友人からの手記というかたちで、石の中に長く閉じ込められていた、太陽由来の火のような生命体との、ファーストコンタクトおよびテレパシーでの交流が描かれます。はたしてこれはその友人の妄想なのか、またその生命体が実在するなら、敵なのか味方なのか。なかなかスリリングな展開が楽しめます。

これに触発されて、積読になっていた『最初にして最後の人類』を、ここぞとばかりに読み始めました(笑)。以前、スポメニック(東欧のアーティスティックな戦勝記念碑)を延々と映し出すヨハン・ヨハンソンの映画を見て、とても気になっていた原作です。

年末年始には映画も配信で数本見ましたが、玉石混交というふうでした。そのうちで個人的に一番ウケたのは、u-nextで配信中の『リライト』(松居大悟監督、2025)でした。
https://www.imdb.com/title/tt36579051/

始まってすぐに、「あれ?これって『時かけ』(時をかける少女)なの?」と思ったのですが、それはすぐに終了してしまい(かつて『コンスタンティン』が、冒頭5分で『エクソシスト』をやってしまったのと同じように)、そこから怒涛の「おばか話」(ほめ言葉です!)に突入していきます(笑)。この展開、ゲラゲラ笑いました。舞台が尾道で、大友宣彦へのオマージュというか、尾美としのりや石田ひかりが出ているのもポイントです。

粤語(広東語)の愉しみ

語学アプリのDuolingoは、基本的に各言語の初級コースを用意していますが、UIの言語設定によっては、いろいろ変わった言語のコースがあるようです。たとえばUIを日本語ではなく、英語に設定すると、アラビア語やラテン語、現代ギリシア語などの初級が学べたりします。

で、UIを中国語にすると、なんと粤語(えつご)、つまり俗に言う「広東語」のコースが選択できます。UIが中国語(北京語)なので、正解とかも北京語で出て来ます。そんなわけで、日本語のUIで中国語(北京語)を一通りやったあと(まあ、実は以前からNHKの語学講座を視聴していたりする万年初心者なのですが)、個人的に夏ごろから、粤語をかじっています。これがなかなかおもしろい。北京語よりも親しみやすい感じでしょうか。たとえば「茶を飲む」は「飲茶」(やむちゃ)で、北京語の「喝茶」(へーちゃ)と違います。

広東語を始めたので、参考文献も読んでみました。飯田真紀『広東語の世界: 香港、華南が育んだグローバル中国語』(中公新書、2024)。初心者向けに、広東語の諸相を簡潔かつ親しみやすい感じでまとめた本で、好印象です。いろいろと面白い話が満載です。
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たとえば広東語の歌の話。そこでは、北京語ベースの書き言葉を、広東語的に発話するという、「言文不一致」が見られるのだといいます。映画の字幕などもそうなっているといい、香港の人々は、北京語ベースの字幕を広東語の音で読んでいるのだそうです。なかなか混沌としていて興味深い話ですね。古典的な漢詩なども、広東語の音で読むのは、また格別な味わいがあるのだとか。

広東語をやりたいと思うモチーフの一つは、やはり香港映画を見たい、少しでもわかりたいというところにあります(苦笑)。カンフーアクションとかね。ちょうどアマプラで、2024年のヒット作『トワイライト・ウォーリアーズ:決戦!九龍城砦』の見放題配信が始まっています。うん、これはいいですね。単なる復讐劇ではなく、世代間の継承などがテーマとして入っていて、個人的にはとても気に入りました。
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この映画の最初のほうで、耳慣れたメロディが耳に飛び込んできます。荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」のカバー曲?、と思って調べると、もとはアンジー・ゴールドのEat You Upなんですね。知らんかった。まあ、とはいえ広東語ポップスは、日本の70年代、80年代のカバー曲もいろいろあるとのことで、カラオケで歌ってみたいところでもありますね(笑)。

一部のシチュエーションスリラーに足りないもの

Netflixで夏頃に配信していたドイツ映画『ブリック』(フィリップ・コッホ監督、2025)。全体的な評価点は低いようですけど、個人的には面白く観られました。ある日突然、マンションの各部屋が、窓も扉もなにかブロックのようなもので囲われてしまい、誰も出られなくなります。住民らは横穴・竪穴を掘るなどして、なんとか脱出を試みます。その過程で、どうやらそのブロックは、プログラマブルなものではないかということが判明していきます……。
https://www.imdb.com/title/tt31806049/

問題への対応があまりに簡単になされるあたりが、低評価の理由の一部なのだとは思いますが、ブロックの正体とか、脱出へのアプローチとか、それなりに考えて作っていることがわかるのが、個人的には好ましいと思った理由です。というのも、似たようなシチュエーションで、理由や正体や解決を、ひたすら放棄してしまうような作品を観たからです。こちらはフランス映画ですが、『ザ・タワー』(ギヨーム・二クルー監督、2022)というのがそれですね。
https://www.imdb.com/title/tt15152316/

これも得体の知れない闇に外部が覆われてしまって、住民たちは中で右往左往するという状況パニックものなのですが、いつしか人々は、内部の派閥抗争みたいなことに明け暮れるようになっていきます。これってある種の寓意ということなのかもしれませんが、それにしても何が起きたのか、闇の正体は何か、脱出の展望はないのか、いろいろなことが語られずじまいで、観ていてさっぱり面白くありません。

事態の解明を端から放棄しちゃってる、みたいな話、とくに近年のフランス映画で、とりわけ目にするようになってきた気がします。まるで現実の社会的な閉塞感を、再現しているかのようです。たとえば『動物界』(トマ・カイエ監督、2023)とか、『またヴィンセントは襲われる』(ステファン・カスタン監督、2023)とか。前者は、人間が動物にミューテーションしていくという奇病が流行っている世界の中で、青年の自立を描く話。後者は、目を合わせるとなぜか相手が猛り狂って攻撃してくる、という不条理に苛まれる男の話です。
https://www.imdb.com/title/tt16606592/

https://www.imdb.com/title/tt23790924/

前者は、ランティモスの『ロブスター』(2015年)の影響を感じますが、そちらは作品世界の背景が、政策的・人工的に作られた変異の世界だったのに対して、上のフランス映画は、そこを病気という扱いにしてしまい、いたずらにカオスの度合いを高めている印象です。でも結局、発症のメカニズムとかへの言及もなく、青年とその父親が迎える結末も「擬似的な結末」という感じで、必ずしも納得いくものではない気がします。後者についても、納得のいかなさとしては同じような印象で、シャマランの『ハプニング』の影響なのか、最低限触れるべき、あるいは描くべき、必要な描写が十分に果たされていない、という宙吊り感だけがあとに残ります。

うーん。「その宙吊り感こそが、描き手側の意図だった」、とでもいうのでしょうかねえ。でも、仮にそうだったとしても、それはもうとっくに使い古されていると思うのですけれど(苦笑)。もうひと工夫、あっていいように思われます。さらにもっと練り込まれた、面白い作品を観たいなあ、と思う今日この頃です(苦笑)。