「スアレス研」カテゴリーアーカイブ

「スアレスと形而上学の体系」 9

クルティーヌのこの本は夏休み前に読了するつもりが、ずるずると遅れてしまっている(笑)。ま、いっか。そんなわけで、第三部(一章だけで構成されている)。クルティーヌが同書で何度も提示しているテーゼは、スアレスがトマス派を自称しドゥンス・スコトゥスを批判しているにもかかわらず、その基本的姿勢ではむしろ結果的にスコトゥスを継承している、というもの。両者が重なりあう部分はいろいろあり、形而上学の下位区分(共通の存在者を扱う形而上学と、神的なものを考察に加える形而上学ということで、これは後の時代の存在論と神学の完全分離を導くことになるらしい)もそうだし、前者に絡んだ存在者の超越論的な議論もそうだという。この第三部では、とくにその「存在者の超越論的な諸相」について、スアレスがアヴィセンナ=スコトゥスの系譜の延長線上にあるということを詳細に論じている。

途中、著者は超越論(transcendentia)の用語の歴史も簡単に振り返っている。アヴィセンナの初期のラテン語訳には見あたらないそうなのだけれど、アルベルトゥス・マグヌスはしっかり使っているといい、クレモナのロランドゥスの『神学大全』が嚆矢ではないかとのこと。とにかく13世紀初頭の頃にこの語がラテン的西欧に定着し、それが意味するところはensだったりresだったり、unumだったり、aliquidだったりするようだ。いずれにせよ、transcendentiaがテーマとして定着するきっかけはやはりアヴィセンナにあり、ボナヴェントゥラのアウグスティヌス主義を介してスコトゥスその他に受け継がれていくらしい。

アヴィセンナが本質(essence)の付帯的条件(それの外的・偶有的性質が強調される)を重視するのに対して、スコラの人々はアプリオリに課される「帰結」や「付帯性」を関係性として取り出すことに腐心する。こうして、超越論的な属性の適用による事物の限定が問題になり、res、unum、aliquid、verum、bonumなどを存在者の属性としてどう位置づけるかで見解が分かれる。当然ながらトマスとスコトゥスではその位置づけはまったく異なり、決定的に違うのは、トマスが超越論的属性をratio entis(存在者の原理)の下位区分として位置づけているのに対し、スコトゥスはratio entisとは別に、何性の概念(conceptus quidditativi)に対立する性質上の概念(conceptus qualitativi)という区分を用意し、その下にそうした属性を置いていること。スアレスはというと、超越論的属性の数を三つ(unum、verum、bonum)に限定した上で、それを「存在者の同義語」と見なし(存在者は存在を排除しない一種の中立的な名称のように扱われているらしい)、そうした属性は「有限・無限」のように相互に矛盾する限定を被る(passiones disjunctae)としているらしい。するとこれが、上のスコトゥスの性質上の概念に重なってくることがわかる。とにかくスコトゥスもスアレスも、存在者というのは知性が何性を認識する際の概念・名称であるとして、それが何性とは別次元での限定を被ると考えている……ということでよいのかしら。うーむ、このあたり、なかなかに精妙でわかりにくいところだが……。

「スアレスと形而上学の体系」 8

スアレスが唱える形而上学の対象は、「可能性」としての存在者だという話になった。で、第二部第五章は、ならばこの可能性とはどのようなものなのか、という観点でスアレスの議論を眺めるという趣旨となっている。で、まずこれは、ガンのヘンリクスなどが提示する(とスアレスは言う)可能態の自律した秩序、神そのものも与り知らないとされる秩序を批判するものなのだという。スアレスは、「現実としてあるものは創造されたものである以上、存在を与える神の決定に対して後続する関係にある」とし、かくしてスコトゥスの考えるような「認識された存在」のごとく、存在の現勢化を考慮しない、あくまで存在するものの「名称」を問うにとどめるのだという。

