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悪態の裏側

小説や映画などにはときに、現実世界でならゆっくりと進行するような変化・変質が、なんらかの極限状態によって、過激なかたちで描かれることがあります。最近アマプラで観た『悪い夏』(城定秀夫監督、2025)にも、そんなシーンがありました。
https://www.imdb.com/title/tt35419785/

とある市役所で生活保護の申請を受け付ける職員が主人公で、自身はごく普通の職務上の対応をしているのですが、あるときヤクザがらみの脅し・ゆすりの一件に関与させられてしまい、一種の極限状態に追い込まれ、申請者にとんでもない暴言を吐いてしまいます。このシーン、半ば妄想的に描かれるので、どこからどこまでが実際に言い放った言葉なのかわからないのですが、かなり壮絶で印象的なシーンです。

映画自体は扱うテーマのわりには平坦な印象です。日本の住宅事情もあって、狭い部屋に大人たちが6人も7人も押し合いへし合いするというのが、すでにして画面設計上の難点になっていたりとか。でもその追い込まれて暴言を吐くというあたりは、誇張されたものではあっても、どこかリアリズムを感じさせますね。人が悪態をつく背景には、たとえ小さなものであろうと、なんらかの軋轢(とその積み重ね)があることが窺えます。

この作品を観て、個人的にまっさきに浮かんだのは、アーレントのアイヒマン解釈をめぐる論集『<悪の凡庸さ>を問い直す』(田野大輔・小野寺拓也編、大月書店、2023)でした。
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これによると、アイヒマンが組織の単なる歯車のような、凡庸な役人だったなどという見解はとうの昔に否定されているのだそうで、出世欲や功名心によって突き動かされて自覚的に職務を遂行していたというのが一般的解釈とされています。ユダヤ人をとくに憎んでいたわけではなくとも(その反ユダヤ主義は抽象的なイデオロギーにすぎなかったとされます)、「妬みや物欲、昇進への期待などといったさまざまな動機に突き動かされて、暴徒の群れに加わることになった」、「命じられた以上の成果を達成させていく有能かつ野心的な男の姿」が、そこにはあったというのですね。

しかしながらアーレントは、そこに思考の欠如を見出します。それは「全体主義の運動を批判的に捉える能力」の欠如のことで、後にはそれが「自身の独断主義のせい」だと言われたりもしていた、と。つまりは、「期待された役割を過剰に取り込みながら、昂揚感を追求したふるまい」にひたすら惑溺してしまい、それ以外が考えられないという思考の構えによるものだった、というのですね。

おそらくアイヒマンは長い時間をかけて、組織の中での自身の姿勢を練り上げていったのでしょう。その端緒を仮にぎゅっと圧縮・凝縮するなら、もしかすると上記の映画が描いた、主人公の妄想的で極端な文言に重なるのかもしれない、と思ったりしました。

「プロアイレシス」

昨年からずっとちびちび読んでいる Loeb版のエピクテトス『語録』は、ようやく下巻(3、4巻)に入ったところです。
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上巻のほうでも、また下巻に入ってからもとても気になっているのが、頻出する「プロアイレシス」という語。Loebのこの対訳では、ほぼ一貫して「right moral purpose」(道徳的に正しい目的)と英訳されているようなのですが、個人的にはこの訳語、妙に腑に落ちない気がし、なにやら居心地が悪くて落ち着きません。

エピクテトスは基本的に、人は自分が制御できる範囲とそうでないものを分けて、制御できる範囲・選択可能な事柄にのみ、自発的な働きかけを行えと説いているようなのですが、プロアイレシスはその文脈で登場し、エピクテトスは、このプロアイレシスから外れたことをしないよう心がけることが大事であると言ったりするわけです。

語源的には、プロアイレシスは「あらかじめ(プロ)選択すること(アイレシス)」ということで、そこから目的・目標、意図、企図、方針、さらには傾向、善意、献身などを意味するようなのですが、エピクテトスのテキストにおいてそれが正確にどのあたりのニュアンスを指しているのか、ちょっと解せない感じがするのです。

