「クロスオーバー」カテゴリーアーカイブ

中国思想の言語と政治

Timaeus. Critias. Cleitophon. Menexenus. Epistles (Loeb Classical Library)つい先日、プラトンの書簡集をLoeb版(Timaeus. Critias. Cleitophon. Menexenus. Epistles (Loeb Classical Library), Harvard Univ. Press, 1929)で読了する。とくに重要とされる第七書簡は、よく指摘されるように、プラトンが哲人政治を理想としつつも、その現実的な変節ぶりを受けて、次善の策として法治主義をよしとするという形になっていて、『政治家』などの考え方にダブっている。執筆時期も重なっているということか。けれどもここで気になるのは、その次善の策とされる法律による支配の内実だ。プラトンは明らかに成文法による支配と考えているように思われるが、初期のころに見られた、とくに書かれた言葉に対する懐疑の姿勢(『ゴルギアス』)は、ここへきてきわめて現実主義的な対応へと転換しているようにも見える。言語への懐疑がリアルポリティクスに絡め取られてしまう、ということだろうか……。

残響の中国哲学―言語と政治これに関連して、ちょうど読み始めた中島隆博『残響の中国哲学―言語と政治』(東京大学出版会、2007)が、中国の古典の例だけれども、ほぼパラレルな議論を投げかけていて興味深い。同書の第一部は、言葉と政治をめぐる議論として、『荀子』、言不尽意論・言尽意論の系譜、『荘子』、六家(諸子百家)のその後の展開などを取り上げている。ここでとりわけ注目されるのは、『荘子』に見られるという言葉(とくに書き言葉)への恐れだ。言葉は統治の基本をなしているとされるのだが、問題は言葉にはそれを乱す力もあるという点だ。したがって言葉の考察はまさに政治学と一体化している。で、『荘子』だが、そこでは意→言→書という価値的なヒエラルキーが設定されていて、前者が後者を包摂する関係にあるとされる。その最も重要とされる「意」は、いわば言語の外部のようなもの、言語を言語ならしめている当のもの、ということになり、かくして言は意を尽くすことができないという言不尽意論が出てくる。意に達するには、言を忘れなくてはならない、と。面白いことに、言尽意論者とされる王弼(226-249)が、意→象→言というかたちで、言の手前に象なる原初的な書き言葉を置いているのだという。それは予め忘却された原エクリチュール、ということらしい。意に至るには、その象こそを忘れなくてはならないとされているのだという。『荘子』のほうは、言を忘れたところ、是非や可・不可の対立の手前に、根源的なオラリテ(声)が鳴り響く状況を考えている、と著者は解釈している。原オラリテか原エクリチュールか。これは悩ましく(?)、また興味深い問題でもある。

また、次の指摘も興味深い。性悪説に立脚する『荀子』の場合は、意を尽くすことができない(言不尽意論)からこそ、ある種の強制力(刑罰)を導入することを説くとされるが、言を不要と見なす点において、それを忘却しようとする言尽意論と重なり合っている、とも同書では説かれている。要は二項対立ではなく、どのような条件が言語に必要なのかが問題なのだ、と。またさらに、同書の冒頭には、少し前に取り上げた、文字や画の誕生にまつわる張彦遠の一文が引用されているが、そこでは書字の確定によって、霊怪が姿を隠せなくなり鬼が夜哭いた、という部分に注目している。文化によって自然が文化化され、自然の秘密が露呈されると、もう一つの秘密である鬼もまた、その姿が露わになる、というのだ。文字と幽霊的なものとが複雑に絡み合っている様子だというのだが、これはとても意味深な一節だと思われる。

トマス/オリヴィからリードへ(リベラ本)

