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通史的ナラティブの魅力

(bib.deltographos.com 2024/02/24)

昨年末にローラン・ビネの『文明交錯』を読んで、久々に戦記というか、政治史的な語りを読むときの、あのわくわくする感じを思い出しました。ビネの本はフィクションですが、何かそういった、スケールの大きな通史の語りをもっと味わいたいと思っていた矢先、kindle unlimited に、杉山正明『大モンゴルの世界——陸と海の巨大帝国』(角川ソフィア文庫、2014)という本が入っているのを見つけました。西欧史の向こうを張れるのは、やはりアジアの歴史じゃないとね、ということで、さっそく読んでみました。

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内容はおもにモンゴル帝国の通史ですが、当然ながらというべきか、東アジアや西方など、周辺地域への目配せもぬかりありません。まずもって、古代中国の前史から話は始まっています。このあたり、高校生くらいのときに読んだ『黄河の水』(鳥山喜一)を思いだし、個人的になにやら懐かしい思いがしました(『黄河の水』は、復刻版がkindleで出ていますね→ https://amzn.to/3Ta1Ekr )。そして話は次第にチンギス・カンのほうへ。そしてさらにクビライ・カアン(同書での表記です)、その後の衰退へと進んでいきます。

これらの主要人物の周りには、当然ほかの多くの武人たちがいて、さながら群像劇のようです。思うに、通史的な語りの醍醐味は、そうした「群像劇性」のようなところにあるのかもしれません。同書の語りも実に闊達で、なんともリズミカルなのですが、それはどこか、この群像劇的な、対比的記述に根ざしているように思われます。なかなか複雑な人間同士の対比、そして各人の運・不運の対比、などなど。

著者は著名なモンゴル史の研究者ということで、昔の教科書的な記述も様々な点で改正されている印象です。たとえば戦闘の仕方も、全面的な武力衝突というよりは、かけひきの要素が強く、城を落とす場合でも、無血開城となったケースが多々あったのだとか。分裂・対立の構図にしてもそうです。著者はこう記しています。

主家の事情でやむをえず戦場でまみえることになった親戚・知友同士が友好のあいさつばかりをして実戦しようとしなかったという話は、モンゴル帝国関係の史料がしばしば語るところである。こうした人間のネットワークはさまざまなレヴェルで織りなされ、それらの膨大なかさなりのんかで、モンゴルという同一性と一体性はゆるやかにたもたれていた。(p.230)

現実には、モンゴル帝国のなかにはさまざまなレヴェルの分権勢力がおり、それらのどこからどこまでがはたして「国家」や「政権」であるのかは、じつははっきりとはきめにくい。それらが全体として、ひとつのシステムをなしているのである。(p.233)

ゆるいグラデーション的な、大局的視点ですね。そうした視点からすれば、個々の出来事は、より大きな文脈の中に位置づけられるほかありません。日本への元寇についても、その狙いは、一度目は南宋の退路を断つため、二度目は余剰人材となった農民たちを移住させるためだったのではないか、と……。

このように、初版は1991年という同書は、世界史的な大きなスパンで解釈し直した、大変興味深いモンゴル帝国史でした。

 

ルジャンドルの舞踏論

(bib.deltographos.com 2024/02/10)

昨年春に没した、「ドグマ人類学」で有名なピエール・ルジャンドル。kindle版で読めるものとして、”La Passion d’être un autre. Etude pour la danse” (Seuil, 1978)を少し前に購入していたのですが、しばらく積ん読(電子書籍なので、あくまで比喩ですが)になっていました。で、ようやく、部分的ですが読んでみました。

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社会的事象への精神分析的アプローチというかたちで、異彩を放ったルジャンドルですが、同書でも、そのことは十分に感じられます。著作としては比較的初期の時代のものですね。自由な動きの発露としてあるはずのダンス(舞踏、舞踊)が、いかに社会的な権力に取り込まれ、制約を受けつつ、許容されたジャンルとして確立されるしかない様を、時代の変遷も絡めながら論じていきます。

