「スコトゥス研」カテゴリーアーカイブ

注目は神学的側面か

未刊行の「オックスフォード倫理学史の手引き」なる書籍に収録予定の原稿らしいけれど、トマス・ウィリアムズ「フランシスコ会派」(Thomas Williams, The Franciscans)という文章がpdfで転がっていた。フランシスコ会派の倫理学系の議論がまとめられているほか、最近の研究動向などにも言及されていて参考になる。さっそくメモ(笑)。まず指摘されているのは、フランシスコ会の全体的論調を反アリストテレス的・アウグスティヌス主義的と断じるジルソン流の括りはもはや古いということ。彼らがアリストテレスそのものに批判的だったのではなく(もちろん、オリヴィのようないっそう過激な批判的立場はあったにせよ)、1260年代まではいわゆるアリストテレス主義の急進派を、そして1270年代以降になるとトマスとその一派の解釈を問題にしていた(確かにこれは方々で散見される)。とりわけ1277年のウィリアム・ド・ラ・マールの批判書「トマス兄弟を正す書(Correctorium fratris Thomae)」などが転換点だという。

続いて紹介されるのはフランシスコ会派の特徴とされる主意主義。著者は、初期には心理的主意主義(知性よりも意志を重くみる立場)、ボナヴェントゥラ後には倫理的主意主義(心身の諸力を司るのは知性ではなく意志だとする議論)、そしてスコトゥスやオッカムにおいては神学的な趣意主義(神は知性が認識した真理に制約されることなく意志によって道徳法を制定できるとする議論)が見出される、とまとめている。で、ここから著者はスコトゥスとオッカムそれぞれの倫理学的な議論を対比的に見ていく。たとえば徳の問題。スコトゥスは自由意志の中に徳への強い傾向が必然的に結びついていると見るのだけれど、オッカムにいたっては自由意志にはそんな結びつきはないと断じるようになる、と。あるいは知性と意志との関係性。スコトゥスは当初、トマスやゴドフロワの主知主義とヘンリクスの主意主義の中間的立場に立っていたものの(知性はなんらかの作用因を担う)、後にヘンリクス側とほぼ同化する(意志のみが作用因であり、知性はその前提条件をもたらすのみ)。オッカムはむしろ初期のスコトゥス寄りで、知性の認識い意志の行為の部分的な作用因を認めはするものの、その上で「知性の中立性」という立場をさらに強め、知性的判断は意志を決定づけないと断じているという。

うーむ、スコトゥスとオッカム(さらにはヘンリクスも)は相変わらず対比的に語られはするけれども、だいぶそのトーンは弱められ、かつてのように両者が鮮烈に対立し合うという見識ではなくなっていることがわかる。著者はまた、神の法についての解釈をめぐっても同じような変化が見られるとも指摘する。かつてはスコトゥスやオッカムが神の意志は神の知性によって制約されないと論じているとされていたものが、70年代ごろからスコトゥスが神の理性面を重んじているという点が強調されるようになり、80年代から90年代にはオッカムもそうだという論調が支配的になっているという。おそらくこのあたりは、単に哲学的な急進性ばかりでなく、神学的議論への目配せがなされるようになった点が大きい気がする。で、そうした神学的な面の再解釈はまだ進展する余地もありそうで、今後が大いに期待されるところでもある……。著者もまた、神学的主意主義が巻き込む他の哲学的議論は、両者についてさらに検討を進めなくてはならないと述べている。さらに、オッカム以後のフランシスコ会系の論者にも光を当てるべし、とも。まったく同感。

スピノザとヘンリクス……

スピノザの形而上学。そこで有名と言われるのが属性概念に関する解釈の対立だ。スピノザの場合の属性というのは、実体において本質を構成するものとされるけれど、これをめぐり、属性は概念的にのみ区別されるとするのが主観的解釈で、いやいや属性はそのものとしてあるような区別されるものなのだ、というのが客観的解釈だと言われる(この属性論争については松田克進「スピノザ解釈史における「属性」論争」(PDFはこちらという論考があり、とても参考になる)。で、この大きな対立について、ヘントのヘンリクスやドゥンス・スコトゥスを参考にして一石を投じよう(笑)という論考を読んでみた。ジェイソン・ウォーラー「スピノザの属性と、ヘントのヘンリクス、ドゥンス・スコトゥスにおける「中間的」区分」というもの(Jason Waller, Spinoza’s Attributes and the “Intermediate” Distinctions of Henry of Ghent and Duns Scotus, Florida Philosophical Review, Vol. IX, issue 1, summer 2009)(PDFはこちら。要するにこれは、スピノザが考える属性が、実は13世紀のスコラ哲学で考察されていた「中間的」区分、すなわち実際の区別よりは「弱い」ものの概念的区別よりは「強い」という中間的なものを設定しようという立場、とくにヘンリクスの立場に意外と近いのではないかという話。そう考えると、主観的解釈・客観的解釈それぞれの不備が解消されるのではないかという次第だ。ま、この話の是非はスピノザの研究者に任せるほかないのだけれど、個人的に面白いのは、論考の論旨そのものからすればズレるけれど、そこで引き合いに出されているスコトゥスとヘンリクスのそれぞれの違いのほうだったりする(笑)。