Archeologie Du Sujet: La Double Revolution: L'acte de penser (Bibliotheque D'histoire De La Philosophie)アラン・ド・リベラの『主体の考古学III – 二重の革命 – 思考の行為1』(Alain de Libera, Archéologie du Sujet III : La double révolution: L’acte de penser 1 (Bibliothèque d’histoire de la philosophie), Paris, Vrin, 2014)を、時間的に飛び飛びに読んでいるところ。第三巻めの前半ということなのだが、相変わらず、ある意味自由闊達に時空を飛び越え、中世と近代とを往還しつつ議論が進んでいく。仮定として出される理論やテーゼを独自のシーグル(略号)で表したりもするため、ちょっと油断していると前に出てきたシーグルの意味を忘れてしまって、そこまで戻らなくてはならなくなったりもする(苦笑)。その意味で、多少とも読みにくさはあるのだけれど、前の巻に比べてわずかながら図式的な整理が進んでいる気もする。すごく大まかな見取り図で言うなら、この巻の主要なテーマは、主体概念と客体(対象)概念のそれぞれが、ある種の「交差配列」を経て成立していく過程ということになりそうだ。

主体の側で言うと、アヴェロエスの知性の二重化(能動知性・質料的知性)によって導入された、思考する離在的「主体=エージェント」とでもいう概念が、アヴェロエス派に対するトマスの反論によって、いわば各人の内面に一元的に取り込まれることとなり、いわば分裂した主体(操作としての思考と対象としての思考)としての人間という考え方が広く定着していく(トマスの学説が標準として確定されることによる)。対象の側で言うと、トマスのその教説においては対象も二重化し、外的対象と、思考対象としての像(スペキエス)が確立される。やがて今度はペトルス・ヨハネス・オリヴィがそれを批判するようになる。そこでの眼目は、スペキエスなどの仲介物を介さない、対象と思考との直接的なやりとりを目することにあるのだが、オリヴィの説も、それに追随するフランシスコ会派の考え方も大勢を得るにはいたらない。それははるか後代にまで持ち越される。やがて出てくるのが、18世紀のスコットランドの哲学者トマス・リードだ。

リードは表象主義(観念説)を否定し、ある意味オリヴィ的な直接主義(直接的現実主義)を主張する。そこで否定される観念説というのは、外界の対象物の像(対象物そのものではなく)を認識の対象に据えるという立場で、いわばトマス的な像(スペキエス)の正統な末裔とでも言えそうなものだ。リードによれば、プラトンからヒュームまで、そうした観念(イデア)を認識対象に据えてきた点は共通だったとされる。デカルトなどもアリストテレスなどのくびきを揺さぶっただけで、そうした共通の教えを打破するところまでは行っていない、とも主張する。ここに一つの結節点を見て取るリベラは、一方でリードの継承者でも批判者でもあったウィリアム・ハミルトンなども取り上げていく。このあたりの詳細は第三巻の後半(現時点では未刊)を待たなくてはならないようだけれど、いずれにしてもこのように、リードとその周辺においてこそ、主体と対象のそれぞれの二重化は確立され、それらの交差配列が近代的主体の基礎となっていくというのだ。

文法と哲学

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)事前の予想通りというべきか、これはまた実に刺激的な一冊。國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)』(医学書院、2017)。表題にある中動態とは、一般的な能動態・受動態のほかに、古典ギリシア語などにある第三の態とされるもの。再帰的な動作や、そうした動作の結果もたらされた状態などを表すとされるのだけれど(同書では本来の意味の再構成・解釈がほどこされる)、これをまずは言語的に、次いで今度は哲学的に再考しようという一冊。言語的な議論と哲学的な議論がサンドイッチ的に(というか、どちらかといえば豚肉と白菜の挟み煮的に?)登場する面白い構成。まずは言語的な議論の部分がとても面白い。