ただ、70年代末の著書ということもあって、書き方がちょっと衒学趣味的で饒舌ですし、当時は普通だった、用語の定義をあえて示さないまま、論を進めていくスタイルが、今からするとちょっと古くさいと感じられるかもしれません。たとえば、社会的な権力のおおもとを担うものは、大文字で始まる「テクスト」とされますが、おそらくこれ、文典ということだと思いますが、定義はとくにありません。宗教的時代も、産業の時代、そして市場の時代(現代)も、そうした聖典・法的文献があってこその社会的権力装置だ、ということのようです。また、おそらく時代が変化しても変わらない、そうした底流の機構こそが、社会における「ドグマ」とされるのだと思います。

社会的な権力装置を「暴く」(というほどでもないかもしれませんが)、という意味では、精神分析を持ち出したりするところなどからして、かなり毛色の変わった社会論ですが、身体的行為、芸術的行為のいっさいが、権力のもとに置かれて、それに役立つよう搾取されているかのような暗い書きっぷりは、それなりに印象深いものもあります。

ただ、それでは形式的な布置を言いつのっただけで、権力の側はなぜ、またいかにして身体表現を取り込んでいくのか、どのような周到なプロセスが用意されているのか、表現の側はなにゆえに抵抗できないのか、などなど、生成的な側面への考察は見られません。そのあたりがちょっと不満というか、フラストレーションを感じるところでもあります。しかしこれ、とくに継承とかもありそうにない、ある種の屹立した思想である以上、ないものねだりは無理筋かなとも思います。

 

マウントウィーゼル(偽項目・虚構記事)とな?

(bib.deltographos.com 2024/02/06)

松本直美『ミュージック・ヒストリオグラフィー———どうしてこうなった?音楽の歴史』(ヤマハミュージックエンターテインメント、2023)を読んでみました。音楽の歴史記述の変遷を、面白おかしく活写した好著でした。増刷されたという話にも頷けます。

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著者は英国の大学で教えている音楽学者ということで、その講義風の語り口がとても印象的です。扱っている中身は、メタ視点も含んだ歴史音楽学の歩みが中心です。音楽の歴史記述では、なぜ伝記的な要素ばかりが取り上げられるのか、なぜ特定の音楽家が取り上げられているのか、彼らはいかにして名声を保ってきた(?)のか、なにゆえにどこかの時点で復活したのか、あるいは忘れ去られたのか、といった問題ですね。

そのトピックのあいだに、よい意味での脱線とでもいうべき、様々な逸話が語られています。まるで実際の講義みたい。それらがまた面白く、同書の魅力にもなっています。たとえば、日本ではかつて映画音楽全集みたいな企画の常連だった、「クワイ河マーチ」の原曲「ボギー大佐」が、英国では「鼻くそ大佐」として揶揄されていた、といった話など、思わず笑ってしまいました。

で、これまた意外な話で興味深かったのですが、有名なニューグローヴ音楽事典などには、実はいくつか「偽項目」(あるいは虚構記事)が忍び込ませてあるのだとか。これ、剽窃防止のための苦肉の策だったとのことで、19世紀以降の事典類では、伝統的な習慣として、そうした偽項目が散見されるのだとか。英国ではこれをマウントウィーゼル(山イタチ)と称するのだとか。これ、実に面白そうです!本当に剽窃防止になっていたのか、同じ偽項目がある事典はどれほど出回っていたのか、どれほど相互に影響しあっていたのかなどなど、たくさんの疑問が出てきます。偽項目だけに特化した研究書とか出ていないのでしょうか。個人的に、とても気になったのでした。

 

オマージュ映画2つ

(bib.deltographos.com 2024/01/28)