実在的には同一と見なされるのに知性による理解としては区別されるようなもの、たとえば実体における存在と本質でもよいし、神学的には三位一体でもよいのだけれど、ヘンリクスはそういうものについて「志向的区別」という概念を提示する。これは対象の実在性をベースにした考え方のよう。存在と本質はこれで説明できるというわけか。対するスコトゥスは、そうした志向性の区別を考える上で実在性をベースとするのは不十分だとし、おそらくは三位一体までをも考察しようと「形相的区別」を唱える。区別は形相つまり定義の違いに還元される。スコトゥスは外部世界と概念世界にある種の同形性を見ようとするというわけか。両者の議論の力点の違いが興味深い。

「名称論」とスコトゥス

前回の「非存在主義」とかビュリダンの話にも関連するのだけれど、スコトゥスによる「名称論」に関する論考があるというので早速覗いてみているところ。ジョルジョ・ピニ「ドゥンス・スコトゥスおよび一部同時代人らにおける名前の意味」というもの(Giorgio Pini (2001) SigniŽcation of Names in Duns Scotus and Some of His Contemporaries, Vivarium, 39(1), p.20-51.)(PDFはこちらに)。とりあえず前半だけ。ものの名称は一体何を表しているのかという問題は、13世紀ごろ盛んに議論された問題。なにしろそこには認識論(というか、またしてもスペキエス問題)が絡み、やや複雑な様相となっている。同論考では、アリストテレスの『解釈について』の注釈でその義論に参戦したドゥンス・スコトゥスによる整理を追いながら、スコトゥス自身の立場を明らかにしようとする。当時の議論としては、(1)名称が一義的に表すのは知的スペキエス(可知的形象)であるという立場と、いやいや(2)外部の事物そのものであるという立場に分かれ、この後者はさらに、(2a)そこで名称が意味するのは外部世界の個物だという立場と、(2b)そうではなく理解・認識される限りでの事物の本質なのだという立場に分かれるという。13世紀前半はスペキエス論寄りの(1)が優勢らしいのだけれど、トマス以降は(2b)などにシフトしている模様。ただ、理解・認識をどう捉えるかによっては、これは(1)のスペキエス理論にかなり接近してしまう場合もあるようだ。スコトゥスはどうかというと、どれを支持するのか微妙に曖昧で、アリストテレスの正確な解釈としては(1)が、けれども全般的な議論としては(2)、とりわけ(2b)(?)が優れているといった立ち位置らしい。

スコトゥスが(2)に傾くのは、外部世界の事物の消滅後も名称はその事物を表し続けるのかという問題(「空の名前」議論)、あるいは固有名、およびフィクションもしくはキメラなどの虚構物が名前で意味されるのはどう説明されるのかという問題において、スペキエス理論がうまく説明をつけられないからだという。このあたりはまさに非存在主義のお得意とする話だ(笑)。とはいえ、この2bにも問題はあって、この考え方では事物にまつわる真偽判断の際に引き合いに出される属性が、当の事物の属性とはならず、思考される内部世界での属性にしかならないことになってしまう。13世紀末から14世紀初めに活躍したフェヴァーシャムのシモンや、ブラバンのシゲルスなどは、ここから修正的議論として「名前が示すのは事物の本質それ自体である」という説を唱え、スコトゥスの弟子にあたるアンドレアのアントニウスなどもシモンの説を支持しているのだそうだ。スコトゥスはそこまではいっていないのだとか……。

この論考はまだ読みかけなので、この話も続くかも(笑)。

↓wikipedia(en)より、ユストゥス・ファン・ヘント(15世紀)画によるドゥンス・スコトゥス

存在の一義性……

邦語で読めるスコトゥス本がまた一冊登場。山内志朗『存在の一義性を求めて−−ドゥンス・スコトゥスと13世紀の<知>の革命』(岩波書店、2011)。そのこと自体すでにして大歓迎ではある。かねてから西欧のスコトゥス本や論文が、スコトゥスのテキストそのものの手触り(ときにどこが自説だかわからなくなるほど錯綜したりもする)をいっさい顧みず、かなり鋭く議論を切りとって端的に示すことに、時には舌を巻いたりもするものの、時には大いに違和感を覚えたりもしていたのだけれど、同書はそれとは正反対のことをやろうとしているように見える。つまり、スコトゥスが提示した概念を、その思考の流れみたいなものを絡めてすくい上げようとしているような感触だ。それ自体は誠実な探求ではあるのだけれど、ただ時に今回は逆にちょっとやりすぎの感じもしなくもないかな……と。専門論文的なテーマが設定されているわけではなく、かといってスコトゥス思想の全体像を描く概説書でもなく、著者が何をどう切り出そうとしているのかが今一つはっきりしない局面も、一読しただけでは散見されるように思えるし(実はそのようにして取り上げられるスコトゥスの諸概念が、いずれも相互に有機的に繋がっていることは後からわかる仕掛けになっているのだけれど)、さしあたっての語りが向かう方向すらも一見曖昧だったりする。全体的に、スコトゥスのテキストそのものとはまた別の意味での「もやもやした感じ」を通底音のように残しつつ、関連事項を行きつ戻りつしながら話は少しずつ進んでいく。なにやらこう、じれったい感じ……(笑)。