さらにスアレスは、神がもたらす絶対的な可能態という意味での絶対的可能性を肯定的なものとする(否定的定義に対立する)。つまりそれは無ではない何かであって、しかもそれは神という絶対的な力によって担保される何かということになる。また、角度を変えて今度はその神の端的な知性が可能態をいかに認識するのかということを思い描くと、可能態そのものにはやはりなんらかの内在的な現実がなくてはならないということになる。スアレスはそれを「存在に向かう性向」(aptitudo ad existendum)と称する。これが著者の言うところの「モノ性」だ。スアレスにおいて、こうした可能的存在は、理性的存在(理性が捉えた存在)に対して、実在しうるという意味での余剰性を持つのだけれど、著者によれば、それはほとんど無に近いような余剰性だ。けれども、かくして導入されたこのわずかな実在性・現実性が、形而上学の転換という大きなギアチェンジをもたらすことになる……(?)

「スアレスと形而上学の体系」 7

第二部第四章からメモ(本文全体の要約ではありません)。「存在者」「非在者」の区別を考えるために、著者はスアレスのテキストではなく、いきなりその後世の発展形を探ることから始める。17世紀からカントにいたるドイツの「大学哲学」(Schulmetaphysik)だ。詳細は思いっきり省くけれど、そこではまず、「可能」と「不可能」が区別されるといい、「存在者」を「可能なもの」から決定づけるというやり方の根底には「無」と「何か(有)」という対立が横たわっているという。その意味で、その「何か」は「存在者」というよりも「モノ」(Ding)という概念のほうがしっくりくることになる。「存在者」と「モノ」の同一視という意味で、それはまさにスアレスの残響をなす……。

著者によると、上の「無」を「否定的無」ととらえる基層があって初めて、形而上学は「存在論」(近代的な)として成立する。その分岐点というか出発点となるのが、著者の考えではどうやらスアレスの形而上学ということになるらしい。「無」が「否定的無」(=不可能性)として見なされるということは、逆に「有(存在者)」が肯定的な「モノ」と捉えられることを意味する。その場合の「モノ」というのは、モノ性(objectité)自体にまで抽象化されたモノのこと。スアレス言うところの「ens in quantum ens reale esse」(これ、「実在である限りの……」と訳すのはよくなさそうで、むしろ「現実的存在者である限りでの存在者」みたいにしないといけないかも……反省)は、まさにそうした抽象的なモノに対応する。それはまた、実在性を捨象した「ありうる」存在のことで、まさしく「可能なもの」でもある。ドイツの大学哲学はスアレスの形而上学をラディカルにしたものだという所以だ。この、存在論へと形而上学が傾斜していくその第一歩は、エギディウス・ロマヌスあたりに認められるともいう。

「無」と「有」の関係から存在論が成立するのだとすると、問題になってくるのが存在者の被造物としての性格だ。ボナヴェントゥラトマス・アクィナスが引かれているけれど、伝統的に、被造物はそれ自体では「非在=無」である(神によって存在は与えられる)という考え方は長く温存されてきた。エックハルトにおいても、被造物のあり方を存在と無の緊張関係から説き、神と被造物の間に明確な線を引く。ところがスアレスにいたると、その関係性をひっくり返し、被造物を分有(神の存在への与り)的に「有」であると考えようと企てる、というのだ。つまりは被造物としてのあり方を捨象し、神への存在論的な依存を排するというわけだ。被造物の裏側に貼り付いていたもともとの「無」は、剥がされて別次元の「否定的無」(不可能性)へと追いやられ、同時に表側の「有」は被造物という性格を失って「肯定的有」(可能性)へと転じていく……。うーむ、なんと大胆な転換であることか……(?)