それは神々からもたらされた賜物なのだ、と語られていたりもし、「道徳的に正しい」というニュアンスはそのあたりを汲んでいるのかもしれませんが、制御の拠り所・基準点として、人間にあらかじめ備わっているなにかを指すとしたら、それは選択そのものと相容れないようにも思えますし、あるいは制御の可能・不可能性の境界線・分岐点に位置づけられるような何かにも思えます。基準をなすのですからとても重要なものであるはずですが、ではなぜそんな曖昧な位置づけになってしまうのか、なんだかよく解せない感じ……。こうしてこの数ヶ月、落ち着かない感覚をもちながらテキストと向かい合っていました。

で、ここへ来て少し新たな進展が。ちょうど、ダブルバインド理論などで知られるベイトソンの論集『精神の生態学へ』(岩波文庫)が、Kindle版で出ていたので、このところつらつら眺めていたのですが、これに、(明示されてはいませんが)プロアイレシスに関係しそうな文言があって、少しばかりヒントをもらえた気がしたのです。たとえばこんな一節。

意識の含む内容が、非意識的なマインドでの出来事からランダムに選び取られたものでないことは確実である。意識のスクリーンに映し出されているものが、マインド内の巨大な出来事の群がりの中から、体系的に選び取られていることは疑いない。しかしこの選択が、いかなる規則によって行われるのか、いかなるものが選り好みされるのかということについては、ほとんど何も知られていない。(下巻:「目的意識がヒトの適応に及ぼす作用」)

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なるほどサイバネティクス的・ベイトソン的に読むストア派哲学、というのは面白いテーマかもしれませんね。この話、先の悪についての話にも関係してくるはずですし、もう少しまとまったらまた取り上げてみたいと思います。

改変ルールゲーム小説

このところ、ご多分にもれずハマっていたのがNetflix配信の『イカゲーム』です。まだようやく第1シーズンを観終え、第2シーズンに入ったところですけどね。主人公のキャラが第2シーズンでは変わってしまっているようなのが、ちょっと微妙なところですが、とりあえず最終話まで観ることになるのかなあ、と漠然と思っています。
https://www.imdb.com/title/tt10919420/

でもこの『イカゲーム』では、全体的なストーリー展開というか、人間関係の妙味は興味深いものの、子供の遊びに命をかけるという基本図式がかっちりしすぎていて、第1シーズンでは少なくとも、遊びそのものになにか特殊な改変ルールが施されるといった趣はありません。その当たりが、少し物足りないような気もします。ゲームを主題にする作品としては、そういう特殊ルールを配した『カイジ』(ある意味名作漫画ですね)などのほうが、駆け引き、やり取りそのものの複雑さが増していて、いっそう引き込まれます。

そんな中、そういう改変ルール満載な小説を読みました。青崎有吾『地雷グリコ』です。これも子供の遊びを取り上げながら、そこにゲーム内容を複雑にする要素が付加されることで、駆け引きの面白さが格段に高まるという仕掛けになっています。
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でもこれ、ゲーム内容も複雑なら、主人公の勝ち方もなんともアクロバティック的(イカサマ的?)で、ちょっともう無法地帯なところまで行っている感じですね。なにしろ高校生が3000万円勝負に挑むみたいな話になっていきますし。雰囲気としてはどこか麻雀小説・ギャンブル小説に近い感じです。

確かに、思いもしないところから反撃がなされていく、というのは爽快ではありますが、ただあまりにそれが突飛だと、少し引いたりもします。「イカサマもあり」がそもそもの前提になっていると、なにかゲームのゲームらしさそのものを損ねたりするような気もするのですがね。

……なんてことを考えていたら、ゲームらしさというのはそもそも何だろうという点に引っかかりました。そのあたりの話はまたそのうちに。

悪というものについて

この夏もいくつか興味深い映画とかに出会いました。そのうちの一つが、ドミニク・モル監督作品『悪なき殺人』(2019)でした。数年前の公開作ですが、wowowオンデマンドの配信があったので出会えました。原題はseuls les betesで、英語タイトルもonly the animalsになっています。でも、やはり邦題がなんといっても秀逸ですね。映画は、ある殺人事件をめぐり、5人くらいを軸に、それぞれの物語を群像劇のスタイルで見せていくのですが、彼らのどこか因果めいたつながりが、「悪とは」「悪意とは」といった難しい問いを発せしめ、考察を促します。
https://www.imdb.com/title/tt10409498/

