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意外に動的なドイツ観念論の展開

このところ、欧米の時事的な出来事が相次いで、なにやら落ち着かない感じもありました。でもまあ、それでもなお普段通りが一番、というわけで、最近読んだものから。

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まずは、kindle unlimitedに入っていた『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』(村岡晋一著、講談社メティエ、2012)。ちょっと途中端折ったりしましたが、通読しました。これ、前から読みたいと思いながら、なぜかめぐり合わせが悪くて、これまで手にとることができていませんでした。もっと早くに目を通しておきたかったなあ、と今更ながら思いますね。

カント、ラインホルト、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルといった、ドイツ観念論の展開を、「アプリオリなものの源泉」をどこに置くかという点に着目し、追っていくという入門書ですね。これ、複雑な観念論をとても見事な整理してみせて、圧巻です。

カントの純粋理性では、対象と主観の関係性が問われるというのに、人間はアプリオリな形式として、対象の「はじまり」を捉えることができない、とされます。そのことを高らかに指摘するラインホルトなどは、では本人がいかにして関係性の外に立つことができるのかを答えていないといいます。フィヒテは関係性の基礎として、自己の定立・非定立の表裏一体性を持ち出してくるようなのですが、しかしそれだと今度は、(対象と主観の)差異のない世界が立上がってしまうことになるのでは、と。

シェリングは、自然と自己との一体性・同族性ということを言い募ります。さらに、差異のある世界を描くために悪の問題や時間の問題を取り上げていくといいます。ヘーゲルは、同じような問題意識から、他者の存在、ことばの問題を考察していく。承認欲求、主人と奴隷(奴隷こそが自由の成立の契機とされる)などの議論は、対象と主観の差異の問題として導入されているのですね。

総じてカント以外の論者たちは、自己を能動的な自由の観点から論じているようなのですが、著者によると、それは同時代に生じたフランス革命が、すべてを自由のもとに再構築したことの、大きな余波だったといいます。観念論の展開は、静的なものではなく、とても動的なものなのだということが改めてわかります。

 

言語化できないものへのアプローチ

先月下旬にwowowで放映された『偶然と想像』(濱口竜介監督作品、2021)を録画で観ました。

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3つの短編からなるオムニバス。少し場面の構成や台詞回しが、映画というより舞台を思わせる部分があって、独特な空気(というか違和感)を生んでいる気がしましたが、長回しの多用などが、そうした違和感を少しだけ和らげている感じもして、なにやらとても独特な映像的時空間を作り上げています。

3つの短編はそれぞれ、とても知的に構成されたシチュエーションや展開が見事です。友達が意気投合した相手が元カレだということがわかり、修羅場を作りかけることになる第一話、作家でもある大学の教員に、ハニートラップをしかけようとして、逆に言葉の応酬を通じて自己の解放を促される顛末を描く第二話、そして偶然の出会いをきっかけに、若い頃の思いを、やっと見つめ直せた2人の女性たちを描く第三話。この第三話などはとりわけ感銘を受けました。

共通のテーマとしては、一つには言語化できないものの言語化の試みというのが、ありそうですね言。語化できないものを、そのようなものと合点できた人々の、なおも言語化したいという思い。静かな画面とはうらはらに、登場人物たちの心の中は嵐がふいていそうです。そういえば以前観た同監督の「『ハッピーアワー』も、やはりそんな感じの力作でした。

 

ナラティブ論は拡張できる?

アンガス・フレッシャー『世界はナラティブでできている 』(田端暁生訳、青土社、2024) を読んでみました。

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物語思考(ナラティブ思考)を、単なるフィクション論などを超えて拡張しようとする試み。物語思考とは、ストーリー、つまり時間的な把握・展開でもって、ものごとを理解しようというもの。その発現形を著者はナラティブと称しています。

従来の哲学が論理を重視するあまり、もう一つの、オルタナティブな思考様式としての「物語思考」を抹消してきたとして、同書はその「偏重」を批判します。で、物語思考は、とりもなおさず、行動のための思考、理論に対立する実践的な思考にほかならない、とぶち上げています。するとその物語思考というものは、単なる「物語」の分析や表現へのこだわりを超えて、人間が用いる一般的思考の一つへと拡大・拡張されることになる、というのですね。生きる上での思考として。

でもこれ、ある意味、カントなどが論じていた悟性や概念についての話を、焼き直しただけのようにも見えますよね。人間は絶対的なアプリオリな論理だけで生きているわけではない、時空間に展開する対象物の概念形成をもってはじめて、理性的に判断できるのだ、みたいな。

いや、まあ、でもとりあえず、物語論・ナラティブ論を、より一般的な思考へと拡大・拡張していくというのは、面白い論点ではあります。でも、やはり気になるのは、先のフィクション論の本でも触れたように、そうした物語思考が悪用されたり、横道にそれたりする現実もある、という点ですね。フェイクニュースの話もそうですし、冤罪の元とされる、司法機関などの見込み捜査とかは、その際たるものでしょう。逸脱への対応も含めて、物語思考の批判(カント的な?)が、問われる気がします。

 

システム正当化?

