「クロスオーバー」カテゴリーアーカイブ

翻訳実践と学知

翻訳のダイナミズム:時代と文化を貫く知の運動スコット・L・モンゴメリ『翻訳のダイナミズム:時代と文化を貫く知の運動』(大久保友博訳、白水社、2016)の第一部と第二部を読んでみた(全体は三部構成で、残る第三部は現代の数学の翻訳事例や共通語としての英語の問題が論じられるようだ)。第一部は天文学の文献を題材に、古代ギリシアの学知がいかにアラビア圏に翻訳され、さらにそれが中世ラテン世界に入っていったかを、比較的細かく描いたもの。第二部は一転して、近世から近代にかけての日本での、西欧の自然学の受容について論じたもの。全体を繋ぐのは、それらの学知の流入が翻訳という営みによって支えられていたという点で、同書はその翻訳の諸相を割と細かく描き出そうとしている。とはいえ、第一部はあまりに広大な歴史空間であるだけに、史的文脈・人的交流についての概論的な記述だけでも膨大な分量になってしまい、個別事例として挙げられた天文学的文献についての記述が制限されているきらいもある。実際、天文学的文献の翻訳に関する具体的事例はありまなく、言及されるおのおの文献そのものがどういった体のものだったか(先行する文献とどう異なっているか)とか、天文学そのものの進展といったあたりは、同書を見るだけでは今一つ浮かび上がってきていないようにも思われ、それが少しばかり残念だったりもする。

けれども、翻訳という側面についてクロースアップしているところは、邦訳の類書がそれほどない中でとても貴重ではある。個人的にはアラビア語訳に先立つ、ギリシア文献のシリア語への翻訳、ネストリウス派の独自の去就、というあたりがとくに興味深い。また、中世ラテン世界からルネサンス初期についての記述でも、西欧がおのれの遺産からアラビア経由の痕跡を積極的に消していった、というあたりの話は際立っている。原典主義がいわばイデオロギー的に確立していくなかで、アラビアの文献を派生物扱いとする野心が煽られ、ギリシアを祖と見る「権威」のシステムによって、たとえばアリストテレスは単なる「テキスト集成」にとどまらず、テキストの祖として逆接的に価値を高めることになる、と。

第二部の日本の話になると、スパンが限定されているせいか、通史的な視点と具体的な翻訳事例とのバランスはぐっと良くなる気がする。そこでの主眼は、日本における西欧のテキスト受容が、中国語文献の受容の延長線上にあったという話(連続の相で見ているところに、この場合は好感がもてる)。初期の、イエズス会士による中国語訳文献の流入から始まって、そのフィルターが結局は西欧の初期近代科学が中国に伝わらなかった阻害要因だったという話、さらにはそのことが、日本が朱子学的(国内で換骨奪胎され土着化した)教養をもとに、中国とは別筋に、思想というよりも技術面で西欧の知識を取り込む素地をもたらしたことなどが、その語りのメインストリームをなしている。それに続く、訳語に見る科学的言説の形成の話も、とても興味深い。本木良永による太陽中心説の受容、志築忠男とニュートン物理学、石川千代松による進化論、そして宇田川榕菴による化学……。極めつけは、その榕菴による元素名の訳語の話。これが序章の冒頭で示されている日本の元素表の独自性の話とつながって、ここでいったんループが閉じられているようにさえ思える。

ルイスの可能世界……

世界の複数性について
早読みできない・しても仕方ない部類のものとして今秋最大の一冊といえば、個人的にはやはりディヴィッド・ルイス『世界の複数性について』(出口康夫監訳、名古屋大学出版局、2016)。少し前からちびちびと読んでいるところ。でもって、さっぱりはかどらない(苦笑)。まだ一章が終わっておらず、その末尾あたりをウロウロしている。でもその様相理論(様相実在論)の考え方はなかなか興味深い、ということだけはわかる。「〜は可能である」「〜は可能でない」といった様相を伴った命題を、集合論的な考え方で捉え直すというのは、その命題の論理的な関係性、あるいは記述的妥当性を、大きく拡張することになる。たとえば「Aは可能である」という命題は真になるが、「Bは可能である」という命題は偽であるとされるような場合でも、それらの真偽の線引きを集合によって説明するならば、それらは別々の集合の要素ということになって、命題としての妥当性においては両者はともに同等ということになる。ただそれぞれの属する集合、つまりはそれぞれの立脚する世界が違うことによって、相対的・構成的に真理値が異なってくるだけだ、と……。

この集合論的な考え方は、思考ばかりか、たとえば言語そのものの捉え方などにも適用されうる、という。ルイスは人工的なミニチュア言語を想定し、たとえば修飾詞や結合詞などについて、それを「意味論的値を返すもの」という考え方で一種の関数と見なしている。文の意味論的値を真理値と同一視すると、それら修飾詞や結合詞は、その文の真理値を受け取って、真理値を返す関数となる(たとえば「真」を受け取って「偽」を返すとか、「偽」を受け取って「真」を返すとかetc)……。このあたり、なにやら大昔に読んだ、計算機での自然言語処理の教科書本を少しだけ思い出す(笑)。