登場人物たちは、それぞれに心に満たされない空隙のようなものを抱えて生活しています。その空隙、あるいは空回りする欲望が、ときにその人物を突発的で予測不可能な行動に走らせます。多くの場合、それは誰か相手を巻き込むことになり、相手にも欲望とその障壁の狭間を生じさせ、いわば動物的な「悪のような行動」へと駆り立てます。こうして空隙は次々に連鎖をかたち作ってしまい、悪のような行動が人から人へと広がっていきます……。

その空隙、それはまるで手負いの動物の傷のようなものです。こんなことを思うと、まったく別の映画へと、タイトル(邦題)繋がりで思考が飛んでいきます(苦笑)。『悪は存在しない』(濱口竜介、2023)ですね。
https://www.imdb.com/title/tt28490044/

これ、それまでの濱口作品とはどこか違う、少し毛色の違った一作で、どう理解していいかなかなかわからないラストにいたり、騒然とした思いに囚われてしまいますが、女の子が亡くなるのが手負いの鹿に近づいたため、主人公が東京から来た開発業者に暴力的な行為を及ぼすのも、娘を失い手負いとなったため、というふうに見たまま解釈するならば、描き出している心的な力学は『悪なき殺人』にとても近いというか、相互に通底しているかのように思えてきます。

少し古めの本ですが、ジャン・ナベールの『悪についての試論』(杉村靖彦訳、法政大学出版局、2014)には、「正当化できないもの」という言い方で、人がなにかによって被る空隙について、次のように述べています。

それらはいかなる鎮めも想像できないような災悪であり、内的存在の裂開であり、葛藤であり、苦しみである。厳密な意味での悪とは、過ちのただ中で、いわゆる道徳的判断を排除することなく、道徳的判断を超えるものへと私たちを引き戻すものであるが、今述べた正当化できないものの形態としての災悪には、そうした悪と共通するところがある。共通するのは、規則に合っているか反しているかを決定する際に参照する意識のカテゴリーや機能によっては捉えられないという点である。(p.23)

その「正当化できないもの」を捉えるためにナベールが推奨する方途は、「正当化できないものの痕跡を探し求めた世界から、正当化できないものの真の源泉である自我へと還帰することである」(p.40)とされています。自己を見つめることができない(人に限らず動物もそうだとされるわけですが)状況に置かれたとき、いかにその傷を、空隙を、突発的な行動にいたる手前で引き受けていくことができるのか。上の映画たちはその答えを必ずしも用意しているとは思えませんが、それでもなおたえずそれを自己に(自我に)引き戻せ、とナベールは言っているように思われます。
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今年の夏読書の難物

今年の夏読書も、ちょっとした「難物」に取り組んでいます。スタンリー・カヴェル『理性の呼び声』(荒畑靖宏訳、講談社選書メチエ、2024)がそれ。日常的言語の哲学を考え抜くことによって、伝統的な哲学に切り込み、返す刀で、あまねく広がる(世間的な?)懐疑論に抵抗(?)しようという、なにやら刺激的な議論……のようなのですが。
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ところがこの本文は、一筋縄では行きそうにありません。カヴェルの依って立つところが、日常言語を重んじる立場(そもそもの出発点からして、哲学が通常の言語とは別の言語を語っているかのように示されることを批判する立場)なので、提示される事例(例文というか)は卑近なものだったりもするのですが、そこからその事例を前提に繰り広げられる推論、疑問、展開の数々が、文字通り広範に積み重なっていく感じです。それらを受け止めるには、読み手の側に、かなり大きな記憶領域、というか、ある種の「バッファ」が必要になってきます。こりゃ丁寧に読み進めるのは大変です!

もちろん読み飛ばしてしまうことだってできなくはないでしょうけれど、それだとなにか勿体ない気もします。ここは著者の議論に身を委ねてみたいところなのです(そういうふうに誘われてることも確かです)が、なかなかうまく前に進んでいきません(苦笑)。

普段、あとがきとか巻末の解説などから読むというのはあまりしないのですが、ここでは全体の見取り図を先に知るため、それが肝要かもしれませんね。そんなこんなで、このやや苦行的な読みは、まだしばらく続きそうです(そのうち放り出さないとも限りませんが(苦笑))。でも、内容的にはとても興味深いものです。なにしろ、ウィトゲンシュタインとオースティンにもとづく、言語哲学の再考なのですから!