「スアレスと形而上学の体系」 6

スアレスが「実在である限りにおいての存在者」を形而上学の考察対象と規定した、という話を受けて、続く第二部の三章から五章までは、スアレスの考えるその存在者とはどういうものなのかという議論が展開するようだ。まずは三章。ここではスアレスが、ens(存在するもの、存在者)とres(事物、モノ)とを同一視していることが指摘される。著者によれば、これもまたそれ以前の考え方をひっくり返すものなのだという。それまでは一般に、ensがsumの分詞形であることから本質の現実態を意味し、一方のresはその「何性」、つまりは本質を意味すると解釈されていたという。

著者はここで、スアレスみずからが振り返っているそうしたensの従来型解釈の変遷を、改めて確認しつつまとめていく。まず上のような解釈の嚆矢はカエタヌス(1469 – 1534:イタリアの神学者で、トマスの注釈書で知られる人物)にあるという。ensを分詞形と見るか、名詞形と見るかで、その語が指す内容が異なるという議論はそれ以前からあったらしいのだけれど(14世紀のジャン・カペレオルス)、カエタヌスと、とりわけその同時代人シルヴェストリス・デ・フェラーラ(1474 – 1528、同じくイタリアのドミニコ会系神学者で、やはりトマスの注釈書がある)が、トマスのesseとessentiaの区別に絡めてその議論を再び取り上げ、ensとresの明確な分割を導こうとしていたのだという。ところがスアレスは、この分割をひっくり返してしまう。どうやらそれは、ensの名詞的解釈(「存在を有するもの」)を拡張する形で、「存在を有する、もしくは有しうるres(事物)」と同一視するという議論らしい。なぜそんなことをするかというと、こうすれば形而上学の対象としての「存在」から、その現実的存在・現実態を捨象でき、翻って存在者はあまねく「実在的な存在者」として扱えるようになるからだ。著者も言うように、これはほとんどスコトゥスの存在の一義性のような話になってくる。うーむ、このあたりを読むに、スアレスはかなり戦略的な人というイメージかも(笑)。また、ensの分詞的解釈は、名詞的解釈の対立項としては無効になってしまい、代わりに「非在」が対立項として考察されるようになってくるという。このあたりが次章で取り上げるトピックとなるらしい。

「スアレスと形而上学の体系」 5

少しペースが落ちているけれど(苦笑)、相変わらず読んでいるクルティーヌ『スアレスと形而上学の体系』。第二部第二章は、主著の『形而上学討論集(Disputationes metaphysicae)』の序論部分を読んでいくという趣向。この『Disputationes』は1597年刊ということで、スアレス49歳のころの書。その序文では、スアレスは神学と形而上学との状況について規定しようとしているという。それ以前の議論とは逆に、スアレスは神学すらも、理性にもとづいて予め確立された哲学的な原理に根ざさなくてはならないとの立場を取るのだという。著者クルティーヌはこれを大きな転換だと見ている。なるほど、これは確かに中世の神学と哲学の関係の逆転だ。かくして形而上学は完全な自立性を達成することになるのだと……。これが第一点。

続いて、やはり同じく序文の議論を追いながら、クルティーヌはスアレスが考える形而上学の対象が何なのかを見ていく。スアレスはその際に、形而上学の歴史的な展開を念頭に、従来型の6つの立場をそれぞれ批判していく。全体的に、スアレスは先の「哲学的対象への神の落とし込み」を継承・発展させる立場にあるようだ。その意味ではそれはトマスの見解に対立するし、一方で神すらも存在神学的な「論理」に従属させることにもなるという。では神をそういう学知に取り込むには、それはどういう学知でなくてはならないということになるのだろうか?神をも取り込む学知の「対象」とは何か?ここでスアレスが批判する6つの立場は、形而上学の対象をそれぞれ(1) 抽象的な存在全般、(2)理性における存在を除く存在全般、(3)最も個的な存在者、(4)神および被造物の知性、(5)範疇で分割される限りでの存在、(6)実体そのもの(これはビュリダンの立場とされるもの)となる。最初の2つはその対象のあまりの広さが、続く2つはあまりの狭さが、最後の2つは学的な威信に満たない点が批判される。で、そうした批判の中から反照的に浮かび上がる(6つの合間をぬって見出される)スアレスの見解では、「実在である限りにおいての存在者こそがこの学知の適切な対象」(ens in quantum ens reale esse objectum adequatum huis scientiae)となるのだという。この、一見内実の空虚な規定を擁護することにこそ、この『形而上学討論集』全体が費やされていくのだと……。うーむ、この規定の内実がもっとよく知りたくなってくる……。