配信で観た最近の2本。これらはいずれも、結構胸熱のオマージュで成立しているかのような作品でした。

最初は、劇場公開ではあまりヒットしなかったらしい『ジョン・ウィック コンセクエンス』。シリーズの4作目で、原題はちゃんとchapter 4となっていますね。

https://www.imdb.com/title/tt10366206/

これにドニー・イェンが出ています。以前のスターウォーズ番外編『ローグワン』に続いて、今回もハリウッド作品では盲目の達人という役どころ。で、大阪のコンティネンタルで戦う場面で、彼が杖でコンコンと床を突くのですが、これがブルース・リーの『死亡遊戯』の1シーンを彷彿とさせます。

さらに、クライマックス近く、パリのサクレ・クール聖堂の階段を登るアクションが、まさしく『死亡遊戯』へのオマージュになっている感じです。しかもそこで言及される『死亡遊戯』は、リーの死後にリライトされた薄っぺらい版ではなく、(もともとの構想だったという)3人で登っていくオリジナル脚本のほうではないか、と思えるのです。そう、ウィックたちは3人で登っていくのですよね。

イェンはリーの『精武門』(『ドラゴン怒りの鉄拳』)のドラマ版リメイクで、リーのアクションの完コピをしたことで有名になった人ですが、その後も長くアクション映画に出演してきました。もう還暦過ぎですが、そのアクションの切れはまだまだ健在です。はっきりいって、キアヌ・リーブスのアクションが見劣りするほどです。

さて、もう一本、こちらは北欧(ノルウェー)のホラータッチのサスペンスものです。『イノセンツ』がそれです。監督のエスキル・フォクトがすでに公言しているようですが、これ、大友克洋の名作漫画『童夢』への、実にすばらしいオマージュになっています。

https://www.imdb.com/title/tt4028464/

というか、もはやこれは単なるオマージュを超えているかも。『童夢』を日本で安易に実写化したら、飛行シーンとかばかりに力点が置かれて、主人公たちの怒りや焦燥といった肝心な部分が薄っぺらくなってしまいそうですが、『イノセンツ』はむしろ能力をもった子たちを中心に、その内側の不穏な感じを淡々と描いていきます。

そしてクライマックスは、なんとも静かながら、とても緊張感に満ちた対決シーン。これはもう文句なしの名場面。まさに『童夢』の正当な焼き直し、といって差し支えないかと思います。

 

言語の創成!

(bib.deltographos.com 2024/1/24)

wowowオンデマンドで、『ペルシャン・レッスン——戦場の教室』(2020年)を観ました。ナチスの収容キャンプを描いた作品ですが、ちょっと捻りが利いているのは、主人公がペルシャ人と偽って生きのびようとする、という話になっているところです。ナチスの将校がペルシャ語を習いたいというので、この主人公は偽ペルシャ語を、文字通り「作り上げて」しまいます。これはシチュエーション劇として秀逸です。いつバレるのか、みたいな緊張感が、前半を中心に漂ってきます。

https://www.imdb.com/title/tt9738784/

この言語の創造過程も印象的です。まずは単語を作り上げなくてはなりません。その副産物が、最後に見事に利いてきます。統語法については描かれていませんが、劇中の主要な言語であるフランス語、あるいはドイツ語に準じたものになっているようです。このあたり、将校の側がその言語の虚構性を気づきそうな感じもするのですけどね。いずれにしても二人は、そうしてできあがっていく架空の言語で、会話できるほどになっていきます。なんというか、外国語学習につきまとう「虚構性」について、なんだか改めて考えさせられました。

ナチスの収容所を描いた作品は、『サウルの息子』などリアリズム重視なものが優勢で、こういう機知でもって難を逃れていくといったフィクション(実話からインスパイアされている、みたいな話ではありますが)は、これまであまりなかったような気もします(本当かな?)。本作の監督は、やはりとても印象的だった『砂と霧の家』(2003年)のバディム・パールマンです。なるほどね〜と思わず唸りましたね。ちなみにウクライナ出身の監督です。