「描像」と決別するために

実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)先頃出た、ドレイファス&テイラー『実在論を立て直す (叢書・ウニベルシタス)』(村田純一監訳、法政大学出版局、2016)を読んでいるところ。とりあえずざっと前半。原書も2015年の刊行のようだから、とても素早い対応だ。それほどまでに今、実在論の復権というのはかまびすしい動きになってきているということか。ここで言う実在論は、古典的な唯名論に対立するものではなく、むしろもっと根源的に、西欧に綿々と受け継がれてきた、認識論の媒介主義、つまり現実世界をある種の「描像」を通じて把握するという考え方を否定しようという動きのこと。無媒介主義と言ってもよいかもしれない。媒介主義は、古くは中世のスペキエス(可知的・可感的形象)概念からあり、その後17世紀ごろのデカルトの「心的実体」論やロックの内的記述(同書の著者たちはこれを媒介主義の起源と見ている)、さらにはヒュームの心的印象論、そしてはるか後世の現代においても、ローティやデイヴィドソンなどがその系列に連なるのだという(!)。媒介主義はこのように、懐疑主義や操作主義など、西欧的なある種の独善的な思想を生み出す底流をなしているといい、著者たちはそれを脱構築するという、一筋縄ではいかない作業を引き受けようとする。同書はいわばそうした宣言書にほかならない。

もちろんそうした媒介主義を打破する動きもないわけではなく、カント(同書では「基礎付け主義」とされる)から始まってヘーゲル、現代にいたってはハイデガー、ウィトゲンシュタイン、そしてメルロ=ポンティなどがその代表的な論者とされる。それらの議論の要は、要するに事物が全体的な体系の内部でしか開示されえないというスタンスに尽きる。とくにメルロ=ポンティは、無媒介的な身体ベースの志向性が予めあってはじめて表象的な志向性が可能になることを示したといして、すこぶる高く評価されている。著者らは、媒介主義の基本原理を4つほど切り出してそれらを批判している(それが前半)ほか、次いで描像から抜け出すための処方箋も4つ描き出していて、後半はそれらの詳述ということになるようだ。個人的には、このメルロ=ポンティの評価の部分と、またしてもカント/ヘーゲル路線の再評価というあたりがとりわけ刺激的だ。

オッカムの「本質主義」?

L'essentialisme De Guillaume D'ockham (Etudes De Philosophie Medievale)ちょっと毛色の変わった研究を、序文と結論部だけ先にざっと見てみた。マガリ・ロック『オッカムのウィリアムの本質主義』(Magali Roques, L’essentialisme De Guillaume D’ockham (Etudes De Philosophie Medievale), Vrin, 2016)というもの。オッカムのウィリアムはなんといっても本格的な唯名論の嚆矢なので、たとえば事物の共通本性などを心的な像もしくは概念に帰してしまうため、一般にそこで「本質主義」が云々されることはまずなかった(と思う)。つまり、複数の個物が同一視される場合、それは、そうした個物を同一視する者の概念的な理解を介在するがゆえなのであるとされる。そのため、個物になんらかの共通な本性・本質が備わっていると見なすのかどうか、というあたりのオッカムの議論というのは、ほとんど取り上げられていない(というか、そもそも改めて取り上げる価値がないとされてしまう?)印象が強い。ところがこの研究では、現代哲学の本質主義、あるいはアリストテレスの現代的な解釈(クワイン、クリプキ、キット・ファインなど)を一端経て、それらとオッカムの「現実的定義」なるものに注目し両者を照らし合わせることで、いわばこれまで明るみに出てこなかったオッカムの「最小限の本質主義」みたいなところに光を当ることを、大胆にも試みているという次第なのだ。中世哲学プロパーな議論ではないことも含め、方法論的にどうなのかという疑問もないではないが、例によって議論の詳細はまだ追っていないので、さしあたりそのあたりはコメントできない。時間が取れるようになったら確認したいところではあるけれど。

分析神学、分析宗教哲学?

分析美学も聞き慣れないものだったけれど、さらには分析神学、分析宗教哲学なんてものまであるようだ。マックス・ベイカー=ヒッチ「分析神学と分析宗教哲学:違いは何か」(Max Baker-Hytch, Analytic Theology and Analytic Philosophy of Religion: What’s the difference ? in Journal of Analytic Theology 4, 2016)という論文が公開されている。具体的な学問領域の定義はともかく、少なくとも両者がかなり微妙な境界線をもっていることだけは同論考から窺える。もちろん両者は分析哲学系のアプローチ(とくに可能世界論など)を踏襲したものらしく、同著者によれば、とくに分析宗教哲学は「神、死後の生、宗教的信仰、信条、宗教体験など、宗教的に意味のあるトピック」を扱う分析哲学の支流ということらしい。また、有神論全般を扱うのが分析宗教哲学だとすれば、とくにキリスト教の宗教的伝統に見られる神についての主張にまつわる諸問題を検討するのが分析神学だという。で、同論考は、両者の違いをまさしく分析哲学的な観点から掬い上げようとしているかのようだ。その大きな部分を占めるのが方法論的な違いなのだけれど、問題となっているのは聖書や伝承の扱われ方。聖書の命題を基本前提と見なすかどうかや、聖書の命題が特定の主張のみについての真理論になっているか、聖書が一般的に信頼しうる出典として認められるかどうか、認める場合に、それが認識論的循環論法として認められているのか、それとも非循環論法か(聖書以外の史料などを用いるか)などの分岐でもってケース分けを行い、分析神学と分析宗教哲学の境界線を確定しようとしている……わけなのだけれど、うーむ、やはりこれだけでは今一つピンと来ないか……(当たり前か)。やはりそれぞれの具体的な論考などを見てみないと。というわけで、これもまた個人的に、探求領域の拡大として少し面白そうな予感がする(?)。