でも知見としては興味深いものも多く、たとえば一般に言われるフランシスコ会とドミニコ会の対立といった図式に疑義をはさみ、スコトゥスが向ける批判がむしろガンのヘンリクスであってトマスなどではないことや、そのヘンリクスに対しても最初から対立していたわけではなく、ヘンリクスの教義を修正・補完しながら自説を作り上げていったとされること、さらに後の オッカムとの関係も、完全な断絶の相で見ることは誤りであるといったことなどは、連続の相でもって思想史を見るという同書全体を彩るトーンにもなっている。表題でもあり中心テーマでもある存在の一義性も、有限的な存在の人間が無限の存在の認識に至るための方途、神と人間の不均衡を架橋する方途としての面が強調されている。なんだか「安易に断絶を認めないこと、概念装置を文脈から切り離さないこと」と戒めているかのようでもある。「熊野古道を本で読んだり、テレビで見ても仕方がないように、哲学もまた自分で歩んでみること以外には、体験したとはいえません。哲学の理論の結論だけを知って、分かったつもりになるぐらいつまらないことはないのです」(p.126)という著者の、なるほどこれはスコトゥスをめぐる一つの歩き方・歩き様の実況のようなものなのかもしれない。

政治哲学の曙 2

アンドレ・ド・ミュラ『政治哲学の統一性』。後半部分についても基本線を押さえておこう。ドゥンス・スコトゥスは質料を不定形の受容体とは見なさずに、形相とは分離した(分離可能な)一つの客観的存在と考えた。これはそのまま政体の議論にも平行移動される。つまり、政治形態(形相)とは別に、群衆(質料)はそれ自体ですでにして組織だっており(その組織化の原理に自然法や社会契約の考え方が胚胎している)、一つの客観的存在と見なすことができるという考え方だ。後にスアレスに引き継がれるこの考え方は、大きな断絶をなしている。それまでの神権政治の考え方(それはつまり形相がすべてを統制するという立場)に代わり、群衆が政体もしくは指導者を選択するという考え方、民主政治の萌芽が、まさにそのスコトゥスの質料論にあったのではないか、というわけだ。オッカムにおいてはいっそうラディカルに、すでにして組織だった群衆(社会的身体)に対して、指導者(教皇や君主)を立てる必然性すらなくなってしまう。近代的政教分離の萌芽、アナーキズムの萌芽、……。

もちろん民主制自体は古代からあるわけで、どうやら著者は、そちらでも理論的支えをなしていたのはアリストテレス思想だったと見ているようだ。そちらの質料形相論では、質料と形相とに同じ実体の二つの面を見ていた。その質料形相論は、アナロジカルな思惟の構造を決定づけたという意味で、西欧においてもっとも包括的かつ普遍的な思想だった、と著者は考える。スコトゥス=オッカムの思想はその一つの亜種をなしているにすぎない、みたいな。とはいえ、近代初期の政治思想を長きにわたって支えることになるのは、その亜種にほかならなかった、と。

スアレスにおいては、群衆は自然な目的(つまり共通善)によってすでに統合された「神秘体」を形作っているとされ、その「民主制」こそが自然本来の状態だとされる。そこにおいて君主には政治的統一の権限が委託されるわけなのだが、実際には一度委託されてしまうと罷免できないという意味で、神秘体の側からすると、いわば自然法・自然状態の放棄なのだとスアレスは論じているらしい。なるほど自発的隷属の起源が、そこに見て取れるというわけか……。著者はこれとの関連でスピノザ、ホッブス、ロック、ヒューム、ミル、そしてルソーを、一気に駆け抜けてみせる。

著者の議論全体を集約し下支えしているのは、なんといっても、スコトゥスやオッカムの質料形相論が、彼ら自身の政治思想、ひいてはその継承者たちの政治思想を「アナロジカル」に支えているという、その一点に尽きると言えそうだ。著者はみずからの方法論を「思惟の構造の分析」と称して、そうしたアナロジカルな思惟の拡がり具合を例示したりもしている。うん、細部にはおそらくツッコミどころもありそうだけれど、巨視的にはなかなか面白い議論。アリストテレス思想の近代までの拡がり具合を、政治思想の面から示してみせた、というところが刺激的だ。