「自発的隷属論」から進展しているの?

先月ですが、『システム正当化理論』(ジョン・Tジョスト 北村英哉 池上知子 沼崎誠訳)を読んでみました。うーん、結論から言うと、ド・ラ・ボエシーの『自発的隷属論』から、それほど進展してはいないような気が……(苦笑)。もちろん、現代の学術的環境に合わせて、データ的な裏付けや細かい理論的仮説が加わってはいるわけで、ボエシーの印象論的な議論は補強されているということなのでしょうけれど、それにしても、そこから大きく飛躍したという印象はありません。

この議論の要は2つ。1つは、ステレオタイプ化がイデオロギー的な支えをなしているということ。もう1つは、陣営内部が上位層と下位層に分かれ、下位層がなぜか上位層を支持してしまうという構造を持っているということ。

そもそもシステム正当化は、自己正当化、集団正当化では説明できない、ある集団内の「搾取される側であるにも関わらず、搾取する側を支持してしまう現象」を説明するために出て来たものだとされます。でもそうすると、上の2つめの議論は、同語反復にすぎず、説明になっていないような気もするのですよね。

説明らしいものとしては、たとえばシステム正当化の心性は、社会の予測不可能性などの不安感を緩和するなどと論じられています。ステレオタイプがそうした心性を支えているからだ、と。でもこれも同語反復的で、あまり中身を深彫りしているようには見えません。

問題は、不安感の緩和を遥かに超えて、システム正当化は、著者も指摘するように、システム変革への機運を削いでしまうことにあります。この点については異論はありませんが、ではどうするか、という処方箋は示されないまま。システム正当化という主張への異論や反論を受け止めて見せたところで、学問上はともかく、現実的な情勢に対応できる方途が得られるわけでもなさそうです。もちろん、自己肯定感などが強まることで、システム正当化との齟齬が起きる可能性も高まる、とは言われているのですが……。

 

フィクションと現実は……

(bib.deltographos.com 2024/04/28)

ジャン=マリー・シェフェールの『なぜフィクションか』(Pourquoi la fiction, Seuil, 1999)を見ているところです(ざっと3分の2)。少し前に邦訳も出ていますが、原書のkindle版も出ていたので、とりあえずそちらで。

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冒頭はとても面白いです。フィクション(本でも映画でもゲームでも)が隆盛する現代にあってもなお、西欧世界には、プラトンに端を発する、「フィクションへの恐れ」のようなものが執拗に存続している、その正体は難なのか……そんなことをめぐって話が進んでいきます。フィクションへの恐れとはつまり、その根底にあるミメーシス(模倣)の、人を巻き込み絡め取ってしまう伝播力への警戒感です。それに乗っかるかたちで、フィクションは現実との境界を突き破ってくるのではないか、圧倒的な現前の力でもって人を騙してしまうのではないか、と人(とくに西欧の)は恐れるというわけです。

著者のシェフェールは、しかしそれは問題を取り違えている、と指摘します。フィクション(文化的な作り物としての)は現実に闖入してはこない。そのあいだには大きな理論的飛躍がある。そもそもミメーシスには、楽しみのために想像力を用いるという、ポジティブな効果もあるではないか(アリストテレスがその点を評価している、と)……。ここから、「フィクションとは、ミメーシスとはそもそも何であるか」という問題が大きく取り上げられることになります。

シェフェールはこの問題に、いわば機能主義的な一元論で取り組んでいるように思われます。ミメーシスとはつまるところ、対象となる表象の認識にほかならず、対象が虚構か現実的なものかでの、機能的な違いなどない、と考えるのですね。もちろん対象が虚構か現実かでの区分もありえないくはないわけですが、もとが一元的であると捉えるなら、その区分はあくまでも事後的な、本質とは関係のない区分形式にすぎなくなります。そのようなスタンスから、心理学や文学理論などの様々な論者の主張が検証されていきます。形式分類論みたいになっていくので、このあたりは少し退屈な気もしますが……。

とはいえ、この機能主義的な一元論は、総じてとても強力です。現実と虚構の取り違えはそもそも原理的に起こりえないということになるからです。なるほど、文化的な作品世界なら、そのような取り違えは、実際に起こらないし、原理的にも起こりえないのでしょう。それは誰もがうっすら感じていることで、そこにあえて理論的な枠を設定してみせた、というのが同書の大きな功績なのかもしれません。

でも、今やフィクションと現実との境界は、また別の次元、別の社会的文脈で混交するような事態にもなっています。ここをどう考えるのか。そのあたり、一元論に突きつけられる新たな問題ということになるのかもしれません。