今ならば能動態・受動態が対立するものとして示されるが、本来は能動態に対立するものは中動態ではなかったかという仮説を紹介している。米国の文法学者ポール・ケント・アンダーセンの説(古典ギリシア語の動詞活用は、能動態と中動態しかないという説)、言語学者ラトガー・アランの中動態の意味論(中動態は主語の被作用性を表すとする説)、そして大御所エミール・バンヴェニストによるインド・ヨーロッパ語族全体にわたる説(祖語においては中動態しかなかったかも、という仮説)、さらには日本の英文学者、細江逸記の文法論(実は日本語にも中動態的表現があるという話)などを援用して、中動態が全体の一種の古形であった可能性を示している。インド・ヨーロッパ語族の祖語(共通基語)の話などは、同書も述べているように憶測という域を出ないわけだけれど、少なくとも中動態的な表現の痕跡が現代語にも残っている(と見ることができる)のでは、というあたりは興味深いところだ。また、著者も言うように、バンヴェニスト(本書で最初に登場したときには、ちょっといまさら感も感じだが)の様々な着想の掘り起こし・掘り返しという作業は確かにやりがいのありそうな領域ではある。

さて、哲学的議論のほうは、この中動態と自由意志をめぐる問題が関連付けられて、そちらも面白い議論が展開している。能動・受動と意志の有無の問題は、必ずしも重なっていないとされ、そうした能動・受動の外側に広がるものを中動態という観念で手当できないか、という問いが発される。取り上げられるのは、「ギリシアには意志というカテゴリーは存在しない」というギリシア史家ヴェルナンによる示唆や、言語と思考との関係をめぐるバンヴェニストとデリダの対立についての再考、アーレントにおける意志論の陥穽(非自発的な同意という問題)、ハイデガーの意志批判とドゥルーズの「出来事」論、そしてスピノザの汎神論的世界観が、いわば中動態だけがある世界ではないかという指摘などなど。それら論考のいずれも、中動態的な考え方による批判もしくは再評価に貫かれている。

文法が哲学的思想の枠組みに大きく影響しているという話は昔からあり、個人的にも学部生時代に受けた故・西江雅之氏の言語人類学の講義などが思い出されるが(西欧の存在論がbe動詞の枠組みに大きく影響されているという話など)、ここでは中動態が一種の被抑圧形態として示され、それが能動・受動の区別に収まりきらない残余、ひいては意志・強要の区別の外側を成すものとして引き合いに出されている。なんとも示唆的だ。ほかにも、細かい話になるけれど、アリストテレスの10のカテゴリーが、ギリシア語の基本的カテゴリーを反映したものだという話(バンヴェニスト)や、ストア派の出来事の理論の背景に動詞とその活用の重視があり、一方のエピクロス派が原子論と「傾き」の議論を展開した背景には名詞の格変化の重視があったという話(ドゥルーズ)なども言及されている。ストア派にならって動詞を礼讃するドゥルーズにしてからが、人称も時制も態もない「フランス語の不定法」にもとづいている、という指摘もある(ギリシア語の不定法には時制や態がある)。これらは改めて考えさせられる諸点。文法と哲学の密接な関係というのは、もっと前景化されてしかるべきなのかもしれない。

ブレイエとマクタガート

前回の記事で取り上げたブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論では、その時間論について、訳者の江川氏の論考部分が次のように指摘している。ディデュモス(前一世紀の文献学者)が言うには、「クリュシッポスは、現在だけが<存在する>のであって、過去と未来は<成立する>が、けっして存在しないと述べている」という(p.157)。それはつまり、現在が行為・活動そのものとして限定されている(有限の時間)がゆえに、実在的な出来事を含むものとして「存在している」とも言える、ということだと解釈される。時間は非物体的なものなので、そもそも「実在」してはいないからだ。一方の過去や未来は、無限の時間に属し、「現在」の外側に無限に広がっているとされる。江川氏によれば、それは時制的・人称的に活用された動詞によって表される出来事ではなく、不定法的に表される出来事なのだという(p.158)。ここで、この「現在」の問題がにわかに注目される。

時間の非実在性 (講談社学術文庫)そしてこれはとても既視感のある問題でもある。折しもつい最近、時間の非実在性にまつわる哲学史的にも重要な論考がようやく邦訳され刊行された。ジョン・マクタガート『時間の非実在性 (講談社学術文庫)』(永井均訳、講談社、2017)だ。よく知られているように、マクタガートは、モノが時間的に実在するという場合、それは二つの「系列」のいずれかに準拠して言明されなくてはならないという仮説を示し、その二つ、つまり過去から現在、未来へと実体の変化が位置づけられるA系列と、実体が静的な前後関係にのみ置かれるB系列のどちらも、時間の実在を立証するものではないことを論じていく。「現在」の問題は、そのA系列について論じる際に出てくる。いま経験している知覚について言明するには、それを一定の幅のある「見かけの現在」で限定するしかないが、出来事が実在的に通過していく「実在的な現在」はその見かけの現在とはどうあっても一致しない。そこには矛盾が生じる。結局、そもそも実在的な現在はそれ自体として規定されることはなく、一方の知覚される現在とは錯覚にすぎない。すなわち、両者のいずれであろうと「現在なるもの」は実在しない、ということになってしまう……。

こうしてその議論は、ブレイエが説くストア派の非物体的なものの議論と実に見事に重なってくる。マクタガートもまた、A系列にもとづく過去・現在・未来が、動詞の時制にもとづく文法的なものであることを指摘してもいる。時間はこうして「レクトン(言明できること)」に括られるしかないのだろう。余談ながら、ブレイエとマクタガートの両作品が1908年という同じ年に刊行されていることもなにやら示唆的かもしれない、なんて(笑)。マクタガートのこの邦訳も、ブレイエ本と同様に、訳者の永井氏による注解と論考が収録されているのだけれど、そちらもまた、まさしくこの「現在」という問題に切り込んでいる。

ロザンヴァロンを推す

カウンター・デモクラシー――不信の時代の政治ちょっと宣伝(笑)。拙訳でピエール・ロザンヴァロン『カウンター・デモクラシー――不信の時代の政治』(岩波書店、2017)が刊行された。民主主義というと、どうしても選挙制、代議制が念頭に浮かび、そうした制度のことを指すのだと思われがちだけれど、実は古代ギリシアの昔から、それに並立するかたちでもう一つの民主主義の動きがあった。すなわち、おもに行政権を監視し、それを批判し、ノーを突きつけるという側面だ。歴史的に、それはときおり制度化されたりもしたが(古代ギリシアがそう。ある意味、西欧中世にもそうした事例は見られるというし、アメリカの初期の憲法草案にもそうした考え方が盛り込まれていたという)、制度化されないまま社会運動として継承されてきもした(フランス革命後や英国で、なぜ結局それが制度化されえなかったのか、という点についても、同書は問題として取り上げている)。そして現在の政治において再度見いだされるべきは、まさにそうした監視・阻止・審判の機能ではないか、そうした機能を復権させることが喫緊の課題ではないか、と説くのがロザンヴァロンの同書だ。カウンター・デモクラシー(対抗民主主義)とは、そういう意味でのもう一つの民主主義の流れのことを言う。

ロザンヴァロンはすでに邦訳がいくつかあり、その名前は政治学・社会学・歴史学の研究者には知られているところだというが、より一般的にももう少し知られてもよいのでは、とも思う。ロザンヴァロンは1948年生まれ(ロワール・エ・シェール県ブロワ)。高等商業学校(HEC)の出で、フランス民主主義労働同盟(CFDT:つい先日、民間部門の加入者数で初めて労働総同盟CGTを抜いたと報じられた労働組合)で政治活動に精力的に関わった後、ふたたび研究活動に入り、歴史学・政治学の分野で様々な著作を発表してきた。一方で82年にサン=シモン財団(シンクタンク)を作ったり、2002年には「思想共和国」という知的グループを立ち上げたりと、中道左派系を中心とする人的交流の結節点にもなっている「大物」でもある。今回の『カウンター・デモクラシー』は、上のようにきわめて重要な問題を扱っているのだけれど、本としてはいわゆる学術的エッセイで、どこか衒学的な書きっぷり(フランスでは、学術系の著者は出版社側からそういう姿勢を要求されるらしいのだが)なので、一見あまり一般向けではない印象を持たれるかもしれない。けれども、内容がきわめてアクチャルでもあることだし、できれば一般の読者の方々にも、そういう堅苦しい部分をなるべく差し引いて読んでいただけたら、と切に願う次第である。